すべてが灰色に染まったあの日 しかし次の日、何事もなかったかのように、少女の目は少年を素通りした。 綺羅は黙したまま席につく。 背筋の伸びた折り目正しいその姿勢は、終業まで崩れることはなかった。 彼女は廊下を駆けることもなかったし、誰かと話して笑うこともなかった。 ただ、物静かな佇まいで、高嶺の花としての孤高さを保っていた。 その日の体育の時間。 いつも通り、彼女は見学していた。 少年も見学の席に並んで座り、ちらりと隣を見る。 少女の目はやはり、宙をさまよい、クラスメイトの動きを追う。 少年のように、ただクラスメイトを「眺めている」のではない。 少女のあの目線はきっと…羨望。 彼女もクラスメイトたちと活動したいのだ。 「ねぇ」 初めて、少年は少女に話しかけていた。 少女は首だけ動かして少年と視線を合わせる。 その黒い瞳は、彼女自身の感情は映さず、鏡のように少年の姿を写していた。 「ねぇ、体育出ないの?」 少年の問いに、少女はこくりと首肯する。 「どうして?」 「……」 しばらく沈黙が続く。 答えてくれないのか、と少年が諦めかけた頃、少女はようやく口を開いた。 「…止められてるから」 「でも、運動、したいんでしょ?」 少女はまた、頷いた。 「体が弱いの?ドクターストップ?」 少女は少し迷い、小さく首を振る。 じゃあなんで、と言いかけたが、途中でやめた。 昨日の彼女の動きは、普通ではなかった。 深読みするわけじゃないけど、なにか事情があるのかもしれない。 それを彼女は隠しているのかもしれない。 きっと、詮索なんてされたくないだろう。 少年はそう考えて、結局こう言った。 「身体に差し障りがないんなら、好きなことは自由にしていいと思うんだけどなぁ」 少女はきょとんと首をかしげる。 「運動、好きなんでしょ?」 「…え」 なんで、分かったの?あなたとは話した事がないのに。いや、誰にも話してないのに。 綺羅の瞳はそう語っていた。 少年は彼女の表情が動いたことが嬉しくて、小さく声をたてて笑う。 「だってきみ、ずっと見てるんだもの。ずっと、みんなの動きを視線で追って」 少女はひどく驚いた顔をして、少年に尋ねる。 「あなただって、羨ましそうに見てる。どこが違う?」 「ぼくは半分諦めてるけど、きみは視線はちょっと違うって、分かるよ。ストップかけてる人にお願いしてみたらいいのに」 少女は少年の言葉を咀嚼するように少し黙り、こう言った。 「ううん、いい。もうじき学校にも来れなくなるし」 「え?」 少女は寂しそうな色の瞳を伏せ、首を振る。黙ったまま視線をグラウンドの方へ戻す。 少年もそれ以上追及するのは控え、膝をかかえ直してクラスメイトたちを見ることにした。 その授業が終わる直前、思い出したように少女は一言、ありがとうと言った。 「え?なにが?」 少年の問いは、チャイムの音にのみ込まれる。 聞こえたのか聞こえなかったのか、戸惑う少年を残し少女は静かに歩み去った。 明くる週の月曜日、若狭綺羅は欠席した。 そして、火曜日も、水曜日も彼女は欠席し…それから、学校で綺羅の姿を見ることはなくなった。 少年は鬱々として日々を送った。 少女不在の日常風景は、まるで鮮やかさを失っていた。 少女が与えた光は、彼女が消えることによっていとも簡単に失われる。 しかも、一度光に慣れた少年の目には、今の風景が余計にくすんで見えた。 |