03
紫苑より背の高い綺麗な人に肩を貸し、少々苦労して自室に運び込む。相当酔っているらしい彼は、部屋に入ったとたんにその場に崩れるように座り込み、掠れた声でひとこと、水と呟いた。
「…どうして潰れるまで飲んだの?」 「おれ、酒には強いんだよ、」 「へえ?」 「あ、いま、馬鹿にしたろ」 「べつに。…ほら、水」
彼は一気に水を飲み干し、一息つくと、腹に手を当てた。
「…腹減った」 「なに、きみ、たべなかったの?」 「ああ」 「そんなだから、酔うんだよ」 「かもな」
紫苑は冷蔵庫を覗く。ここ最近、文化祭の準備で忙しく、久しく自炊などしていない。冷蔵庫の中には予想に違わず、萎びた上に乾燥してカリカリになった小松菜と、使いかけで切り口が真っ黒になった半端な人参が転がっているだけだった。そのかわりに、中央にどーんと、ケーキの函が鎮座していた。母の火藍が焼いたものだ。それを見て、紫苑は明日が自分の誕生日だということを思い出した。例年は誕生日当日に焼いてくれていたが、今年は沙布が祝ってくれると話したら、何をどう思って気を遣ったのか、前日に送って寄越してくれた。
「ケーキでもいいなら、食べる?」 「ケーキ!なんのケーキ?」 「チェリーケーキ」 「へえ、食べたことないや」
どうやら興味を示したようなので、とりあえず小さく切り分けて小皿に取り分け、出してやる。綺麗な人は灰色の瞳に喜色を滲ませた。嬉しそうにチェリーとタルト部分を同時に口に含み、ゆっくりと咀嚼し、嚥下する。
「うまい。これ、どこのケーキ?あんた、スイーツ好き?いつもケーキを冷蔵庫に常備してんの?」 「まさか。母が焼いて送ってくれたんだ」 「へえ!いいママだな。何かのお祝い?」 「うん。明日誕生日なんだ」
ひゅうっ、と彼は口笛を吹き、そりゃめでたい、おめでとう、と芝居がかった口調と仕草で言った。芝居がかった、といっても決して安っぽいわけではない。むしろ舞台の上で目にしても何ら遜色ない仕草と口調だった。だから、思わず尋ねていた。
「きみ、オペラ科?」
ほとんど初対面の相手に対して、名前より先に専攻や門下を尋ねることは、音校ではままあることだった。
「ちがうさ。おれのこと、知らないの」 「知らない」 「それはそれは、たいへん遺憾だな。日本舞踊のネズミさ。けっこう有名なんだけどな、おれ」 「日本舞踊?ネズミ?」
どちらも、目の前の彼のイメージには合わなくて、紫苑は目を白黒させて驚いた。彼はどう見ても純粋な日本人にしてはありえない顔立ちをしていたし、放つオーラにしても、詫び錆びとは無縁に思える華やかな雰囲気だった。
「うーん、似合わないけどなぁ。だいたいきみ、日本人じゃないだろう」 「ふふん、日本人よかよっぽど日本らしいさ。あんたこそ、外国の音楽を専攻してるんだろう。同じことさ。それにな、日本人だからってあんた、今まで何回、和服を着た?数える程だろう。普段から洋服を着ているからな。けど、言わせてもらうと、あんたたちは洋服を着たときの立ち振舞いも中途半端だ。和服の作法も知らず、洋服もお仕着せ。非常にもったいないと思うね、どっちのスタイルも半端だなんて。もっと自分の血に受け継がれた伝統を自覚して、自国の文化を大切にすべきだ」
矢継ぎ早に高説を並べ立てながら、ネズミと名乗る日本舞踊家は、ペロリとケーキを平らげた。
「紫苑、扇子ある?」 「あるけど…。え、なんでぼくの名前、」 「イヌカシが呼んでたのを聞いた」 「あ、そう」
紫苑が扇子を手渡すと、ネズミは軽く咳払いをし、確かな足どりで部屋の中央に進み出て、ひとさし舞ってみせた。それは清元の北州という男踊りで、その舞はネズミの矜持に違わず、美しく凛として媚びず、しなやかで力強い上に優雅だった。
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