あの境界線を目指して、
「それで」
着衣の乱れを整えたネズミが紫苑の前に膝をつく。 部屋の床に放り出されていたシャツを拾い上げ、紫苑の肩にかける。 艶やかな白髪を鋤き、深紫色の瞳を覗く。
「気分は、落ち着いた?紫苑」
あの境界線を目指して、
「なんで、あんなに怒ったんだよ?」
放心状態の紫苑の耳を、ネズミの暖かな声が撫ぜる。
「きみが…きみが」 「え?おれ?」 「先輩の家に、連れ去られそうだった」 「酔ってたからな」 「それが、許せなくて…」 「なんだ、そんなこと」 「そんなこと?」
からからと、ネズミは笑った。 紫苑はきょとんとネズミを見る。
「そんなにおれのこと心配してくれたんだ?ありがとう。ま、先輩の家行こうと先生に助けられようと、やったこと同じだけど」
はっと紫苑は我に返ったようにネズミを見る。 その表情は幼げでさえあった。 逆にネズミは慈悲の聖母のように優しげに微笑む。
美しい仕草で紫苑の頬をゆっくり撫で、その耳元に唇を寄せてそっと囁く。
「こんなに怒った紫苑…初めて見た」
がっ。 突然、紫苑がネズミの手首を掴んだ。
「いたっ、紫苑、なに」 「…引っ掛かるつもりは、なかったのに」 聞いたこともない、紫苑の低い声。
「え?」 「ねぇ、これもきみの戦略なのかな」 「は?」 「サソリは元彼?彼に協力してもらって、ぼくをからかおうって計画?」 「なに、言ってんだよ紫苑!」
ネズミが紫苑に掴まれた手を振り払おうと立ち上がる。 だが紫苑の力は思いの外強く、逆に壁に押さえ付けられる。
「痛い、紫苑、どけって、落ち着け」 「きみにとって、ぼくもただの遊びなんだろ!」
ネズミの言葉を遮り、紫苑は叫んだ。叫んだといっても、声量は大きくない。 腹の底から絞り出すような、苦しげな叫び声。
「な、それこそ、違う、全く違う!しお…」 「違わないさ、あの先輩とぼくは同列なんだろう」 「紫苑、違う、違う、聞いてくれ。なんであんたは聞く耳さえ持たないんだよ!さっきだって!」
ぽたっ。 ネズミの瞳から、一滴の涙が零れた。
「…ほんとは少し、怖かったのに」
はっと紫苑は手の力を緩める。 ネズミは自由になった手で紫苑のシャツに触れる。 その手首は赤くなっていた。
「紫苑」
顔を俯け、紫苑のシャツを握り締めてすがる。懇願する。
「話を…しよう。おれは」
あんたにだけは、誤解されたくないんだ…
え、ネズミ、ごめん、泣かないで…
あんたが、泣かせた
あっ手首赤くなっちゃったね、ごめん、痛かった?
…あんた、ほんと極めつけの天然だな。そんなことでおれが泣くと思うわけ?
え?いや…
ずれてんだよ…まったく
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