05
歌は自然に終わった。 その声の最後の美しい余韻はささやかに空気を震わせ、やがて溶け込むように馴染み、消えていった。 ほう、と紫苑はゆっくりと息を吐き出す。
「きれいだ。なんて曲?」 「…新曲さ」 「え?」 「イヴのだよ。来月、シングルが発売されるだろ、知らないの?」 「それはもちろん知ってる。予約もしてる。けど…なんできみが…」
はぁ、とネズミは芝居がかった溜め息を吐き、床に散ったCDを退けてスペースをつくり、そこに腰を下ろした。 立ったままの紫苑を見上げ、目を細める。その表情は慈愛の聖母じみており、それはよくイヴが浮かべる微笑みにそっくりだった。いや、そっくりなんてものじゃない。イヴの表情そのものだった。
「あんたも気付いてるんだろう、紫苑。しらばっくれるのはよせ。意味がない」 「なにを、言って…」 「おれが、イヴ本人だよ。ま、イヴなんて芸名だけど」 「…ネズミって名前だって、本名じゃないだろう」 「そりゃあね。でも、」
そんなことは、大した問題じゃない。
ネズミはそう言うと、ゆっくり首を振った。まるで、人々の無理解にさらされ、説明することに膿み、さまざまなことを諦めてしまったどこかの首相のように。
「じゃあ、ぼくはきみを、何て呼べばいいんだ?」 「なんとでも。それよりさ、紫苑。座らないの?ずっと突っ立ってるつもり?」 「…CDを片付ける」 「ふぅん」 「他人事じゃないだろ。きみが散らかしたんだ、手伝えよ」 「やだ。めんどくさい」 「はあ?」
紫苑の額に再び青筋が浮き立つ。 なんだか今日は怒ってばっかりいるな、と思う。 ぼくはこんなに怒りっぽい性格だったか? もっと穏やかにならなければ。 ネズミにいいように翻弄されてちゃいけない。
紫苑の内心の葛藤を見透かしたように、ネズミはくっくっと笑う。 そして、おもむろに立ち上がり、紫苑の手を取って膝をつく。 その手の甲に接吻し、優雅に一礼する。
「お望みとあらば、陛下。新品のCDを全て取り揃え、後日郵送いたしますが?」
仕上げとばかりに、ネズミはにっこりと微笑みを浮かべた。 紫苑の視線はネズミに釘付けにされ、全ての動作が停止した。時間の流れさえも、ネズミの笑みを見続けるために、そこで止まってしまったように思えた。
だが、時間の流れを止めてしまったのもネズミなら、その硬直を溶いたのもネズミだった。
「…ははっ、ははは、あんた、免疫なさすぎ」
相好を崩し、ネズミは腹を抱えて笑う。
「…からかったのか」 「こんなの、からかったうちに入んないよ」 「ずいぶん印象が違うんだな、ネズミ」 「まあね、商売だからね。でも、べつにおれはアイドルなんて、望んじゃいなかった。それだけじゃない。おれは知らない間に天使にされてたんだ。勝手に、希望の象徴にされてた。おれの意志なんておかまいなく。まったく、迷惑な話だ」 「…だから、きみは逃げ出して来たの?」 「逃げ出す?まさか。また戻る。これは、ささやかな反抗…それだけだ」
ネズミは笑いをすっと潜め、物憂げに長すぎる前髪をかきあげて、床に寝転がった。 紫苑は仕方なく、一人で床のCDを片付けることにした。 一枚一枚をそっと拾い上げ、元通り順番に棚に並べていく。
「それで?きみは、いつまでここにいるんだ?」 「どうせ、すぐに連れ戻されるさ。だからその前に、ちゃんと自分から帰るよ。ご心配なく、迷惑はかけない」
迷惑なら、もう充分かけられてるけどね。 喉まで出かかった皮肉を飲み込み、紫苑はかわりに別の質問をした。
「髪も、自分で切っちゃったの?」 「なかなか、いけてるだろ」 「うーん…」 「ふふっ、しばらくしたら女の子たちの間で、ショートの髪型が流行るぞ。みんな、憧れのイヴさまの真似をしたがるからな」 「ほんとはこんな、皮肉屋の男の子なのにね」 「ふふん、世の中は馬鹿ばっかりだ」
その時、階下から火藍の声が二人を呼んだ。夕食が出来たらしい。 だらしなく床に寝そべっていたネズミは、その声に反応してぴょんとはね上がる。
「飯か!おれも貰えるの?」 「もちろん。うちの母さんは、料理を振る舞うのが好きだから」 「やった!ああ、腹減った」
ネズミは一段飛ばしで、階段を駆け降りていく。 後に残された紫苑は呆気にとられてそれを見送る。
「…意外と、ガキなやつ」
ぽそりと呟き、CDの片付けを一旦中断することにして、紫苑も下へ降りていった。
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