音符は素早くいなくなる
!)現代パロっぽいもの ・紫苑もネズミも大人 ・紫苑はピアニスト、ネズミはバリトン歌手 ・紫ネズ…?
今日は紫苑のソロリサイタルの日だ。 紫苑は名の売れたピアニストで、毎月何回もコンサートをこなしている。 しかし今日のリサイタルは、それらのコンサートとは紫苑自身の思い入れが違う。 プログラムは新しく譜読みした曲が大半を占め、その選曲も全て紫苑による、自主企画のコンサート。
紫苑の気合いの入れようを知っているネズミは、自身も忙しいなかコンサートを聴きに来ていた。
音符は素早くいなくなる
しかし、紫苑が弾きはじめてすぐ、ネズミは異変に気づいた。
紫苑、調子が悪いのか?
自然な流れの中で滑るように動く紫苑の指が、いつもと違う。 ふわりと空気のように弾くパッセージが、いつもと違う。 フォルテの音量の迫力が、いつもと違う。
それでも紫苑は、やはり美しい音楽を奏でていたが、彼の絶頂を知っているネズミは不安でいたたまれない。
コンサートの中盤で、早くも紫苑は汗だくで、顔も上気していた。 そこでネズミは悟る。
紫苑、あいつ、熱でもあるんだな。 体調が悪いなら、延期するなりキャンセルするなり、手はいくらでもあるだろうに…!
はらはらと見守るネズミの気持ちが天に通じたのか、大きな事故もなくコンサートは終わり、会場には拍手喝采が溢れた。 その拍手の中、紫苑はアンコールのため、再びステージに現れる。
アンコール曲でショパンのワルツを軽やかに弾き、また袖に引っ込む。 それでもまだ拍手はやまない。
アンコールなんて、早く切り上げてしまえばいいのに。
いらいらと唇を噛みしめ、ネズミは席から腰を浮かす。 舞台袖まで駆けつけるつもりだった。 ホールというものは大抵、迷路のような造りになっている。 だが幸いネズミもこのホールでコンサートをしたことがあり、構造は知っている。
拍手を送り続ける客たちの間をすり抜ける時、客の感嘆する声が聞こえた。
「うまいわねぇ」 「あんな風に自在に弾けたら、さぞかし気持ち良いでしょうねぇ」 「いいねぇ、もとから才能のある人は」
それは客たちの純水な称賛だったが、ネズミは頭にカッと血がのぼるのを感じた。
自在に弾く? そのために紫苑がどれだけ、毎日毎日練習を重ね、苦労しているか。
気持ち良い? そりゃあ、そんな時もあるだろう。でなきゃ、演奏家になろうなんて思わないだろうからな。でも、いつもいつも、そうとは限らない。今日の紫苑はきっと、熱に浮かされ、体の不調に苦しみながら弾いていたことだろう。
もとから才能がある? そうかもしれない。けれど、才能があるから上手いんじゃない、考えぬかれ研究された奏法と、磨きぬかれた感性と、たゆまぬ努力によって積み上げられた「才能」なんだ。
何にも知らないくせに、紫苑の日頃の姿を何一つ知らないくせに、あいつが楽をして栄光を手にしているように言うな。 軽々しく憶測を口にするな。
八つ当たりとも取れる怒りが、ごうごうとネズミの頭の中に吹き荒れる。 ぐっと唇を噛み締めたまま、廊下を蹴って舞台袖へと向かう。
袖の下手(しもて)に着くと、紫苑はアンコール曲を数曲弾き終え、ステージから帰ってくるところだった。 紫苑はネズミの姿を見つけてふにゃりと笑い、そのまま膝からくずおれる。 ネズミは慌てて駆け寄り、紫苑を抱き止めた。
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タイトルは、巣さまよりお借りしました。
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