02


さんざん泣いたあと、紫苑は山勢の部屋を後にする。
ずっと俯いたまま、マンションのエントランスホールを出る。ふう、と大きくため息を吐き、顔をあげる。

「…?」
誰かが立っている。しかし、夕日の逆光のせいで顔は見えない。

その人物が言葉を発する。

「忠告、聞き入れてくれたんだな」
艶のある声。聞き間違いようもない、ネズミの声。

「…ネズミ……ぼくは…何も出来ない意気地無しで…」
「そう思い詰めるな」

ふっと、優しくなぜるような声でネズミが言う。

「あんたは自分を責めすぎている。紫苑」

ネズミのしなやかな腕が伸びてきて、綺麗な指が紫苑の頬に触れる。
「あんたを非難できる者なんて、誰もいない。いたら、おれが許さない」

不思議な引力を持つネズミの瞳に、引き寄せられる。
生命力と希望に溢れた、躍動感のある灰色の瞳。

「ネズミ…」

一瞬のうちに、魅せられていた。
止まる時間。まばたきもできない数秒間。

頬に触れた指が、すっと離される。時間が戻ってくる。ネズミはふいっと顔を背け、歩き出す。紫苑の家と同じ方向だ。

ネズミは長い足ですたすたと歩く。紫苑はあわててその後を追いかける。

しばらく、ネズミの後ろを歩いた。
夕日が二人の影を長く引き伸ばしていた。

「ねぇ、ネズミ」
呟くように紫苑が言う。
「なに」
「山勢さん、どうなるのかな」
「魔女の結界内で死んだら、こちらの世界では蒸発ということになる」
「え…死んだってことも分からないの?」
「ああ。山勢には、両親も親戚もいなかった。捜索願と失踪届が出されるのも、当分先だろうな」
「そんな…」
「そんなもんさ。そうやって、魔法戦士は忘れられていく」

忘れられていく。
その言葉が引っ掛かる。

「忘れないよ!」

気がつくと、叫んでいた。

「山勢さんみたいに、人のために必死に戦った人がいたこと、絶対に忘れない!」

ネズミが立ち止まる。体の脇で、こぶしが握り締められていた。

「ぼくは、ぼくだけでも絶対、全ての魔法戦士を覚えてる!ネズミだって、ネズミのことだって覚えてるよ!」

ぴたり、とネズミの足が止まる。

「…あんたは」
低い、声。

「いつも、優しすぎる」
「え?」
「忘れるな、その優しさがもっと大きな悲しみを呼び寄せることもあるんだぜ」
「ネズミ…なにを」

喉まで出かけた言葉を呑み込む。
紫苑に背を向け立っているネズミは、こぶしを握り締め、震えていた。
紫苑は、ネズミの生きてきた過去に思いを馳せる。

「きみは一体…何人の魔法戦士の死を、見てきたの」
「…数えるのを、諦めるほど」

は、と短く息を吐き、ネズミはまた歩きだした。紫苑もそれに続き、ネズミに食い下がる。

「でも、覚えてるんだろ」
「もちろん」
「じゃあ、ぼくだって」
「あんたは、忘れる…今だって、いや、これからも」
「ネズ…」
「だからもう、関わるな。もう二度と、魔法戦士や魔女の世界に首を突っ込むんじゃない。今までのことは夢だとでも思って、普通の生活に戻れ。ほら、あんたの家、あっちだろ」

気がつくと、紫苑の家のすぐ近くまで来ていた。

「早く、ママの待つ家に帰ればいい。じゃあな」

ひらりと片手を振り、ネズミは来た道を引き返す。
夕日は沈み、辺りはだんだん薄暗くなってくる。

「紫苑」
一度だけ、ネズミは振り返った。

「あんたが、忠告を聞き入れてくれて良かった。ひとりが救われただけでも、嬉しい」

薄闇にまぎれてよく分からなかったが、ネズミは微笑んだ気がした。

「え、あ…ありがとう、ネズ…ミ」

紫苑は茫然と突っ立ったまま、ネズミの後ろ姿を見送った。


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