03
一人の男が足早に家路についていた。ゆっくり溜め息をつく。まだ30代だというのに薄くなりかけた頭に帽子を被り、煙草に火をつける。
人狩りがあって、彼の人生の軌道は大幅にずれていた。西ブロックにおいて確かな道などあるはずがないのだが。
劇場支配人の地位を前任から無事引き継ぎ、前任の裏の仕事も継いだ。 今までは地道にやってきたがこれからは私の天下だと思ったのも束の間、いきなり人狩りが行われた。 自分の下についていた役者や、裏の仕事の娼婦や男娼らの多くを失った。 死んだ者や狩られ連れ去られた者もいるだろうが、多くは逃げ出してしまった。僅かに残った者たちで運営する事を考えると、頭が痛くなる。ますます頭髪が薄くなっていく。
それでも、劇場と自宅が無事残っているのは、かなりの幸運だ。 そう思い直して溜め息を飲み込み、自宅の鍵を開ける。台所で水を飲み、クラッカーを食べる。洗面所で顔を洗い、おざなりに髭を剃り、着替えて、あくびをしながら寝室のドアを開ける。
違和感を感じた。部屋の隅の闇がいつもより幾分、濃い気がした。 その闇が、ふっと動く。 だが、そう思った時にはもう遅かった。
喉にひやりとした感触がした。ナイフ?いや、小型のメスだ。
「動くな」
男の喉元にメスを突き付けている人影が囁く。その声に、男の全身は痺れたように動けなくなる。
「少しでも動くと喉が裂けるぜ。このメス、小型だけど最新式なんだ」
窓からは爪形の月の淡い光が差し込んでいたが、逆光になって侵入者の顔は見えなかった。 反対に自分の顔は、まる見えになっているはずだ。 怯えた表情を必死で無表情に変え、やっとのことで声を絞り出す。
「…誰だ」
くすっ。
「そうだよな、普通まずはそう言うよな」
人影はくっくっと、さも可笑しそうに笑った。笑ってはいるが隙はまったくない。男はぴくりとも動けなかった。
「ねぇ、あんたさ。おれが誰か知りたい?」
喉の皮膚の上をすっとメスが滑る。
「教えてやるよ。今は不法侵入者。でも空き巣や強盗じゃない。おれはあんたに雇ってもらいたくて参上したのさ。ご帰還が遅くて待ちくたびれたけど」
不法侵入者は支配人の喉元からメスを離すと、それをくるりと回す。
「おれを雇う気、ない?あんたの下に残ったひ弱な奴らより、がんがん儲けてやる」
メスが喉から離されても、支配人は金縛りにあったように動けなかった。 気力を振り絞って喋る。掠れた声が出た。
「それが、人にものを頼む態度か?」
侵入者はふふんと鼻をならした。
「まさか。脅迫してんだよ。雇え、ってね。でもあんたに悪い話じゃないはずだぜ?役者に不足してる以上に、男娼にはもっと困窮してんだろ」
支配人は目を見開いた。 何故こいつは私の裏稼業を知っている?
支配人の顔に出た動揺を読み取り、侵入者はにやりと口端を上げた。
今、この西ブロックは混沌とした無法地帯だ。しかし自分の稼業が軌道に乗る頃にはある程度の秩序は戻っているはずだ。売春稼業などごろごろ転がっていても、やはり公然とは出来ない裏稼業。ばらされれば店をたたみしばらく潜らなければならないだろう。 支配人はちっ、と舌打ちをする。
「取引成立ってとこかな?」
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