魔法の言葉 驚いた。 無口で病弱な少女が、今はピエロで、しかも軽快に喋っている。いや、でも、そんなに驚いてない。なんとなく気付いていた気がする。 学校での彼女は演技、そして多分、今のピエロもひとつの役柄としての演技なのだろう。 少年は示されたトレーラーハウスのドアを開け、ためらいながら足を踏み入れる。中には誰もいなかった。 箱型の居室には、窓、ダイニングテーブル、キッチンなどがあった。他には、簡易ベッドが2つ、巨大なトランクが1つ、リュックが1つ。まるで部屋ようだった。 少年が入り口近くで所在なく佇んでいると、ドアが音を立てて勢いよく開いた。びくっと飛び退く。 「あ、座っててよかったのに」 ひょこっと顔を覗かせたのは綺羅だった。メイクを落とし、半袖短パンに着替えていた。 淡い金髪は肩につかないくらい短く、長い睫毛に縁取られた瞳は紫色。 「…すごいね」 「なにが?」 「家みたいだ」 少年が感嘆してそう呟くと、綺羅とは別の声がそれに答えた。 「まあね。トイレやシャワーもあるよ。ここには生活に必要な装備が一通り整えられている。普通の家とそう変わらないな。ただ違うのはね、このハウスは法律上、建築物じゃなく車両として扱われるってこと。つまり不動産じゃないから固定資産税がかからないのさ。おっと、君たちにはちょっと難しかったかな」 「陽雷さん、いつの間に…」 綺羅は驚いて呟いた。 少年も面食らい、綺羅が陽雷と呼んだ人物を見つめる。 背丈は中庸、飛び抜けて美人ではないが好感度のある整った容貌、優しく面倒見の良い姉御肌という雰囲気だ。 「気付かなかった?それはそうと、お客さんかい?」 年齢はというと、お姉さんとおばさんの中間あたり。しかし、おばさんと呼ぶのは少し失礼にあたるように思えた。彼女は若作りはしていないが、動作がきびきびとして活き活きとしていたからだ。 「綺羅が友達を呼ぶなんて、珍しいこともあるんだねぇ。ぼうや、何年生だい」 「あ…小学5年です」 そこで少年は唐突に気付いた。 「あ、お姉さん、あそこで綺羅と一緒に笛を吹いていた人?」 大道芸をしていた女性は、面白いメイクをしていた。派手なコスチュームを着ていた。 しかし、目の前に立つこの女性は今や素っぴんで、ラフな格好をしている。まるで、別人。だからすぐには分からなかった。 陽雷は豪快に笑う。 「こりゃあ、驚いた。あんた、大物だね。会って1分も経たないうちに正体見抜かれちまった」 愉快そうに笑う陽雷を尻目に、綺羅は少年にそっと耳打ちする。 「このトレーラーハウスは彼女のものなんだ。わたしは居候みたいなもん」 へぇ、と少年は控えめに頷く。 「それじゃあ、あたしは他に寄ってくよ。なんだかこの街が楽しみになってきた。本当に、楽しみだ」 ひとしきり笑うと、陽雷は手を降って歩み去った。 「いつもながら、嵐みたいな人だな。あ、紅茶淹れなきゃな。何がいい」 「え?」 綺羅は流しに向かいながらよどみなく言葉をつらねる。 「ダージリン、アッサム、アールグレイ、アップル、チェリー、ストロベリー、どれがいい?」 「えっと…」 「ま、どれもバックだけど」 「べつに、何でも」 「あ、そう」 少年はカップにポットからお湯を注ぐ綺羅の手元をぼんやり見ていた。 「あれ、まだ立ってんの?ほら座れって」 「えと、あ、じゃあ失礼します」 「堅苦しすぎ。面接試験かよ」 ははっと綺羅は笑う。 赤面しながら少年が椅子に座ると、彼女もテーブルに紅茶とクッキーを置いて向かいに座った。 カップを手に取り、今度は少年から口を開く。 「結局、何淹れたの?」 「何だと思う」 「全然、分からない。あっ、でもフルーツ系じゃないとは、思う」 「アッサム。色、濃いだろ、茶色よりは紅に近くて。よくミルクティーで飲まれる」 「ふうん」 「今ちょっとミルクないけど。アッサムは味にこくがあるんだって。ちょと、甘くておいしいだろ。それにあのダージリンは安くて渋すぎるから飲みたくなかったし」 少年は目を白黒させる。 紅茶のことなんて、全く知らない。ない知識を総動員して、うまく話を合わせようとする。 「ダージリンってよく聞くかも」 「ダージリンは紅茶のシャンパンだよ。セイロンのウバ、中国のキーマンと並んで世界の三大紅茶と称されてる。さっき渋くて嫌だって言ったけど、ダージリンは渋味も魅力のひとつなんだ」 「そうなんだ。これは…アッサムだっけ、全然渋くないね」 「ああ、そうだろう?そうそう、もうひとつ、あのダージリンが嫌われる理由。知りたい?」 少年は戸惑いながら頷く。 「今、市場に『ダージリン』の名称で出回っている茶葉って、実際の生産量よりかなり多いんだ。それって、偽物やほんの少しだけダージリンが混じってるってだけの劣悪品の類が出回ってるってこと。だから安いダージリンは大抵、本物と思わない方がいい」 「詳しいんだね」 ふふっと綺羅は苦笑した。 「いや、同居人が飲み物にうるさくて、さっきの全部その受け売り。いつも批評してばっかりだから、移っちゃった」 「さっきの人だよね」 「そう。ほらあのでっかいトランク、彼女の」 「じゃあ、あのリュックはきみの?」 「そう」 「え、それだけ?」 「もちろん。身の回り品は極力少なく、がモットーだから」 綺羅は笑ってクッキーに手を伸ばす。 「ねえ」 「うん?」 「どうして学校来なくなったの?」 少年は思いきって聞いてみる。 ああ、と綺羅はなんでもないことのように頷いた。 「今回初めて、ショーでソロをするんだ」 「え、ソロ?」 「そう。綱渡りなんだけど。特訓してたからさ。いつもは公演中でも学校行くんだけど」 「そうなんだ!すごい。サーカス、絶対観に行くから」 綺羅は嬉しそうに、でも少しはにかんだように笑った。 「そういえばおまえ、驚かないのな」 「え?うん、だって、きみならサーカスの花形だっておかしくない」 「あ、そうじゃなくて。見た目も、大分違うし」 「もちろん、驚いてる。きみがこんなによく喋る子だなんて知らなかった。髪とか目も、びっくりした」 「あ、こっちが本物」 「うん、そんな気がした。だって、そっちの方が似合ってる」 学校ではずっと伏せ目がちだった少女の眼は開かれ、少年はその瞳を覗き込むことができた。 そこに宇宙を見るようだった。 その不思議な紫色は、カラーコンタクトなんかじゃない。 「そっか。おまえは本質を見抜く目を持っているんだな。陽雷さんも驚いてた。でも、思うけど、おまえはたぶん…」 綺羅はそこで言い淀んだ。 「たぶん、なに?」 「…やっぱりいい。うまく言えないから」 少年は首を傾げる。 けれどもう、それ以上綺羅は話しそうになかった。 少年は立ち上がる。 「今日はありがとう。君と話せて良かった、ごちそうさまでした」 「あ、うん、またいつでも来いよ」 帰り道、少年の足取りは少し軽くなっていた。 トレーラーハウスを出ると、またうだる暑さが少年を襲ったが、あまり気にならなかった。 綺羅との会話が、少年の心を潤していた。 そう、それはまるで、魔法の言葉。 |