02
女の声が頭の中で反響する。
『大事な大事なぼうやなんだろう?』
こうも絡まれたらたまらない。 今日でお遊びは終わりだ。 紫苑に手を出されてからでは、 もう遅い。 今のうちに片付けておかなければ…。
女にばれないよう、ネズミはそっとナイフのサックを外す。
そうとは知らず、女は赤く長い爪で優しくネズミの頬を撫でた。
「ほら、私だけを見ていて…全てを私に預けてごらん…怖がらないで…さあ」
きつい香りが、鼻孔を直撃する。 胸のむかつくような香水の匂いに、ネズミは目眩さえ覚える。 絡みつく臭気に、ナイフの切っ先が鈍っていくような気がした。 目眩がひどくなる。 視界がぼやける。 光が歪んで、まわりの景色が蜃気楼のように見える。
「そういうことだったんだ」
熱に浮かされたような空気に、涼やかな声が響いた。 さっと冷気が滑り込む。 ネズミは、やっと目の焦点をあわせることができた。 女の背後に、信じられないものを見る。
「…紫苑?」
紫苑は、白髪と紅い蛇を隠すことなく立っていた。 女が驚いて目を見開く。
「おまえは…なぜここに…」 「ネズミから、離れてください」
礼儀正しく、紫苑は女に頼む。 しかしそれは、紛れもない命令の響きを持っていた。 一瞬怯んだ女は、次の瞬間笑い出していた。
「あははは、なんて馬鹿な子。イヴがどうして私に従っていたと思っているの?おまえを守るためだというのに。なんて愚かな…自分からのこのこ巣から出てくるなんて」
紫苑は、微笑んだ。
「愚かなのは、そちらです。…ネズミ、この人は何も知らない。つい先週、西ブロックに来たばかりの娼婦で、イヌカシから情報の断片を買っただけらしい。今日、イヌカシから聞いてきた」 「…へぇ。なるほど、形勢逆転だね、お姉さん?」
ネズミが凄絶に笑う。 鮮やかに女の腕を払い、動けないよう壁に押し付ける。その首にはナイフの切っ先があてがわれていた。 ひくっ、と女が息を呑む。 ネズミはその耳元で囁く。
「イヌカシが、娼婦の払える金額で、おれの家の正確な場所を教えるわけがない。さて、おれをたぶらかした罰を、どんなふうに与えてあげようか?」
女は喋らない。 唇を真一文字に引き結び、だんまりを決め込む。
「ネズミ、放してあげて」 「は?紫苑?」 「ここに来たばっかりの人だもの、勘弁してあげたら」 「あんたはなんでそう、いつもいつもお人好しなんだ」 「ネズミ、でも」 「…ちっ。分かったよ」
ネズミはナイフをしまい、女を突き放す。 最後に、低い声音で念を押すように凄む。
「いいか、おれと紫苑の前に二度と現れるな」
腰を抜かした女は、黙って頷いた。
紫苑がネズミの手を取る。 「早く帰ろう、ネズミ」
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