02
はっと目を覚ます。 白い天井、白い壁、白いカーテン、白いベッドシーツ。 白の世界。 手元のシーツを握りしめ、長く息を吐く。 動悸が徐々におさまっていく。 白は落ち着く色だ。なにものにも染まらず輝く白。 「くそ…」 思わず呟きがこぼれる。 何故忘れられない。 優しい母の記憶。波。旋律。 あれは美化された記憶だ。 分かっている。でも、心のどこかでその美しい記憶を手放すのを拒んでいる。 ゆっくりと頭を振り、波音と旋律を追い払う。 起き上がり、ベッドを手ではたいて整える。髪をとかし、着替える。黒い制服。 自室として借りている病室を出て、白い廊下を歩き洗面台へ行く。顔を洗い歯を磨く。 身支度をすませると病棟を出て渡り廊下を歩き、離れへ行く。 離れには、この大病院の院長家族が生活している。自分はその居候というわけだ。 「おはようございます」 戸を開け、あいさつをする。台所の方から話し声がする。 そこからひょいっと顔がのぞく。黒髪で眼鏡をかけた少年。 彼が笑って話しかける。 「あ、おはよう綺羅。早くおいでよ朝食冷めちゃうよ」 「ああ」 返事をして、席につく。用意された朝食を食べる。 トーストとハムエッグとサラダとスープ。 平凡な朝食。でも、旨い。 「そういえば、海里」 眼鏡の少年の母親が口を開く。 「今日から高校の平常授業かしら」 「そうだよ。綺羅も同じクラスなんだ」 海里が答える。 「まあ、そうなの。綺羅ちゃん、うまくやっていけそう?」 ちゃん付けで呼ばれるのは、嫌いだ。 しかし笑顔をつくってにこやかに応じておく。 「はい、感じのいいクラスです」 「そう、良かったわ」 海里の母親もにっこりと笑った。それから時計を見て、あっと声をあげる。 「時間よ、遅刻するわ、ほら海里、綺羅ちゃんも。あら、カバンはどこなの?」 「分かってるよ母さん、カバンなら玄関に用意してるし」 「大丈夫なのね?じゃあ行ってらっしゃい」 「うん、ごちそうさま」 海里が席を立つ。綺羅もごちそうさまと言って海里に続いた。
玄関には本当にちゃんとカバンが用意してあった。 「カバン」 「ん?」 「海里が用意したのか」 「うん、他に誰が?──ほら、こっちが綺羅のね」 カバンを手渡される。 「用意がいいな」 「あはは、母さんがそそっかしいだけだよ」 カバンを肩にかけ、通学路となる道を並んで歩き出す。 「それよりさ、綺羅」 「なんだ」 「大丈夫かな」 「は?」 「その髪」 「何か問題か?」 「髪は目立つと思うなー。だってここ日本だし。ほとんど黒髪だよ」 綺羅の髪は銀に近い淡い金髪だった。その髪が肩にかかっている。 「知ってる。だから昨日、染めようとしただろ。おまえがやめろって言ったんじゃないか」 「そうだけど。だってもったいないじゃん」 「はぁ?」 「それに伸びたら逆プリンになっちゃうよ」 「…逆プリン?」 「あー分かんないならいいや」 「なんだよ、それ」 海里が笑う。彼の笑い声はからりと乾いてよく空に響く。 声がのぼっていった空を見上げる。青い空と白い雲。 そこには、綺羅の嫌いな色と好きな色が混在している。 青は嫌いだ。部外者の侵入を荒々しく拒む海の色。 白はいい。何色にもなれる色で、何色でもない。 青空に点々と浮かぶ雲。ありふれたその空を見ていると、大海原を悠々と泳ぐ白鯨が連想された。 見たこともない白鯨に愛着を覚える。 「…綺羅?」 気付くと、海里が目の前で手をひらひらさせていた。 「何やってんだ海里」 「それはこっちの台詞だよ。珍しく」 「あ?」 「ぼーっとしてた」 「そうか」 「何考えてたの?」 何を考えていたのか、思い出そうとする。 あっ、そうそう、白鯨。 そのままその単語を口にする。 「白鯨」 「え?」 眼鏡の向こうの目が何度かまばたきをする。 「白い、くじら…?」 「ああ。あの雲が、白いくじらみたいだと思って」 ぷっ。 海里が吹き出した。 「何だよ」 少し気分を害して綺羅は言う。その一方で、今日の海里はよく笑うな、とも思う。 「何かおかしいこと言ったか、海里」 「いやいや」 海里は手を振って否定する。その手の向こうに、高校の校門が見えた。 「今日の君は天然だな、と思ったから」 「そうか?おまえも」 肩からずり落ちてきたカバンを掛けなおす。 「今日は明るい」 「え、僕、いつもそんなに暗いかな」 「そんなことは言ってない。でも」 「ん?」 「天然、って単語は海里の専売特許だと思ってた」 校門をくぐる。 「まあ、そうだなあ。あっ、じゃあ綺羅、僕に特許のお金払わなきゃ」 「残念ながら、手持ちがないな。この高校、バイトできたかか?」 「うーん、無理だったかな…どうなんだろう」 「無理そうだな」 校庭のすみを横切って校舎内に入る。 「まぁ冗談はこれくらいにして。ねえ綺羅」 「今から本題?時間配分間違ってない?もう学校だ」 「あー、うん。…何か、夢でも見た?」 「は?」 すっと綺羅の目が細められる。瞳の色が濃くなる。 紫色。 普段はあまり気に留めない、黒っぽい紫。でも時たま、はっとするほど美しい紫色に見える。 海里はその瞬間が好きだった。 「夢?」 「そう、夢。綺羅って、ぼうっとするときが時々あるじゃん。でさ、前に一回だけ『夢が…くそっ』って、君が呟いてたんだ」 覚えている。綺羅の使っている部屋に行ったとき。 ドアをノックしようとした時、中からかすかに旋律がきこえた。 何かの曲とか歌かと思ったが、知らない旋律だった。でもどこかできいたことがあるような旋律。不思議な感覚。既視感にも似た。 魅入られたように、廊下で突っ立ってその唄に聴き惚れた。 即興の旋律だと気付いたのは、それをしばらく聴いてからだ。 唄は突然途切れた。 直後に聞こえた呟き。 (夢が…くそっ) その呟きで我にかえって、遅まきながら、歌っていたのは綺羅だったんだと気付いた。 「夢。君はそう言ってた。どんな、夢?」 すごく、興味があった。ずっと聞きたかった事だ。 どんな夢?いつもその夢を見るの? 綺羅は鋭い目をしたまま黙っていた。 「…まあいいや」 海里は諦める。聞いてはいけなかったのかもしれない。 自分の無神経さにあきれてしまう。 教室へ入る。自分の席につく。 出し抜けに綺羅は言った。 「うみ」 驚いて振りかえる。綺羅は目を伏せていた。 「海と、歌の夢」 綺羅はそれだけ言うとくるりときびすをかえした。 海里よりひとつ後ろの席について頬杖をつく。窓から外を眺める。違う。 あれは、海と歌の夢じゃない。 分かっている。 あれは…母の夢だ。 母に関する唯一の記憶。一番きれいな記憶。 それ以外の記憶は捨ててしまった。
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