02
…今夜は、風が強い。風に流され、真っ黒な雲がお月様の上を横切っていく。高架の柵に腰掛けたイヌカシの長い髪も、強風に煽られはためいていた。そのイヌカシの隣に立つネズミの髪も然り。顔のまわりの髪の毛を鬱陶しそうに耳にかける。
その二人が会話もなく注視しているのは、魔女の結界。この結界には先ほど、紫苑と沙布、それからフェネックが入っていった。今頃は沙布が魔女と戦っているだろう。時折、結界は感電したようにビリビリと震えた。
「…どうした、加わらないのか?」
ふいにネズミが沈黙を破る。問われたイヌカシは、頬張っていた焼き菓子を咀嚼し、ふんと鼻を鳴らした。
「今日のあいつは魔女と戦ってる。魔女ならグリーフシードを落とすだろう。無駄な狩りじゃないさ」 「意外だな。そんな理由で、おまえが獲物を譲るなんて」
からかいを帯びたネズミの言葉には耳を貸さず、イヌカシは心配そうに結界を見詰め、チッと舌打ちする。 結界がまるごと、大きく震えたところだった。沙布がたくさん魔力を使った反応だ。どうやら、苦戦しているらしい。
「…あの馬鹿、手こずりやがって」
そう言うと、イヌカシは瞬きと同時に魔法少女の姿になり、ひらりと結界に飛び込んだ。
そこにいたのは、影の魔女。その性質は独善、全ての生命のために祈り続ける魔女。祈りの姿勢を崩さぬまま、その影の中へと あらゆる命を平等に引きずり込む。この魔女を倒したくば、黒色の苦痛を知らなくてはならない。
そして、影の魔女の手下は、ありとあらゆる姿をした触手のようなものだった。その役割は妄信。 影の魔女によって平等に救われてしまった命達の集合体だ。 彼らは同胞を求め、生けとし生けるものすべてを絡めとる。
イヌカシが飛び込んだその時、沙布はそれら黒い影の触手に絡めとられたところだった。
「沙布、あぶない!」
フェネックを肩に乗せた紫苑が、悲鳴をあげる。フェネックは相変わらずの無表情で、紫苑を魔法戦士にするチャンスをうかがっている。
イヌカシは身軽に跳躍し、影の手下を槍で切り裂き、沙布を救い出す。沙布はひとしきり咳き込んだあと、イヌカシの姿に気付いた。
「あなた…どうしてここに…」 「…ったく、見てらんねぇ。いいから沙布はもう、すっこんでなよ。手本見せてやるからさ」 「邪魔しないで。一人でやれるわ」 「えっ、ちょっ、おい!沙布!」
ゆらり、と立ち上がった沙布はイヌカシを押し退け、制止の声も聞かずにまた剣を構え、がむしゃらに影の手下と魔女に突進していく。 手下は容赦なく沙布を傷つけ、血潮を吹き上げさせるが、沙布は一顧だにしない。
「おまえさん…まさか…」
その姿をたじろぎながら見て、イヌカシは呟く。
体の痛覚を…完全に遮断している…!?
沙布はいまや、彼女に似合わない高笑いをしながら、影の魔女をぶった切っていた。
あははははっ
あははははっ、あははははっ
その笑い声は黒と白の結界のなかで、とても虚ろに響いた。
あははははっ
本当ね…!フェネックが言っていた通りだわ…! その気になれば、痛みなんて、完全に消しちゃえるのね…!
…やがて、滅多切りにされた魔女と手下は力尽き、結界も消える。 ボロボロに傷付いた沙布は、ふらり、ふらり、と歩き、魔女の落としたグリーフシードを拾う。そして、底の見えないほど深い絶望を湛えた目を細め、ふっと暗く笑った。
「痛みを感じなくするやり方さえ分かれば、こっちのものね。これなら負ける気がしないわ」
ころり、ころり、と拾い上げたグリーフシードを手の内で転がし、ぽいと無造作にイヌカシに放り投げる。
「あげる。それが目当てだったんでしょ。これで、さっき助けてもらった借りはなし、いいわね」 「おい、沙布…おまえさんが使うべきだ。魔力回復しなくていいのかよ。もうソウルジェムかなり濁ってるはずじゃ…」
沙布の投げたグリーフシードを反射的に掴まえたイヌカシだったが、それを返そうといい募る。 沙布はそれを冷たい一瞥で黙らせ、イヌカシのことはもう完全に無視して、紫苑に笑いかける。
「行きましょ、紫苑」 「沙布…」 「なに震えてるの?ほら、帰るわよ」
魔法少女の変化を解いた沙布にはもう、傷ひとつなかった。着ている制服でさえ、新品同様だ。 しかし沙布は、ふらっとよろめき、転びかける。それを半泣きの紫苑が受け止める。
「あら紫苑、ごめんなさい。すこし疲れたみたい…」 「無理しないで、つかまって」
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