仮面を剥がせ…!


そっと唇を離してネズミは綺麗に笑った。
しかしその瞳の色は真摯そのもので、紫苑は少なからずたじろいでいた。

「おれは本気だから、紫苑先生」

とどめとばかりに耳元で囁かれ、紫苑は不覚にも顔が赤らむのを感じた。
それにネズミが気付かないわけがなく、彼の口端が僅かに弛む。

でもそれも一瞬で、ネズミは唇を引き結んで紫苑から離れ、机の上を片付けもせず自分の学生鞄を肩にかける。
そのまま教室の引戸に手をかける。

ネズミが帰ろうとするのを見て、我に返った紫苑は思わず立ち上がった。

「ネズミ、まだ補講が」
「先生ごめん、おれ、今日は用事があるから」

困ったように笑い、じゃあまたと小さく呟いてネズミは教室を出ていく。
夕暮れに染まる教室には、呆然とした紫苑だけが取り残されていた。





教室の引戸をそっと閉め、ネズミは静かに笑った。

少しでも、動揺を与えられればいいんだけど。

性急に誘っても紫苑が容易には流されないことが分かり、そしてその分厚い仮面の下には根強いコンプレックスがあることを、ネズミは敏感に感じとっていた。

暗示にかかりにくい人間を術中に落とすには、少々揺さぶりをかけなければならないのと同じように、固い仮面を割るにはその前段階が必要だ。

ネズミが、あえて過酷な過去をさらけ出したのも、いきなりキスしたのもそのためで、紫苑の補講を自主的に中座するのも、今日が初めてだった。

本当に、動揺してくれているだろうか…。

手を変え品を変え誘惑しても、紫苑はびくともしなかった。
だから今回もネズミは不安ではあった。
だが同時に、確かな手応えも感じていた。

あの紫苑が、おれから目を逸らせなかった。頬を染めた。帰ろうとするおれを止めた。
どれも初めてのことだ。

ふふふ、とネズミは笑いそうになったが慌てて引っ込める。
背後に、気配を感じたからだ。

尾行、されている…?

ネズミは、過去に尾行されたことは一度や二度ではなかった。
歩む速度は変えないまま、注意深く気配を探る。

数メートルの距離を置いて追いかけてくる人物。
尾行には慣れていないようだ。
その足音は、恐怖を呼び起こすものではなく、なんだか親しみを覚えるもの。

まさか、と思った。
曲がり角を曲がる直前ちらりと横目で様子を窺う。
見遣った先に白髪が見え、ネズミの希望的観測は的中する。

それは、紫苑だった。

こんなに上手く紫苑を釣れたことに踊り出したい気分になりながら、ネズミは先輩との待ち合わせ場所へと向かった。


こんばんは、先輩。待ちました?

いや、そんなことはないよ。
今からなら十分集合場所に間に合うね。
…あれ?ネズミくんまだ制服?

あっ、ごめんなさい、どっかで着替えますね。

うん、そうした方がいいな。
未成年者の飲酒は法律で禁止されている。

おれ、飲酒はしませんよ?
いつも酔いつぶれる先輩がたの、ただの介抱役です。

介抱役?なにを言う。みんな君が来るのを心待ちにしているんだよ?

はははっ、ご冗談を。

本当さ。さっ、それじゃ、行こうか。




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