06
「ったく。たった一度の奇跡のチャンスをくだらねぇ事に使いやがって」
ソウルジェムを掌に載せ、注意深くあたりに気を配りながら歩道橋をゆっくり渡る途中で、背後から声をかけられた。 聞き間違いようがない、あの燗に触る小馬鹿にしたような抑揚のしゃべり方…イヌカシだ。 沙布は故意に振り返らなかった。それでも、イヌカシはひとりで話し続ける。
「魔法ってのはなぁ、自分だけの望みを叶えるためのもんだ。他人のために使ったってろくな事にならないのさ。山勢はその程度のことも教えてくれなかったのかい?」
山勢を引き合いに出され、沙布は怒りにぎりりと奥歯をくいしばる。 がりっ、とイヌカシはスナック菓子をかじり、挑発の響きを言葉にのせて沙布に畳み掛ける。
「惚れた男をものにするなら、もった冴えた手があんだろ?」
惚れた男?なんのことだ、 紫苑は、わたしが魔法少女になったこととは何の関係も…
「イイコぶったって、あいつはおまえさんに惚れるはずはねぇんだ」
そうか、わたしは、莉莉を救うつもりで、その実… 紫苑を守る力を手に入れたかっただけ。 莉莉は、ただの口実、きっかけに過ぎない。 わたしは…紫苑を守りながら、堂々と彼の隣に居並びたかったのだ。
「それどころか、必死こいてぼうやを守ってやってる安全な傘の下で、ぼうやは勝手に他の奴に心を奪われるかもしれないぜ?守ってくれてるおまえさんの女心には気付きもしないでよぉ」
イヌカシの言葉に嘘はない。確実に沙布のことを言い当て、言い暴く。 言葉が的を射ているだけに、それらは容赦なく沙布の心のささくれだったところを突き刺す。
「だったら、なぁ?折角手に入れた魔法でさぁ…」
そこで思わせ振りにイヌカシは言葉を切った。 我知らず沙布は緊張に体を強ばらせる。
「…今すぐ家に乗り込んで、ぼうやの手足を潰してやりな。はっ、おまえさん無しじゃあ、何も出来ない身体にしてやるんだ。そうすりゃ身もぼうやはおまえさんの…」
けけけっ、と耳障りな笑い声をあげ、イヌカシは、とどめとばかりに沙布の逆鱗を撫で上げる。
もう、我慢がならなかった。
沙布は勢い良く振り返る。憎たらしい小柄な魔法少女を、睨み付ける。
「許さない。あなただけは、絶対に許さないわ…!」
斬るような沙布の眼光を真っ向から受け止めながら、イヌカシはなおも鼻に皺を寄せてせせら笑う。
「へぇ、そうかい。じゃっ、いっちょ派手にやろうじゃん。ここなら遠慮はいらねぇよな」
歩道橋の上。その下では車がたくさん走っているが、その他にはなにもない。近くに建物がないから、いくら暴れても他に被害が及ぶことはない。 謀ったように、好都合なこの場所。実際、イヌカシはタイミングを見計らって沙布に声をかけたのかもしれない。だが、そんなことは考えても詮ないことだ。今は戦うことのみを考える。戦って、今度こそは勝ってみせる。
沙布はソウルジェムを高く掲げる。 イヌカシは槍を顕現させて、にやりと笑う。 不用意に触れれば破裂してしまいそうな雰囲気が、あたりに充満する。
「待って!沙布!」
しかし、その緊張の空気を、柔らかくも緊迫した声が破った。
「駄目だよ!こんなの、絶対おかしいよ!!」
ぱたぱたと足音が近付く。
「紫苑!」
ついてくるなと、言ったのに。 こんな醜い戦いを、紫苑に見られたくはないのに。
「邪魔しないで。紫苑には…関係ない、話…なんだから」
沙布の語尾は、覚えず震えた。 イヌカシは槍を下ろし、やれやれと方を竦める。
「ウザい奴はこれまたウザい男に惚れるんだねぇ。やってらんねぇよ」
はあ、とイヌカシがため息を吐いた時、その背後から音もなく別の影が近付き、耳元で囁いた。
「話が違うぜ。沙布には手を出すなと言ったはずだ」 「ネ、ネズミ!?」
びっくりしてイヌカシは飛び上がる。あわてて弁明する。
「おれじゃないぞ、あっちがふっかけてきたんだぜ」 「同じだ。おれが相手をする」
静かに激昂しているらしいネズミは、黒と灰色が基調の戦闘服に一瞬で変化する。
「あら、雁首そろえてお出ましってわけ。いいわ、二人とも…」
沙布は、並んで立つイヌカシとネズミに好戦的に言い放ち、変身するべくソウルジェムをもう一度掲げる。
紫苑は叫んだ。
「沙布、ごめん!」
咄嗟の行動だった。 沙布の掌から青いソウルジェムをかすめ取る。
これさえなければ、沙布は変身できない、だから沙布が戦うことも…!
紫苑は歩道橋から眼下の道路にソウルジェムを力いっぱい放り投げた。 それは、ちょうど走ってきたトラックの荷台に落ちていった。
「紫苑!あなた何てことを!!」 「だって、こうしないと…!」
いきり立つ沙布と、震える紫苑。 イヌカシが呆気にとられる隣で、ネズミだけがさっと青ざめる。
「まずい…!」
ネズミは歩道橋の手摺を軽々と飛び越えてそのまま道路に降り立ち、沙布のソウルジェムを運び去ったトラックを追いかける。
一方、紫苑をなじっていた沙布は突然昏倒した。
「沙布?どうしたの?」
力を失い倒れてくる沙布の体を、紫苑はあわてて受け止める。
『…やれやれ。よりにもよって友達を放り投げるなんて。どうかしてるよ紫苑』 「フェネック…」
いつからいたのか、足元に白い砂漠のキツネがちょこんと座っていた。
「フェネック、これ、どういうことなの?沙布は、沙布はどうしたんだ?」
腕のなかでぐったりとする沙布を抱き締め、紫苑は動揺してフェネックに問い詰める。 事態がおかしいことに気付いたイヌカシが大股で歩いてきて、紫苑の抱える沙布の首筋を乱暴に掴む。
「ちょ、やめろよ、」
紫苑が止めるのもかまわず、イヌカシは沙布の脈拍を探る。
「…おい」
イヌカシはひび割れた低い声を出す。
ない。確かに動脈に触れているはずなのに、ないのだ。
「どういうことだ?」
いつもの嘲弄の抑揚を廃した声音で、イヌカシは飄々と座っている白いキツネに詰め寄る。
「こいつ…」
フェネックは、そんなイヌカシに動じることもなく座っている。 この事態は当然だろうと言うように、小首さえ可愛らしく傾げてみせる。
「こいつ、死んでるじゃねえかよ!?」
← | →
←novel
←top |
|