第11回 | ナノ

 一族の魂が眠る地。その地で生を受け、死を迎えることを誇りとしてきた一族たち。ひとりひとりの思いが降り注ぐ地。
 その地を去り、新たな地に移り住んでから幾度太陽が昇り、幾度月が昇っただろう。
 わたしたちは現在(いま)を幸せに暮らしている。
 過酷とも云える旅を終え、目的を果たすことの叶った玉依姫たち一行は季封へと戻っていった。
 玉依姫たちには随分と助けられ、世話になり、返し切れないほどの恩を受けた。
 もし、玉依姫とアテルイが日の本の民の村に来てくれなかったら、きっと未来は無慈悲で、残酷なものになっていただろう。
 わたしたちは怯えていた。いつ、朝廷に村を焼かれ、家族や友人たちを虫けらのように殺されるか不安で堪らなかった。惨めな扱いに辟易とし、生きることを諦めようと思った者も少なくないはずだ。
 でも、今は違う。今は生きることを幸せだと感じることができる。心から笑うことができる。
 それは全て、玉依姫の献身的な優しさに触れ、掛けられる言葉の有り難みに心を打たれたからだ。
 復讐するのではなく、家族や仲間たち、愛する者と生きるために朝廷の目の届かないところに逃げること――それは、とても辛い決断だった。朝廷を恨みながら死んで逝った者たちに顔向けできない決断だった。
 愛する地を捨て、哀しみだけを抱えて逃げることになんの意味があるのかと、皆が皆、哀しみに暮れ、悲嘆に憂いだ。
 だが、玉依姫の言葉がわたしたちを変えた。
 朝廷を憎いと思う心は変わらないし、この思いは決して消えることはない。けれど、復讐したところで死んで逝った仲間たちは帰ってこない。復讐は復讐を生み出すだけで、きっとそれはとても哀しいことで、虚しいことで、自分を見失っていく行為なのだと思う。
 玉依姫はそれを理解していた。だからこそ、仲間たちと生きることを説いてくれたのだろう。
 アテルイは200年前の悲劇と板挟みになっていた。酷く苦しんで、酷く悩んでいた。けれども、アテルイは逃げることを選んでくれた。
 200年もの間、ずっと復讐することだくを考えて、生のすべてを注ぎ込んできたアテルイには酷とも云える決断だっただろう。しかし、そんな強固な心を玉依姫は優しく、慈しみながら解きほぐした。幻灯火様を癒した毒で、アテルイの心をも癒し、変えてしまったのだ。
 わたしには真似できないことだった。羨ましくもあり、妬ましくもあったけれど、わたしが嫉妬を覚えるなんておこがましいほどに、玉依姫は強くて優しくて、綺麗な人で。そんな人に惹かれてしまうのは仕方ないことだと思ったし、アテルイはきっと玉依姫の下に残るだろうと思っていた。
 けれども、玉依姫を選ばなかった。アテルイは一族と海を渡り、新たな地へ移ることを選んだ。
 嬉しかった。一族を選んでくれたことがすごく嬉しかった。
 玉依姫ではなく、一族を選んでくれて良かったと醜い歓喜を覚え、そんな卑しい心をもった自分に自嘲しつつも、内に渦巻く嬉しさは変わらなかった。





「……ゆ…め…?」

 呟いて、重い瞼をそっと押し上げた。
 先程まで見ていた夢が残像を辿るように脳裏を過る。懐かしい夢だなと心の中でぽつりと言葉にする。
 わたしは瞼を閉じた。もう一度眠りに就こうと眠気を誘い込む。けれど、目が冴えてしまったのか睡魔は一向に訪れない。
 何度目かになる寝返りを打つ。小さく息をついて、わたしは寝具から身を起こした。
 どうせこのままでいても眠りはやってこないだろう。
 わたしは懐かしい夢の名残を抱えたまま、外へと出た。
 外は昼とは違い、漆黒に彩られていた。黒に染まり、黒に支配された時間。
 夜空には月と星がある。闇夜を照らすように存在感を主張しているそれらは、下界に優しい光を注いでいた。
 辺りに人の気配はない。微かな虫の鳴き声と風に揺れる葉音が聞こえてくる。周りは暗くて、視界も悪いけれど、月明かりのお陰で歩く分には困らなかった。
 冷たい風が頬を撫でる。目を細めながら身を竦めるも、歩み続ける足は水がせせらぐ小川へと向いた。
 足裏に砂と小石、草と落ち葉を蹴る音が耳に届き、それから直ぐに歩みを止めた。
 わたしは揺れる水面を見た。水面には月が写っている。どこか神秘的な光景に目元と口元が綻ぶのを感じた。

「……綺麗……」

 小さく呟いて、ほっと息をつく。そうしてしばらくの間、飽きもせずにその光景を見ていると、後方から「おい」という聞き慣れた声が聞こえてきた。不意をついたようなそれに、ビクリと肩を震わせる。わたしは後方に視線を向けた。

「……アテルイ、」

 どうしたの、と尋ねると、「ひとりで出歩くな」と言われた。わたしは首を傾げる。

「ひとり? でも、村からは離れてないし…」

 そんなに心配しなくても、と続けようとするけれど、アテルイの発した言葉と向けられた眼光に、わたしは言葉を詰まらせた。

「ここには獣が降りてくる。直ぐに戻れ」
「獣…」

 わたしは目を見張った。

「本当に?」
「嘘を言ってどうなる?」
「…………」
「…、獣は夜行性だ。月が出ている夜は活発化する」

 その言葉に、わたしは辺りを見渡した。そして、わたしの焦りを見透かしたかのように、獣の哭き声が林の向こう側から聞こえてきた。
 わたしは肩を揺らした。同時にアテルイの舌打ちが耳に入る。

「なまえ」
「え、」
「もたもたするな。……来い」

 言って、アテルイはわたしの手を取った。ぐいっと引っ張られ、態勢が崩れそうになるけれど、どうにか立て直してアテルイの歩調に合わせる。
 小走りになりつつも、わたしは必死にアテルイを追いかけた。置いていかれないように、アテルイの大きな手を握り返して、手のひらから伝わってくる温もりを確かめるようにぎゅっと力を込める。

「……心配、してくれたんだよね…。ありがとう」
「…………」
「ありがとう、アテルイ」

 アテルイは何も喋らない。
 面倒なのか、答える必要はないのか、ただの気まぐれなのか。それは分からない。
 でも、こうして迎えに来てくれたことが、すごく嬉しくて。
 先程、夢に見た懐かしい残像が、アテルイから伝わってくるあたたかさに塗り替えられていくような気がして、少しだけほっとして、少しだけ哀しくなった。どうして哀しいのかは分からない。でも、苦しいことではない。それだけは分かった。
 だからきっと、このままでいいのだ。このまま、アテルイの手を離さずに、こうして繋いでいてもいいのだ。
 わたしは笑みを浮かべた。今までで一番、幸せに笑えたような気がした。

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