02
「きみ、」
男はゆっくり言葉を発した。 ゆっくり、慎重に。怖がらせないように。
「ここにいては危ない」
一度警戒されると、容易には近づけなくなる。 少女は無言で男を見返した。 その瞳に警戒の色は見えない。静かで強い瞳。 数十秒ほど少女は黙って男を見ていた。 男がもう一度、危ないからと繰り返そうと口を開きかけた時、やっと少女は話した。
「なぜ?」
澄んだ歌声とは違う、少女にしては低い声。 やはり、と思った。やはりこの子は…彼女の娘。 男は深く息を吸い、吐いた。そして、答える。
「ここは戦場になるんだ」
少女は数回まばたきをした。しばらく考えた末に、言う。
「関係、ない」 「関係ない?」
思わず男はおうむ返しに聞く。 また少女は黙った。言葉を探しているようだった。
話すことになれてないのか。
そう思って、男は辛抱強く待った。
「私は、待っている」 「何を?」 「兵士たちがここに来るのを」 「兵士たちがここに来たら、君はどうするのかな」
少女の眼がすっと細くなった。
「殺す」
男は思わず気圧され、息を詰める。 少女は繰り返す。
「その兵士たちを、殺す」
少女の瞳に宿ったもの。それは間違いなく、憎悪。 ああ、と男は納得する。 母親の仇をとるつもりなのだな。
少女の家はこの森のはずれにあった。そこは村境でもあった。少女はそこで母親と二人で暮らしていた。村人とはあまり接触を持たず、二人でひっそりと。しかし数日前、村は戦争の火に焼かれた。少女の母親も犠牲になったと、男は聞いている。
「あなたも兵士?」
少女は立ち上がった。
「どうかな?」
男は微笑んだ。
この子だ、そうだ、この子だ。やっと見つけた。私が見つけたんだ。
胸に嬉しさが込み上げる。 それとともに余裕も生まれた。この子は、物怖じしたり心を閉ざしたりしない子だ。気の強い子。そんな子なら、お手のものだ。今まで何度も出会ってきた。育ててきた。
「私が兵士だったら、君は私を殺すのかい?」
少女は動いた。目にも止まらぬ速さだった。しかし男の方が速かった。少女の左手を捻り上げ、その手に握られたナイフをはたき落とす。そのまま左手を封じる。 左利きだったのか。それも彼女と同じだ。 男は優しい目で少女を見て、諭すように言う。
「君には私を殺せないね。私一人殺せないようでは、君が殺したい兵士たち皆を殺せないよ。そのままじゃ、仇は討てない」
少女は無言で男を睨み付ける。
「それどころか」
男は少女の握っていたナイフを拾いあげる。それを少女の首筋にあてがう。
「君が逆に殺されてしまうかもしれないね」
少女は刃の冷たさにびくっと震えた。目に恐怖が浮かぶ。
「でも、安心しなさい」
男はナイフを少女から離すとくるりと手の内で回した。
「私は兵士ではない」
男は捻り上げていた少女の左手を自由にしてやる。
「私は兵士ではない。君の母親を殺した兵士ではない。反対に、彼女を守ろうとして間に合わなかった、哀れな男だよ。すまなかったね」
少女は目を見開き、男の言葉を聞いた。
「ほら、このナイフも返してあげる。私は君の味方なんだ」
男の差し出したナイフを受け取り、少女は何度か男とナイフを交互に見た。そしてやっと一言、ありがとうと、小さな声で呟いた。
「どういたしまして」
男は苦笑する。なにもかもが彼女に重なる。気の強いところ、はにかみ屋なところ。懐かしい。
「ところで、はじめに言ったように、ここは危ない。君の力では自分の身も守れないんだ。それは分かったかい?」 少女はこくりと頷く。 「私と一緒に安全なところへ行かないか?」 またこくりと頷いた。 男はほっとする。 「いい子だ。じゃあ、こちらへおいで」
少女を連れて移動中、男はふと気付いた。
「君、名前は?」 「ない」
しばし言葉を失う。 言い方を変えてみる。
「何と呼ばれていたんだい?」 少女はしばらく考えた。 「きら」 「それは、お母さんが?」 「母上は呼ばなかった。村の人たちが呼んだ」
きら。
少女をそう呼んだ村の人々はどんな漢字を連想していたのだろう。
綺羅星のごとく降り立った…光輝く子供。 そう、綺羅だ。
「うん、いい名前なんじゃないかな」
娘に名前をつけないとはまた、彼女らしい。 自分で名前を見つけさせる。 そして、娘はちゃんと、いい名前を見つけ出した。さすがじゃないか。
男はからりと笑った。
|
|