夜の街を掻き乱せ


大袈裟なほど高くそびえた塀の上には、これまた大袈裟に幾重にも有刺鉄線が張り巡らされていた。さらに、中世の貴族の城門を思わせる門扉には、最新鋭の赤外線センサーが取り付けられているという。
だが、それだけの厳重な囲いに守られた屋敷への侵入路は、あらかじめイヌカシから教わっていた。見せられた地図と外観の写真を頭の中で再生しながら少し歩けば、その場所は案外簡単に見つかった。

「外観を気にして、抜かったのか。金のかかった装備が水の泡だぜ?」

くすり、と密やかな笑みをもらし、ネズミはフック付きのワイヤーを懐から取り出す。

塀の上に巡らせた無粋な有刺鉄線を周囲に住む無害な市井の人間の目から隠すためか、屋敷の主人は樹齢がゆうに三百は超えているだろう背の高い杉の木を、塀に沿って幾本もずらりと植えていた。
その杉の枝が、一ヶ所だけ道路側に張り出している所がある。そこに、イヌカシは着眼した。

いつもながらさすがだ、と口笛でも吹きたい心情で、手にかかるフックの重量を正確に量りながら僅かに反動をつけ、ワイヤーを投げる。たった一度で、フックは狙った枝に引っ掛かり、また心が踊る。

今夜は、幸先がいいぞ。

ふふん、とネズミは得意気に鼻を鳴らし、口元に笑みを浮かべる。
くい、くい、とワイヤーを引っ張り、枝の強度を確かめ、充分、という判断を下す。ネズミは胸元にクリップで取り付けた小さなマイクに向かって囁いた。

「こちらネズミ。予定通り屋敷の塀、北の方角から樹木を伝って敷地内に入る」
『計画決行は8時ジャストだ。それまで樹上で待機』

左耳のイヤホンから、サソリの声が応答する。サソリは、ネズミとイヌカシとの3人で構成された実行班の頭だった。具体的な侵入計画を練るのも、組織の元締めである老と話をつけるのも、遠隔地から全貌を見渡しながら指示を飛ばすのも、サソリの仕事だ。

「了解。侵入開始」

サソリが陰で糸を引き、イヌカシは事前調査や他の班のフォローなど雑多な任務を負い、そしてネズミの役割はといえば、あくまで単独行動に見せかけた「陽動」だった。それも、世間を騒がす「怪盗イヴ」として。

ネズミは皮手袋をはめた右手にワイヤーを巻き付け、その細い糸を命綱にして垂直な塀をゆっくり這い上がりはじめる。
木からぶら下がるこの無様な姿が人目につかぬよう、ネズミは夜陰に紛れる黒マントを羽織っていた。だが、そのマント一枚めくれば、瀟洒ながら夜闇に映える華麗な白装束が現れる。

これから訪れる、夜空に舞う怪盗劇を思い、塀を伝いながらネズミは不適に笑った。

やがて、ネズミは壁をほとんど登りきった。あとは、幾重もの有刺鉄線を突破するだけだ。しばしネズミは目を見開きそれらを睨んだかと思うと、ワイヤーをぐいと引っ張り、壁を蹴った。枝に引っ掛けたフックを円心として、ネズミの体は宙に円を描く。ふうわりとマントの裾が空気をはらみ、ちらりと見えた白装束が月光を弾く。
そしてネズミは、裾ひとつ擦ることなしに軽々と有刺鉄線を飛び越えてしまった。

そのままネズミはぶらりと枝からワイヤー1本で吊り下がり、しばらく揺れの収まるのを待って、適当な枝に腰を下ろす。

「侵入成功」
『了解。決行まであと7分』
「オーケー」

繁った梢の間から顔を覗かせ、豪奢な屋敷を眺め、敷地内に駐屯する無能な警官たちとパトカー赤い光の輪を目に映し、ネズミはこれからの自分の大立ち回りと盗むものについて、頭のなかで手順をおさらいする。

これからおれに宝物を盗まれ、さぞかしあの屋敷の女主人は意気消沈するだろう。

ふいと頭の中に浮かび上がった独白に、不覚にも驚嘆と焦燥を感じ、狼狽する。

これは、同情か?

一瞬の動揺が心を揺らし、呼吸を乱す。ネズミは落ち着こうと、樹上で深呼吸してみる。

敵方に対する憐憫の情は、緊急時の適切な判断と行動を鈍らせる。だから、憎む必要はなくとも、相手に同情してはいけないのだ。

どうせ、悪事を尽くして得た宝だ。しかるべき所へ、おれが返してやるだけ。
自業自得どころか、それは当然の摂理だ。

念のため心の中を隅々まで探ってみたが、同情などという気持ちはもう、欠片もなかった。
思わず、安堵のため息を吐く。

よし、いける。

自信を取り戻したネズミは、緊張で手足の俊敏な動きが妨げられないよう、ふくらはぎのマッサージに腐心することで決行までの時間を潰した。





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