騒音じゃないよ調律だよ?
「ねぇ、ネズミってピアノ弾けるの?」
おもむろに紫苑がたずねた。 白湯をすすりながら読書をしていたネズミはちらりと紫苑に目をやり、また本に視線を戻す。
「は?なんでまた」 「だって、ここにピアノがあるから」
そう言って紫苑が、古いアップライトピアノを指差したのが始まりだった。
騒音じゃないよ調律だよ?
「先に言っとくがそれ、弾かない方がいいぜ」 「え?」 「もうずっと調律されてないから、音の高さがずいぶん狂っているはずだ」 「あ、ふぅん」
紫苑は目を輝かせ、鍵盤の蓋を開ける。
「あ、おい、だからやめとけって。埃もすごいはずだし…」 「大丈夫、大丈夫」
ネズミの制止も聞かずに、紫苑はポーンと白鍵を押す。 ぴよよん、としなびた音が鳴る。
「わ、ほんとだ、すごい音」 「ほらみろ。ちゃんと蓋、閉めとけよ」 「よしっ、じゃあぼく、調律するよこれ」 「はあ?」
ネズミは思わず本を取り落とす。 華麗な装丁の施された古い本が、鈍い音をたてて床に転がった。
「馬鹿いうなよ紫苑、道具だってないのに。だいたい、あんた絶対音感あんのか」 「道具なら、この前整理してたら見つけたよ」 「ペンチとかじゃないだろうな。そんなもんじゃ、ピアノのピンはびくともしないぜ」 「ああそれ知ってるよ、張られている弦の、一本あたりの張力は80kgぐらいあるんだよな。だから普通のペンチじゃない、ちゃんと調律用の道具を見つけたんだ、ほら」
紫苑は誇らしげに、古びた黒いスーツケースくらいの大きさのセットを引っ張り出してくる。 試しにネズミが持ち上げてみると、予想以上に重かった。
「道具が見つかってよかったな。でも、肝心の音程は?」 「きみがいるじゃないか」 「は?」 「鍵の名称と音高が一致する必要はない。例えば、ラの音をソに調律しちゃっても、それに合わせてすべての音を1音低く調律すれば、辻褄は合うだろ?」 「はあ…」 「それに、バロック時代までは、町ごとに楽器の調律の音程は違ったんだって」 「…あんた、やけに詳しいな。No.6では、芸術鑑賞は奨励されてないんじゃなかった?」
頭の痛くなってきたネズミはこめかみを押さえ、ため息をつく。 一方、紫苑はけろりとしていて、調律の道具を取り出し始める。
「うん、芸術鑑賞はね。でも、古代ギリシャでは音楽は数学の一種だったから、その一端として音律の事とかも少し習った」 「…は?」 「古代ギリシャには、神学、法学、医学という専門過程の前に、教養過程というのがあって、その理数系に、算術、幾何学、天文学、音楽が含まれていたんだって」 「…あー、神学、法学、医学…って聞き覚えが…。あっ、それ、ファウスト博士が制覇した三大学問か」 「そうそう」 「ま、なんでもいいけど、つまりおれは何すればいいんだよ」 「歌ってよ」 「はあ?」 「きみの声に合わせて調律する」 「…なるほどね」 「ね、だめ?」
苦々しい顔をしながらも、ネズミは渋々了承する。 紫苑の無邪気に輝く瞳に根負けしたのだ。
← | →
←novel
←top |
|