「あっつ…」

風は凪ぎ、熱気があたりに立ち込めていた。
照りつける日光と、地面から反射した熱が少年の肌を焼く。
アパートのベランダに置かれた室外機の熱風に煽られ、少年はさらにげんなりした。

これだから都会は嫌なんだ。
いわゆるヒートアイランドってやつ。
冬場は過ごしやすいけど、夏は最悪。

額から垂れてきた汗をぬぐう。
背中のランドセルがやけに重かった。


校舎に入ると、心持ちましになったように思えた。
空調設備はないけれど、道路ではあれほど凪いでいた風が、少しだけ通る。
ほっと息をつき教室へ入ると、そこは何故だか華やぎ浮き足だっていた。

少年は自分の席に、ランドセルを落とすように置く。
背中の重量がなくなり、心も軽くなったように感じる。
ランドセルから文庫本を取り出しながら、席につく。
始業までにまだ少し時間があった。

「なぁ」

自分に声をかけられたとは思わず少年が黙って読書を続けていると、今度は名前を呼ばれる。
驚いて顔を上げれば、教室の中心で騒いでいた一人が少年が話しかけていた。

「なぁ、サーカスがこの街に来るんだって、知ってた?」
「え?そうなの?」

少年が戸惑うと、相手は得意げに喋り始めた。

「夏休みくらいから公演するんだってさ!場所はあの…あっ、きみの家の近くだ、ねぇ、テントとか見なかった?」

いつの間にか少年の周りにクラスメイトたちがわさわさと集まってきていた。

「…あ、えと、そういえば昨日…、引っ越し屋さんくらい大きなキャンピングカーとかトラクターが近くの広場にいっぱい…」

少年がしどろもどろに答えると、クラスメイトたちが歓声を上げる。
少年は焦る。

「でも、それはそのサーカスじゃないかもしれな…」

はじめに話しかけてきたクラスメイトが少年の肩をぽんっと叩く。

「たぶん、それだよ!今日あたりに、もうテントが立ってるかもしれない!帰りに寄ってみようよ!」

賛成、いいね、行こう!と次々に声が上がる。
がやがやと部屋中がますます騒がしくなった時、チャイムが鳴った。
ガラッと教室の引き戸が開き、担任の先生が入ってくる。

「おはようーうるさいぞー静かにー」

クラスメイトはばらばらと各自の席へ戻っていく。
少年は無意識に肩に力が入っていた事に気付き、ため息をついた。


数時間後、少年は暑さに呻きながら、再び夕日の射す通学路を歩いていた。
今朝騒いでいた子達は、終業と同時に教室を飛び出すようにして出ていった。きっと、一目散にサーカスのテントを見に行くのだろう。

ゆっくりと足を運ぶ少年の耳に、小さく笛の音が届いた。
大道芸人の囃し笛?
歩く速度は変えず、しかし密かに心躍らせながら、少年はその音の聞こえる方へ向かう。

はたしてそこには、小さなピエロと面白いメイクを施した女の人がいた。
たくさんの見物人がいる。少年はその中にクラスメイトたちの顔を見つけた。

笛を吹いているのは女の人の方だ。
ピエロは跳んだりはねたり、大きなボールに乗って転がったり、ばくてんや宙返りをして見物人を楽しませている。
ときどき、足を滑らせるふりをしては、見物人をひやひやさせた。

少年はその場に立ち止まったまま、少し遠くからそのピエロを見つめた。
垂れ目のメイク、星形の涙、いつも笑っているように見える口元、コントラストの激しい派手な衣装。水玉模様の三角帽子から、つんつんとんがった黄色の髪がはみ出ていた。

ピエロは足を振り上げ、片方の靴を空中へ放る。真上へ数メートル、高く飛ぶ靴。ピエロも高く跳ぶ。くるりと軽く宙返り。靴が落ちてくる。空中でピエロは右足を上げる。靴がピエロの足に引っ掛かる。靴を右足に引っ掛けたまま、ピエロは左足で着地。

わぁっと歓声と拍手が起こる。口笛や、ナイスキャッチ!という声も飛んだ。
ピエロは笑って手を振っている。
ふと、ピエロがこちらの方を見た。
少年はピエロと目が合った気がした。
ピエロは今までとは別の笑い方をした。瞳がいたずらっぽく光る。
少年は、はっとした。

今の表情、どこかで見た、どこかで…。
あっ。
そうだ、校門を軽々と飛び越えたあの少女、綺羅が…同じ笑い方をしていた。
そうだ、きっと、きっと彼女だ!

少年は確信にも似た直感をおぼえる。

拍手が止む。
笛を吹いていた女の人が満面の笑みで、今日はもうお開きです、と言う。
人々はねぎらいとしてお金を少し、小さなピエロの持つカラフルな箱に入れて帰っていく。
クラスメイトたちも自分たちのわずかなお小遣いをピエロに渡していた。

人波が退いてから、少年はピエロに近づく。おそるおそる尋ねてみる。

「あの…若狭綺羅、さん?」

ピエロはにやりと口端を釣り上げるようにして笑った。普通に笑っただけなのだろうが、口元のメイクがそう見せていた。

「おまえなら気付くと思っていた」
「え?」
「ちょっと寄ってかないか」

すぐそばの広場に、色とりどりのテントがいくつか立っていた。その裏手に、トレーラーハウスがたくさん建っていた。トラクターもある。昨日、少年が目撃したものだ。
綺羅はそのひとつを指差す。

「あそこ。紅茶とお菓子食べないか」
「え、あ、うん、ありがとう」
「そうこなくっちゃ。じゃっ、ちょっとあのハウスに入って待っててくれる」

少年がまだ面食らっているうちに、綺羅はおどけたように首を傾げ、にかっと笑うとは軽やかにステップしながら黄色のテントに消えてしまった。

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