もう一度だけ、こっちを見て
「…もしもし」 『あ、ネズミ?』 「どなたですか」 『え、紫苑だよ。声そんなに変わるかな…』 「冗談だよ。で?なに?」
もう一度だけ、こっちを見て
ネズミはシャワーから上がったところだった。 鳴っている電話に気付き、とりあえずまた赤チェックのシャツを一枚羽織り、受話器の子機を取った。
電話口から、紫苑の心配そうな声が聞こえてくる。
『今帰ってきたらネズミがいなくてびっくりした。良かった、家に帰ったんだね』 「電話番号」 『え?』 「おれ、教えたっけ」 『…君のことが心配で、連絡網の番号を』 「ははっ、それ、立派な職権濫用じゃない?」 『え、いや、生徒の安否を確認するのは…いいんじゃないかな…』 ネズミは子機を耳にはさみ、乾いたタオルを探す。
あれ、見つからないな…
濡れた髪から水が滴り落ち、シャツを濡らしていく。
「はいはい。あっ、そういえば、シャツは拝借して帰ってきた」 『さんざん文句言ってたくせに』 「おれには似合う」 『…じゃあもうそれ、あげるよ。あ、今気付いたんだけど』 「なに?」 『きみ、自分の制服のシャツ、忘れてるよ。明日持っていこうか?あっ、ちゃんとボタン付けて繕うから』
タオルが見つかる。 ネズミはそれを無造作に肩にかけ、子機を手に持ちかえる。
「いい。捨てといて」 『え、いいの?』 「替えがあるから。で、用件そんだけ?」 『え、ああ、まあ』 「じゃ、今日おれ食事当番なんだけど。もうすぐじいさん帰って来るし」
ネズミの両親は海外で働いていて、ここ数年連絡は途絶えている。 ちゃんと毎月、口座に生活費が振り込まれているので、生きてはいるらしい。 現在ネズミは、祖父とともに広い家に住んでいた。
『あ、長電話してごめんね、またね』 「ん」
ツー、ツー、と無機質な音を紡ぐ子機が憎らしくて、ネズミはぞんざいに充電器に戻した。
その電話があってから数週間。 紫苑との会話は極端に少なくなっていった。 補講が終了したことと、高校がテスト期間に突入したことが原因だ。
疎外感。教師と生徒の壁。 今さらながらに、ネズミはそんなものを感じていた。
ぼんやりと駅のホームで電車が来るのを待っていると、背中から声をかけられた。 あきらかに、からかいを含んでいる。
「なんか元気ないな、最近。一時期の幸せオーラはどこにやったよ」
ゆっくり振り向き、そこに予想通りの姿を認める。
「…イヌカシ。おまえは年がら年中元気だな」 「おかげさまで」
イヌカシは、にっと笑う。 暑さのためか、今日は長い髪を高い位置で雑に結わえている。 幾筋か余った髪の毛が、首筋に貼りついているのが目にとまる。
「櫛」 「は?クシ?」 「イヌカシ、櫛使えば。髪の毛余ってる」 「ああ?なんだよ、ごちゃごちゃうるせぇ」 「ちょっとそこ座れ」 「はあ?」
ネズミはイヌカシを無理やりベンチに座らせると、ポケットから櫛を取り出す。
「ちょ、余計なお世話だ」 「おれが、気になるんだよ」
問答無用で髪をほどき、絡まった髪を鋤く。
「意外と質の良い髪してんだな。ひどい絡まりようだけど」 「褒めてくれてありがとう。別に嬉しくないけど」
さっと器用にイヌカシの長い髪をもとの位置に結わえあげると、ネズミも脱力したようにベンチに座り込んだ。 イヌカシは頭を手で触って確かめ、感嘆の声をあげる。
「おっ、すげぇ綺麗だ。ネズミ、おまえさん美容師になれるんじゃね?…って、ネズミ?」 「うん?」 「ほんとに元気ないな。いつもの覇気と精気がないぞ」 「そうか」 「生意気さと色気まで消えてる」 「…へぇ」 「紫苑先生がらみだな」 「そう見えるんだ」 「おれを誰だと思ってる」 「ただのイヌっころ」
はん、とイヌカシは笑い、ふんぞり返る。
「ちっちっちっ、なんだ、知らないのか?おれは学校一の情報屋だ、おまえさんが紫苑先生にぞっこんな事ぐらい知ってる」 「ふーん、だから?」 「うーん、ま、元気出せよ、らしくないぜ」 「あ、励ましてくれてんの?気付かなかった、ありがとう。全然嬉しくないけどな」 「なっ…ネズミ!」
なんだよ、ほんっと可愛くねーな!
べつに、紫苑にだけ可愛く思われたらいいもん
なんだよそのしゃべり方…
情報屋なんだったら、紫苑のこと教えろよ
あの先生ガード固いからなぁ、高くつくぞ…おっ、電車来た、じゃっ、またなネズミ!
…台風みたいなやつ
なんだと…って、あー!乗り遅れる!
おい、だから走るなって
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