プロローグ ひらり、ひらり、かさっ。 琥珀色をした扇形の葉が、少年の足元に舞い落ちる。 彼は歩みを止め、葉の軌道を追って頭上を仰ぐ。 その銀杏の大木はまだ青かったが、ちらほらと黄色が垣間見えた。 ゆっくりと屈み、そっとイチョウを拾い上げる。茎をつまみ、くるりと回転させる。 少年はふっと息をつく。 もうそんな時期か。 毎年、晩夏になると思い出す。 あの、綺羅という少女のことを。 夏と共に去りゆくもの 少年は内気で、体が弱かった。 だから、同年代の子供たちと屋外で遊ぶことはなかったし、頭の痛くなるゲーム類やパソコンにも興味は沸かなかった。 彼の趣味は、観察。 空を見上げ、雲の形から空想をふくらます。 電車の窓を流れる景色を眺め、その風景と街並みを楽しむ。 道行く人々の表情や言動を、離れた距離から黙って見る。 彼は次第に人間観察が上手くなり、小学校に上がる頃には初めて見る人の職業や情況、精神状態までおおむね言い当てられるようになった。 しかしそのせいで、少年は周囲から疎まれた。 彼はまだ、他人との折り合いの付け方を知らなかった。自分の本当の気持ちを上手く隠すことができなかった。 だから、いつも他人と一歩距離を置くようになり、一人でいることが多くなっていった。 彼が無口な少年になったそんな時、一人の少女が同じクラスに転校してきた。 『若狭綺羅です。よろしくお願いします』 自己紹介の声は、思いの外はっきりしていた。 その声色の透明な響きが、今でも耳に残っている。 長い黒髪をさらりと背中に流したその少女の第一印象は、おとなしそうな優等生。 しかし、人間観察の得意な彼でさえ、少女の本当のところは分からなかった。 どこから来たのか? どんな人柄?どんな性格? どんな価値観?その言動は? 皆目見当がつかなかった。 こんなことは初めだった。 今まで、人見知りをする人の性格でさえ予想できたのに。 あの少女は、だれ? 少年はすこし、興味を持った。 綺羅は体が弱いのか、いつも体育の授業を見学していた。 少年もそうだ。 だから、よく並んで膝をかかえて座り、級友たちの活動する様を眺めた。 しばらくして、少年は少女に違和感を覚えた。 少女はクラスメイトの動きを、まるで自分がその人であるかのように細かく目で追っている。 ただぼんやりと眺めているのではない。 まるで審判のような鋭さ。 もしかして昔、この子はスポーツでもしていたのかな。 ちらりとそんな事を思った。 少女は一度も体育の授業に出席しなかった。 普段の学校生活においても、走ったり跳び跳ねたりすることはなかった。 休み時間も、たいていは一人で机につき、静かに読書などをしている。 美人で口数の少ない、伏せ目がちで控えめな優等生。 転校してきた当初彼女に興味を持っていたクラスメイトたちは、春が終わる頃になると他の事に興味を移していた。 そんなある日の放課後、時刻は午後6時。 湿度の高い生暖かい風が吹いている。まだ暑くてたまらないというわけではなかったが、ランドセルを背負った背中は汗でじっとりと湿っていた。 「どうしよ…」 すでに閉まってしまった学校の裏門を前に、少年はすこし困っていた。 裏門から出た方が家への近道なのだが、仕方ない。 正門から出て回り道をして帰ろう。 そう諦めて裏門に背を向けた時、ひゅっと風が吹いた。 その方向へ振り向く前に、たくさんの音が少年の耳に飛び込む。 タタタタッという足音、たんっ、と足を踏み込む音、ランドセルの金具の音。 とんっ、と軽い着地の音もした。 ガシャン。 風に煽られて、古びた校門の格子が遅れて音を立てた。 え? 少年は驚き、棒立ちになる。 格子を挟んだ向こう側に、あの少女がいた。 綺羅という不可思議な少女。 え?…あの子、校門を跳び越えた? 綺羅は少年に気付くと、ちょっとびっくりしたような顔をした。 長い睫毛が、ゆっくりまばたく。 一瞬の後、その瞳にいたずらっ子のような光が灯った。 彼女は人差し指を口元に立ててみせ… Shi-- 少年はほぼ無意識に頷いていた。 少女はにこっと笑うと、長い黒髪を翻して軽やかに駆け去った。 視界から少女が消えると、束の間忘れていた暑さが戻ってくる。 少年は目の前にそびえ立つ校門をしばらく見上げていたが、少女に倣うことは諦めて踵をかえす。 帰路、少年は思った。 (あれ?彼女、病弱だったよね?) |