第10回 | ナノ
 手のひらの上に乗せた繊細な造りの髪飾り。花をモチーフにした細工のそれは素人目線から見ても結構な価値があるものだと分かる代物だった。
 誰かに贈られたものか、己で購入したものかは判別できないが、大切に扱ってきたということは目にした瞬間伝わってきた。
 本当に大切にしてきたものだろうと思う。
 わたしはそれを物悲しげに見つめながらきゅっと唇を噛んだ。
 この髪飾りはわたしの親友が残していったものだ。いや、残していったというよりも置いていったというほうが正しいだろうか。
 こうして眺めていると親友の最後がちらついて仕方がない。最後に見た姿が嫌でも蘇ってくる。思い出してしまう。目の奥に焼き付く光景、脳髄に刻まれた残像。わたしはすっと目を眇めた。





 あれは数日前に遡る。
 部隊に物資、資金すべてが揃った頃に行われた外壁調査の最中、同じ班として行動していたわたしたちは何体もの巨人と何度も戦闘を会した。出だしは好調だったが、次第に仲間は次々と減っていき、気力体力ともに磨り減っていった。幾度となくまみえる戦闘に何もかもを持っていかれてしまうような、そんな危うさを抱いていた。
 馬を走らせ、息を切らしながら幾度目かの戦闘に入ろうとしていたときに、親友の立体機動装置に異変が起こった。アンカーを射出する装置が故障してしまったのである。しかし、そのままというわけにもいかず、親友は巨人の攻撃を受け、回避できなかった親友はその際に両足を失った。わたしは無我夢中で巨人に立ち向かい、巨人を倒すことができた。けれども、手放しで喜べはしなかった。わたしは泣きそうになりながら親友の傍に駆け寄る。だが、惨状を目の当たりにして、わたしは息を飲んだ。親友の足からは多量の血が今も尚吹き出していた。地面に広がり、じわりじわりと染み込んでいく。わたしの背中に嫌な汗が流れた。頭に過ったのは“助かない”その言葉だった。ここが壁の外でなければまだ見込みはあっただろうが、この状況の中では助かる見込みなど万に一つもないだろう。
 周囲の巨人は粗方片付けたため巨人がいないことだけが唯一の救いと言えたが、何もできない無力な自分を激しく叱咤した。
 親友は血の気を無くした白い顔で苦しんでいた。痛がっているのに、唇を震わせて、死ぬことに恐怖しているのに、こんなときでさえ気を紛らわせることすらできなくて。息が浅くなり、体温が低くなっていく親友の姿をただただ見ていることしかできなかった。
 わたしは叫んだ。こんなところで死ぬなと。こんなところで死ぬなんて馬鹿げていると。
 そんなわたしを、親友は光が薄くなった目で見つめた。そして最後の力を振り絞り、命が尽きようとしていたときに血濡れた手で髪飾りを渡してきた。「約束、守れなくてごめんね。…一緒に生きようって言ったのに……ごめん」そう言って、親友は事切れた。
 わたしは年甲斐もなく泣き続けた。何もできなかった自分を恨むことしか、そんな自分を嫌悪することしかできなかった。
 そのあと、わたしを拾ってくれたのがリヴァイ兵長だった。わたしの馬を引き連れて「おい」と声を掛けてきた。でも、わたしは動く気になれなかった。ずっとこのままでいいとさえ思ってしまった。
 そんなわたしを見兼ねてか、親友の傍らに蹲りながらわんわん泣きじゃくるわたしを、兵長は無理やり立ち上がらせた。「行くぞ」それだけ言って、わたしの腕を掴み、その場を去ろうとする。わたしは腕を振り払おうと力を込めた。「嫌です。兵長、離してくださいっ!」そう言うけれど、兵長の腕は解けなかった。解けないどころか力が増した。わたしは顔を歪めながら兵長を睨み付けると、兵長はわたしを見ていた。表情を無くした顔だった。でも、兵長の瞳には色んな感情がまぜこぜになったものが揺れているように見えた。

「お前は貴重な戦力だ。こんなところでお前を失うわけにはいかない」
「っ……」
「分かったら動け…。ここにはもう用はねぇだろ」
「な…っ! 用ならありますっ!」

 わたしは怒りを露わにしながら声を張った。

「こんなところにあの子を置いてなんかいけない! こんな淋しいところに……あの子、を…っ」

 嗚咽が洩れた。兵長の言っていることは正しかった。でも、死体だろうと、彼女はわたしの親友だ。命が尽きたからといってこんな場所に置いていくことはできなかった。

「いい加減にしろ」
「…………」
「ここで喚いたところで何も変わりはしねぇ。状況を理解してから物を言うんだな」
「っ…わ、わたしは…!」

 わたしは声を上げて意見しようとするけれど、言葉を発する前に兵長に遮られた。

「お前はなんのためにここにいる」

 その言葉によりじわじわと競り上がっていた怒気がすっと醒めていく。わたしは目を見張った。

「なんのためにここに立ってんだ?」
「ぇ、」
「そこにいる兵士のためか?」
「…………」
「ここに残って死ぬためか?」
「…………」
「答えろ」

 緊張のせいか唇も口内も喉も乾いてしまっている。兵長の発する殺気のような緊張感の中、わたしは内心で小さく息をつくと、そっと口を開いた。

「巨人を……一匹残らず…駆逐するため、です」
「はっ…。分かってるじゃねぇか」

 兵長はにやりと口角を上げた。そして、わたしの腕を強く引き上げる。僅かに痛みが走った。

「分かってるなら後ろは振り向くな」
「………」
「前だけを見ていろ」

 兵長の言葉とその言葉に込められた意味を理解した。
 ここで立ち止まっているわけにはいかない。
 わたしは顔を上げた。不安や悲しみ、苦しみ、そういったものしか露わにしていなかったそれをかなぐり捨てた。
 親友との、彼女との、誓いを思い出す。

