第10回 | ナノ
真紅の光が揺るぎなく視界を染めて、彼方へと沈んでいく。宵の明星は黄昏時の空を一層尊いものにした。甘ったるい夕焼けに照らされた土手が目に染みる。感傷に浸るわけでもないが少しの間一人でいたい、そんなときによく使うのがこの場所だ。隊服のまま寝転がれば、芝生の香りが鼻につく。街中の喧騒も嫌いではないが、今は香水や酒の匂いから遠ざかりたかった。何も考えたくないときに限って、今夜はどんなふうに過ごそうかと悩んでしまう。屯所の食堂で夕飯を食ってから一体何をすればいいのか。暇を持て余したくないのに、夜勤も入っていなければ溜めがちな始末書さえ見つからない。いっそのこと、適当な仕事をでっち上げてしまうのはどうだろう。張り込み中のザキのところへ押しかけて、あんぱんでも投げつけてやろうか。差し入れと称して、土方さんの部屋へタバスコ入りの甘味を持っていこうか。

「…くだらねェ」

独り言に返事はない。つまらない思いつきは絶えないが、ちっとも愉快な気分になれない俺は小さく舌打ちをした。一人とは、そういうものだ。何を企もうと誰にも邪魔されない、それはそれでやる気を削がれると初めて知った。風に靡いた前髪がうざったくて眉を潜めると、自然と口元に力が入ってしまう。散歩をしている老人、遊んでいた子供。歩き慣れた家路を辿る姿は、どいつもこいつも幸せそうだ。勿論、俺にも帰るところはある。ただ、つい数時間前に知った事実が両足を鉛の如く重くして、一向に動けなかった。世界は満ち足りている。少なくとも、俺以外は。

「沖田隊長、探しましたよ」

眠いわけでもないのに瞼を閉じたところで、頭上から聞き慣れた声が落とされる。まだソイツの姿を見たわけでもないのに、どういう顔をしながら俺に呼びかけているのか簡単にわかってしまった。ゆっくりと目を開ければ、声の主は俺の顔をまじまじと覗き込んでいる。近すぎるだなんて文句も、何度言ったか数え切れない。みょうじなまえ、一番隊の平隊士。斬り込み部隊として面倒な現場を数多くこなしてきたくせに、なかなか弱音を吐かない女。正直な話、コイツが一番隊に配属されたときはお荷物程度にしか考えていなかった。数ヶ月働けばマシなほうだし、いつ辞めるか賭けてもよかったくらいだ。だが、みょうじはしぶとかった。常にへらへらと笑っているくせに誰よりも諦めが悪く、現場で一度抜刀すれば不利になっても逃げ出さない。図太い根性だけは認めてやってもいい、そう思い始めたのはつい最近のことだった。

「大して探してもいないくせに」
「そうですね、隊長のことは何でもわかりますから」

コイツは他の誰よりも早く俺を見つける。いつも上司の尻拭いばかり押しつけられ、文句だって遠慮なく言ってしまう生意気な部下。言い換えればそれだけ俺のことをよく理解しているのだろう。このまま一番隊に留まるなら、そろそろ役職を与えてもいい。幸い隊長職は雑務も多く、面倒事に慣れているアイツにうってつけの立ち位置がある。真選組、一番隊副隊長。後は任命の日取りだけだと目論んでいた矢先の出来事だった。寝耳に水ならぬ寝耳に熱湯の勢いで、容赦ない現実が突き付けられる。俺の願いなんて、何一つ叶えてやらないと言わんばかりに。

「知りやせんでした」
「何がですか?」
「アンタが明日付でその隊服を脱ぐって話」
「沖田隊長が言うと、何だかいやらしいですね」
「話逸らそうったって無駄ですぜ」

俺の隣にしゃがみこんでいるコイツとの距離は埋めず、代わりに言葉で追いつめる。咎めたところで未来は変わらないと知っているのに、そうしなければいられない。やがて観念する気になったのか、コイツは俺と目を合わせて柔らかく微笑んだ。

「…ぎりぎりまで秘密にしてくださいって、局長と副長に頼んだんです」

明日から見廻組で働きます、とごく自然に付け足される。ずっと前から温めていた思いが報われたような物言いは、俺の神経をあっさりと逆撫でた。コイツはそこそこ頭もよく、松平のとっつぁんの遠い親戚だとかで生まれも育ちも悪くない。そんな境遇を利用して、見廻組に入隊したいと懇願したのは他でもないコイツ自身だ。近藤さんと土方さんは止めたものの、みょうじが二人を必死で押し切り、半ば無理矢理話を進めたらしい。何よりムカつくのは、俺がこの話を聞いたのはコイツの退職前日だということで。しかも山崎がうっかり口を滑らせたから知った、なんて展開も気に入らない。腹が立って仕方ないのは、一体何に対してなのか。感情の出所を追及するより先に、俺は言葉を畳みかけた。

「あんな白装束みたいな隊服、アンタに似合うと思ってんですかィ?」
「いいじゃないですか、白。烏みたいな真っ黒な上着より可愛げがありますよ」
「こんな暴れ馬が白の隊服なんて着たら、一日でダメにしまさァ」
「ちゃんとクリーニングに出しますから」
「給料全部クリーニング代に消えちまうってか」
「それでも行きたいんです、いつか沖田隊長を超えられるように」

語られた決意は、迷いを微塵も感じさせない。形ばかりの栄転は、コイツなりに考え抜いた結果だろう。見廻組で昇格すれば、幕府にも一目置かれる。そうなれば松平のとっつぁんや真選組の名誉に繋がると信じて疑わないのがコイツだ。

「沖田隊長を超えたいんです。尊敬だとか、憧れだとか、綺麗事で片付けられなくて…だから」

感情をうまく言葉にできないのは相変わらずなのか、みょうじはいつのまにか俯いてしまった。俺だって同じだ。手に入らないものばかり欲しがって、こんなにも苦しんで。

「真選組一番隊隊長の座は、そう簡単に譲りやせん」
「見廻組一番隊隊長でも?」

コイツがぱっと顔を上げた瞬間だった。反射的にコイツを引っ張ると、呆気なく華奢な身体は俺の上へと倒れ込む。そのまま両手で捕まえてしまえば、逃げ場なんてどこにもない。二つの心臓がくっついてしまう距離で、俺はコイツの耳元へと唇を運んだ。

「生意気」
「な…」
「なってから言いなせィ」

力を込めて抱きしめると、絞り出したかのような言葉が漏れた。

「真選組の名に恥じないよう、誰よりも強くなります…っ」

目元に溜まった水を親指で拭いてやると、みょうじはよろよろと起き上がろうとする。コイツの決意を信じてやりたい。素直にそう思えるうちは、まだ大丈夫だろう。

「一番隊副隊長は当分欠番でさァ」

漏らした言葉がコイツの耳まで届かなくても、諦めるつもりはなかった。願いなんて簡単に叶うはずもない。だからこそ求めずにはいられない。

俺の願いを、いつか必ず。



「帰りやすぜ」
「はい」

立ち上がった二人の陰は黒く、隊服の色そのままだ。端から見ればこれが最後の帰り道だが、悲観も落胆もしていない。簡単に叶わないからこそ、いつだって信じて止まない明日がある。今はまだ遠くにある二人の未来が重なるよう、俺はそっとみょうじの影と交わった。
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