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こんな風に書き綴っていくと、まるで俺が聞き耳を立てているようだが、そんなことはない。
隣に住んでいる男性の咳払いやくしゃみ、一人暮らしなのにうっかり「ただいま」と言ってしまった声など聞こえるし、斜向かいに住んでいる女性のハイヒールの音もよく聞こえる。 11時頃には必ず誰かが副科ピアノの練習であろうスケールの音が聞こえるし、毎週誰かが幼い子をレッスンしている音も聞こえる。
でもやはり一番よく聞こえるのは、向かいの枢木の生活の音だった。 ドアを開けると鈴の音が鳴り、話し声も聞こえ、ヴァイオリンの音は廊下で思わず聞き惚れてしまうほど上手い。 クラスメイトのヴァイオリンの伴奏を引き受けた時、その伴奏曲をさらう時はいつも緊張した。俺のピアノも必ず枢木に聞こえているだろうからだ。
俺の登校と枢木の出掛ける時間はだいたい同じらしく、他の住人より格段に枢木と鉢合わせする率は高かった。
「おはよう」 「おはようございます」 「なんか昨日、附属音高の前に行列ができてたけど、何かあったの?」 「昨日は入試の課題曲の発表の日だったので」 「へぇ、もうそんな時期なんだ」
「おはよう」 「おはようございます」 「最近よく練習してるね」 「そうですか?実技試験が近いんです」 「ああなるほど。何弾くの?」 「ブラームスのパガニーニ変奏曲第二巻と、ドビュッシーの喜びの島です」 「そういえばパガニーニ聞こえてくるねー。頑張ってね」
「おはよう」 「おはようございます」 「昨日は行事?附属生がみんな正装してたね」 「はい。定期演奏会でした」 「何演奏したの?指揮者は?」 「ヘンデルのメサイアから数曲抜粋したのと、オーケストラはチョイコフスキーの5番でした。指揮者は…」
乗り合わせたエレベーターで、この程度の短い会話を交わした。
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