『どっちが死んでも必ずわたしたちの役目を果たそう。どんなことがあっても巨人を倒すために全力を尽くそう。大切な人を、わたしたちの居場所を守るために戦おう』

 わたしたちには同期がいた。訓練生の頃からの顔馴染みが調査兵団にいた。寝食を共にしてきた仲間たちだった。でも今は、ほとんどいなくなってしまった。調査兵団の同期生は片手にも満たないほどの数になってしまっている。それでも尚、わたしたちはわたしたちのために戦おうと人類に捧げた心臓にわたしたちの誓いを刻み込んだ。それを無下にすることはできない。例えこの寂れた場に親友の亡骸を置き去りにしようとも、わたしは前を向かなければいけない。前に進まなければいけない。ここで立ち止まるわけにはいかないのだ。
 わたしは涙で滲んだ目元を少し乱暴に拭った。
 強い決意をその瞳に宿し、兵長に視線をやる。それを受けた兵長がほんの少しだけ目を見張り、微笑を口元に乗せるとそっと口を開いた。

「いい目だ」





 走馬灯のように脳内に駆け巡る記憶の残滓を追いかけるように思い出しながら、わたしは髪飾りをきゅっと握り締めた。何も物を言わない髪飾りはただ冷たいままだ。それがどこか寂しくもあり、虚しくもあった。
 わたしは髪飾りを両手で包み込むようにして浅く息をつき、そして、隣の存在に目を移した。そこにはわたしの上司であり、体の関係をもつリヴァイ兵長の姿があった。
 わたしが今現在こうして物思いに更けながら身を置いているのは寝台の中で、その寝台がある部屋は兵長の寝室だった。
 昨夜も業務が終業したと同時に食事もそこそこに寝台に雪崩れ込んだ。互いの衣服を剥ぎ取り、肌を合わせ、体温と快楽を求め、獣のように互いを貪り合った。その場限りの一時の情事だけれど、わたしたちはその熱に浮かされている。生きていることを確かめ合うように、生きていることを実感するために、わたしたちは何も生み出さない行為を繰り返している。
 名付けようのない関係と胸の内にひしめく感情に疑問をもったことは幾らでもあったけれど、わたしは知らないふりをした。
 これ以上大切なものを作れば耐えきれなくなる。そして、その大切なものを再び失えば今度こそわたしは正気ではいられなくなるだろう。
 だが、それ以上を求めなければどうとでもなる。誤魔化し誤魔化しでいればまだ立っていられる。だからこそ、楽な方へ逃げてしまうのだ。
 なんの解決にもならない逃げ方だけれど、わたしにはそうすることしかできない。いつ命を落とすとも知れないわたしたちにはそれが一番最良で最善の方法なのだ。

(兵長、)

 決して大切な人ではない。大切なのはこの髪飾りを置いていった彼女だけだ。
 でも、それでも、一緒に生きてほしいと思う。死んでほしくないと思う。この地獄のように残酷で無慈悲な世界で一緒に生きてほしいと思う。
 わたしはそっと目を瞑った。
 脳裏に親友の姿が過り、続いて兵長の姿がふわりと過る。じくりと胸に痛みが走った。わたしは顔をしかめた。
 変わろうと思えば変われる位置にいるのは事実だった。わたしが一歩踏み出せばこの関係は一変するだろうということも理解しているつもりだ。だが、それをしないのは変わることへの不安が拭えないからだ。大切なものを失う恐怖に抗えないからだ。
 しかし、そうは思っていても兵長と関わりたいし、傍にいたい。離れることは簡単だったが躊躇われた。離れてしまったらもう戻れないと思った。
 煮え切らない想いが更に自分を苦しめているのに想いは強まるばかりだ。
 本当に難儀なものだと思う。本当にわたしは我が儘だと思う。

「…………」

 言葉にならないそれを吐息と共に吐き出すと、髪飾りを胸に抱きながら兵長の隣に身を沈めた。物言わぬ背中を眺めつつ、ふと触れたい衝動に駆られる。けれども、それを必死に押し留めながらただただ逞しくも寂しげな背中を見つめた。
 もうそろそろ夜が明ける。また一日が始まる。こうして一日一日を無事に生きていることをわたしは安堵し、生きていることを実感する。
 生きることはこんなにも苦しくて辛い。そして、胸の内に抱える気持ちというものも生きる以上に苦しくて辛いものだ。生きていく上では付いて回る感情なのだから当然かもしれないが苦しいだけならこんなものはいらないと思った。でも、人間に感情が備わっていなければ、嬉しいや悲しいといったものは生まれなかっただろう。いや、巨人のように本能を剥き出しにしたまま、動物のような生活を強いられていたかもしれない。そう考えると何が良いのか悪いのか分からなくなってくるが、きっとこれで良かったのだと思う。生きていくには辛すぎる世界だけれど一緒に歩んでくれる人がいるだけで少しだけ安心できる。少しだけ勇気づけられる。
 わたしは震える手を彼の背中に伸ばした。指先にほんのりと温かさが伝わってくる。その温かさを受けて目頭が熱くなった。視界が涙の膜で霞んで見える。そっと瞬きをすると、頬に涙が流れた。
 わたしたちはまだ生きている。ちゃんと息をして、ちゃんと生きている。それを感じるために兵長の背中に縋るように指先を這わせた。命の温かさがじんわりと伝わってきた。
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