第1回 | ナノ
校舎の一階にある音楽室から聞こえる歌声。アルト、ソプラノ、バスやテノールと様々ではあるが一際、彼が耳を澄ませたのは音楽室からの歌声ではなかった。その隣にある音楽準備室から聞こえる中学生にしては高らかに堂々と歌い上げるソプラノだ。

彼、宍戸亮はテニス部に所属し、ランニングの最中だ。宍戸亮という男は部活に熱心な上、芸術よりも運動だろ!と笑う男。そんな宍戸は毎日のように通る音楽準備室の前で聞こえる歌声についつい、聞き惚れていた。

「亮?」
「何だよ?」

宍戸の隣で飛び跳ねながらランニングをするのは向日岳人。赤いおかっぱの髪を鬱陶しそうに避け、宍戸の前に出た。元来、負けず嫌いの宍戸はそんな些細なことにさえも、ムッとしてしまう。ほんの少しスピードを上げて向日の隣に並ぶ。

「亮さ最近、ここ通ると顔がニヤニヤしてんじゃね?」
「はぁ!?んな訳ねぇよ!」
「そうかぁ?」

向日は氷帝テニス部の中でも目敏い。人の感情の機微を感じとることに秀でている。最も、向日と宍戸は幼なじみなので、そうでなくとも分かられてしまう。

「あー…知ってる?」
「んあ?あぁ」

宍戸は音楽準備室の前で足踏みをして、向日の首ねっこを掴んだ。ぴょんぴょん跳ねる向日。宍戸は自分たちが覗きをしているとばれたら堪ったもんじゃねぇよ!と幾分、視界の下にある向日の頭をグッと押さえ付けた。

向日は頭を押さえつける宍戸の手を振り払い、窓から覗き込んだ。

「みょうじ。下はなまえだったかな。一年ん時同じクラスだったぜ。今は侑士のクラスじゃねえかな?」

宍戸は初めてしっかりとなまえの顔を認識した。今まではなまえの声を聞いていただけで、まともに顔を見たことはなかった。

それに誰かに彼女の正体を尋ねることも宍戸の性格上、出来なかった。今日ばかりは覚悟を決めたといったところだろう。向日はクスリと笑った。あの亮がねえ。女子の名前を積極的に尋ねることのない幼馴染の変化に嬉しくなるも、浮足立つ。

「声かけねえの?」
「なんでだよ?」

むしろ、なんでだよ!と向日は食ってかかる。ただし、好きなんじゃねえのかよ!という言葉を飲み込んで。忍足にであれば遠慮なく言うところだが、幼馴染の性格を熟知しているからこそである。

自分の成長にほくそ笑む向日に対し、窓の向こう側を直視出来ずにそっぽを向く宍戸。傍から見れば、ランニングをさぼっているだけ。抜き去る部員たちの怪訝な表情には気付いていない。

「みょうじか」
「何してるの?」

宍戸が独り言ちた時、滝が現れた。額には汗を浮かべ、首に巻いているタオルで首筋を拭う。滝はランニングの際に、最後尾を意図的に任せられている。脱落者やさぼりを監視するためだが、そんなことをする部員はいないので、ほぼ体調不良者を拾うことが多い。

「さぼり?」
「まさか勘弁しろよ…。クソクソ!亮のせいだぜ」
「あ!なまえさん」

窓際で立ち尽くしていた二人は急に現れた滝が、なまえを呼ぶことに目を丸くした。

「萩ちゃん!テニス部は大変だねえ」
「なまえさんだって一人だと辛くないかい?」
「ちょっぴり」

滝となまえの関係が掴めない二人はただ、防戦としていた。向日に至っては、亮の失恋だなと一足飛びに考えていた。

いくらか言葉を交わし、長居は出来ないからと話を切り上げた滝。何でもないことのように走る滝に宍戸たちは並走し、関係を尋ねた。

友達だよ。滝は額の汗を拭った。倣うかのようにダラダラと流れる汗をユニフォームで拭うのは宍戸だ。向日は耳をそばだてた。

「そうだ。宍戸、話しかけてごらんよ。なまえさん、話したがってたから」
「お、おぅ…」

唐突な提案を受けた宍戸は被っていたキャップを目深に被り直し、脱兎のごとく走るスピードを上げた。速さには部でも定評のある宍戸。残された二人はどちらともなく顔を見合わせた。

「みょうじと滝ってさ」
「付き合ってるとかじゃないからね。女子で一番仲が良いんだ。向こうもそうじゃないかな。なまえさんの口からでた名前って僕を除いたら、宍戸ぐらいだし」
「それって!」
「さあね」

含み笑いをする滝、幼馴染の恋路ににやける向日の二人がランニングを終えてテニスコートに戻ると、宍戸は落ち着かない様子でラケットを手で遊ばせていた。


滝からなまえの話を聞かされて一週間。ランニングのグループ分けが別になっていた宍戸と向日。一週間ぶりに重なったグループで二人は前方を走ってはいなかった。代わりに滝が他の部員を引率するかたちをとり、二人が最後尾にいた。

ランニングをスタートする時、滝は向日に耳打ちした。なまえさんに声をかけるように言ってあるから、と。世話好きな滝がこういった恋愛ごとまでも世話をしてくれるのか。

滝はなまえさんから話してみたいと頼まれたことも明らかにした。単に、話のネタが欲しい訳じゃあないよなと世話好きな友人に感謝を述べ、敬礼をした。

「岳人?何やってんだよ」
「今行くっつーの」

お前の為だろうが!と言いたいのを堪えた向日はいつも通り最前列へと走り出す宍戸を最後尾に引きずった。

「何するんだよ…!」
「クソクソ!お前の為だっつーの!」

結局、向日は先ほど飲み込んだ言葉をあっさり口にしていた。しまった!慌てる向日の真意には気付かない宍戸。この時ばかりは少々鈍い友人にで良かったと胸を撫で下ろす。

音楽準備室の前へ来ると、向日が呼ぶ間もなくなまえは待ち侘びていたかのように小走りをしてきた。そっと体を乗り出すなまえ。宍戸は目が離せない。

「みょうじなまえ、よろしく」
「あぁ、宍戸だ」
「いつもは先頭にいるのに今日はなかったから、お休みかと思ったの。だって、最後は萩ちゃんでしょう?」
「それは滝がたまには先行を取りたいってさ。みょうじ、俺は分かるだろ」

向日くんね。知ってるも何もと楽譜を抱え直すなまえ。目立つし人気者だものと付け加えた。

音楽準備室にただ一人。宍戸は向日となまえの想像以上の親しさも気にはなったが、一人で練習する意味も気になった。

「どうして一人なんだ?」
「ソロがあるから。でももうすぐ本番が近いからそろそろ合流するの。だから、しばらくはこの時間にここにいることはないかな」
「けどさ、なんで音源がピアノとかじゃない訳よ?」

深い意味があるのよ、となまえは人差し指を立てた。まるで謎を解き明かす探偵のような仕草に宍戸は思わず吹き出した。なまえはそんな宍戸にムッとすることもなく、続けた。

「もう一人、男子のソロがいるの。で今の三十分は彼の番。それだけよ」
「大した理由じゃねえのな。つか、そろそろ行くわ。さすがにマズイぜ岳人」

確かに。向日はテニス部のランニングの掛け声が近いことに気付いた。周回遅れを取り戻すのは簡単だが、余力を残してラケットを握りたい。それは二人とも同じだ。

すると、なまえがちょいちょいと手招きをした。さほど窓から遠くない位置にいた二人だが、向日は宍戸の背中を押した。

「な、なんだ?」
「あのね…」

なまえはそっと宍戸にさえも聞こえるかどうかというくらいの囁きをした。なまえの熟れた果実のようなシャンプーの香りが宍戸の鼻を擽る。あまりしたことのない経験に、宍戸は頭に血が上り、心臓がばくばくいっているのが分かった。跡部と全力で試合をやる時とは違う緊張やドキドキだ。

「は…?」

聞き直した宍戸になまえは一言、声にならない言葉を送った。言葉の意味を悟った宍戸は被っていた帽子をおもむろに取り、ギュッと握りしめた。宍戸の様子を可笑しいと感じた向日。

「どうしたよ」
「なんでもねーよ!」

帽子で顔を隠す宍戸。向日は宍戸の顔が赤いことに気付いた。亮もそういう時期が来た訳ねぇ。改めて実感し、思わずにやける顔をパチンと両手で引き締めた。

「いくぞー」
「おぅ…」

俺の良心に感謝しろよなぁ。向日は宍戸の淡い初恋が実ることを祈り、そっと胸にしまった。今日もランニング日和の晴天。一際、耳に留まるあの女子の歌をハミングするのは向日だった。


しかし、そのハミングは宍戸の焦燥感を別の意味で駆り立てるだけだった。

何せ、彼女の口から零れた落ちた名前は彼のベストパートナー、鳳長太郎だったのだから。

「#オメガバース」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -