空港のロビー。
俺は幼なじみの名前と、東京の大学の推薦を受けて、あっちの大学に進学を決めた高校三年生の白石とこっちで過ごす、最後の時間を惜しんでいた。

三年間…、同級生として、テニス部のマネージャーとして、白石を見守ってきた名前は俺のパーカーの裾をぎゅっと、掴んで必死に涙を堪えていた。
強がりのこいつの涙を見たのは、これで三回目になる。一回目はこいつの両親が離婚した時、二回目は俺らが最後の全国大会で優勝でけへんかった時…、最後は今日の見送り。


「じゃあ俺…、もうそろゲートに向かうわ。」

「…蔵っ!あっちでも元気でね!これからもちゃんと…電話もっ…メールもしてよねっ」


ゲートに向かおうと立ち上がった白石に気がついた名前は慌てて立ち上がって、白石の肩に両手を置けば、涙混じりの声で泣きそうな顔を見せたくないのか、俯き加減でそう白石に告げた。そんな名前を見た白石も、心なしか泣きそうになっている気がした。

白石はいつもみたいに名前の髪をわしゃわしゃっと撫でてから、柔らかく微笑む。


「当たり前やろ。……名前、そんな顔したらあかん。頼むから笑っててや。これが永遠の別れとはちゃうんやから。」


眉を下げて名残惜しそうに笑えば、白石はそう茶化した。白石らしいな、なんて、蚊帳の外の俺は思う。


「ん!……東京行っても…、絶対無理しないこと!たくさん寝て…テニスだけやなくてちゃんと勉強もして、友達もいっぱい作って…ほんでっ…ほんで…!なんかあったらいつでも、あたしらに頼ってきてな!」


顔をあげた名前はぎこちないながらも、精一杯笑っていた。そんな彼女につられるように、俺もふっと笑みを浮かべる。名前の笑顔は人を幸せにする笑顔やと思う。
彼女のまるで母親のような言葉を聞いて、俺と白石は思わず吹き出した。


「名前…自分、いくらなんでも心配しすぎやろ。白石かってもう子供やないし…、それにしっかりしてる方なんやから…大丈夫やろ。なあ、白石?」

「うん…そうやで、名前。」

「だって…だってだってっ!ほんまに心配なんやもん!……蔵のことが…好き、やから…」


涙を流しながら、白石の胸をぽかぽかと叩く名前の口から、絞り出すように紡がれた言葉に俺と白石は面食らって顔を見合わせた。

あーあ…、とうとう言ってもうたか。
この三年間…いや、名前と出会ってからずっと…、こいつを見守ってきた俺はとうに白石への想いに気がついていた。そして…、勘のいい白石も名前の深い愛情をひしひしと感じていたはず。

お互いに好きあってる二人やけど、東京の大学への進学を渋っていた白石の背中を名前が押したことによって、ずっと言わないもんだと思って安心しきっていた。ずるいよな、俺…。名前の幸せを願うこともできやんなんて、最低だよな…。
自分はこの心地よい関係を崩してまで、この長年の想いを告げる勇気は出せなかったくせに。ここでこんなにも後悔するなんて…。


「……このタイミングで言うんか…。あほやなあ…、名前…。うんといい男になってから、名前のこと迎えに来ようと思っとったのに…、先越されたかあ…」


自分の髪をくしゃくしゃっとして、頭を抱えた白石の目には涙が光っていた。
きっと嬉しさと、名前を一緒に東京に連れていくことはできないどうしようもない気持ちが入り混じった涙だろう。今の自分じゃ、名前を幸せにすることはでけへんから。ここで結ばれたって、遠距離になって、名前に寂しい思いをさせることになってしまうだけやから。


「蔵のばか…!あほはあんたや!あたしをいつまで待たせる気やったんよ!」


名前はそう涙声で怒鳴ると、頬に伝う涙を拭うことも忘れて、困ったように笑う白石の胸に飛び込んだ。







こっから二人の長い遠距離恋愛が始まった。
朝の通学電車の中、俺の肩にもたれてすうすうと静かに寝息を立てる名前を起こさないように、彼女のさらさら揺れる髪を撫でてふっと微笑んだ。

名前は俺の幼なじみから、もう好きとは告げることが許されない友達の彼女になった。

学校までの通学の約二十分…、この時間だけが名前の隣を俺が独占することができる唯一の時間。愛しくて尊い…、神様が俺に与えてくれた、隣で眠る名前に恋することが許された…、特別すぎる時間。


「おい、名前。そろそろ大学前に着くで。そろそろ起きな」


車内に流れる無機質なアナウンスを耳にすると、この時間を名残惜しく思う気持ちに気がつかないふりをして、隣で無防備に眠っている名前の方を揺らした。俺の声に気がついた名前は、目を開けて眠たそうに目を擦ってから寝ぼけながらも、「ありがとう」と笑みを浮かべた。

そう…、この笑顔。俺はこの笑顔を見れるだけで満足なんや。毎朝そう自分に言い聞かせて…、この電車を降りた瞬間から、俺は彼女の幼なじみであり、親友に戻る。


「あっ…蔵やあ!」


ポケットの中で揺れたスマホを取り出して、画面を確認した名前の顔はぱっと花が開いたように明るくなる。
……俺にはさせられない顔や。あれからもう二ヶ月…。見慣れたはずのその表情に、胸の奥がぎゅっと搾られたように苦しくなった。


「うんっうんっ!今ね、電車降りて謙也と学校まで歩くとこ!え?大丈夫やってー!あっ、わかった!今謙也に代わるね!」


嬉しそうに通話する名前に向ける、俺の切ないこの感情に彼女が気がついてくれることは一生ないんやろうな、なんて顔に似合わない感傷に浸っていたら、満面の笑みでスマホを手渡された。朝からこいつの彼氏である白石の声を聞くなんて気が進まないな、なんて思いながらも渋々スマホを受け取る。


「おはよう、謙也」

「おはようさん。朝練終わりか?」

「せやで。謙也、いつも名前と学校まで行ってくれてありがとうな。あいつ…、遅刻魔やから謙也がついてくれてて安心やわ。てか…謙也がほんまにテニスやめてまうなんて…、びっくりやわー。ほんまもったいないわー」

「あー…うん。俺は白石と違って、プロ目指したりする気は元々なかったし。お前は俺の分までテニスがんばれよ。」


すっかり名前の彼氏ぶりが板についた白石と話す度に、どうしようもなく胸が痛む。
俺は名前と毎朝一緒におりたいがために、テニスをやめた。女を理由にテニスをやめてしまっただなんて、財前やオサムちゃんにバレたらあきれられんやろうな。

それでも…、名前と一緒におれる時間は今だけになるやろうから、できるだけ大切にしたかった。きっとそのうち…、こうして少しでも一緒におることは許されなくなるやろうから。


「こんなん言うたら情けないんやけどな…、お前が名前とどうにかなるなんてありえへんってわかってんけど…、正直……いつも名前のそばにおれるお前が…、めちゃくちゃうらやましいねん。」

「……何言うとんねん。ほんまに情けないし…らしくないで、白石。名前の気持ちは自分に向いてて、紛れもなく名前は自分のものなんやから…、そんな気持ちになる必要ないやろー?」


沈んだ声でそう俺にだけこぼした白石を笑い飛ばすように、俺は彼とは対照的な明るい声でそう励ました。
少しだけ…、彼氏である白石にうらやましいと言われて、優越感を感じた。俺はほんとにひどいやつや。

そして、その言葉は、白石に向けたつもりやったけど…知らず知らずのうちにあほな自分にも言い聞かせたのかもしれん。名前は、白石のもの。俺のものには一生ならへんって…。


「もー、謙也あ!いつまで話してるんよお!そろそろあたしも蔵と話したい!」


俺の胸中を知る由もない名前はぷりぷりと怒りながら、スマホに手を伸ばしてきた。俺は苦笑いをしながら名前にスマホを返す。
俺が毎朝の通学時間を大切にするように、名前も毎朝のこの電話の時間を大切にしてるんよな。ラブラブっぷりを見せつけるんもほどほどにしてほしいわ。




「お二人さん、おはよーさん!今日も仲がよろしいことで!」


名前と肩を並べて教室のドアを開けると、にやにやした同級生に出迎えられた。毎回のことや。まさに茶番。


「やかましいねん。俺らはなんもないって。こいつには東京に住んどるイケメンの彼氏がおるし。」

「ほーんま、残念なこっちゃなあ。自分らお似合いなのに。自分らが付き合っちゃえばええやん」


いつも通りに否定するけど、お似合いに見えると言われる度に俺は嬉しくて、いつもつい浮かれてしまう。

友人の出した提案は俺にとっては嬉しい提案だが、名前がそれを許さない。名前の近くの席で話していたせいか、むくれ顔の名前が割って入ってきた。せやから、いつも抜か喜びに終わる。


「そーやでえ!何言うとんの!謙也とはずーっと幼なじみ!」


名前はそう言って、俺の肩に腕を回してにっと歯を見せて笑って見せた。
意識してないふりをして眉を下げて笑ったものの…、急に近くなった距離のせいで心臓がうるさい。ときめいたらあかん。これは名前にとっては友情の証みたいなもんで、特に意味は無い。

幼なじみというポジションで、ここにいる誰よりも近くにおれることだけでも幸せなんや。




放課後、俺の隣をとぼとぼと歩く名前に元気がない気がした。そう言えば、いつもかかってくるはずの学校が終わったことを知らせる白石からの電話もない。

俺は俯き加減で無言で歩き続ける名前の腕を掴んで立ち止まり、彼女の顔を覗き込んだ。


「どうした?白石と何かあったん?」

「っ…!」


そう聞いたさなか、名前の瞳からは溜め込まれていた涙がぶわっと溢れ出す。白石とくっついてから、こいつは泣き虫になった。

ついこの間も、「当たり前のように毎日会えとったのに、急に会えなくなってめちゃくちゃ不安や。さみしい。」と泣いていた。俺の前で泣かれても、抱きしめてやることはできんから…ただそばにいて、背中を揺すってやることしかでけへん。もどかしくて仕方がない。

こんな時、白石がこいつのそばにおったら…。いや、こいつが白石の彼女やなくて俺の彼女やったら…。
考えるな、あほ。そんなん考えるだけ心に毒や。今は、俺がこいつにしてやれることだけを考えろ。


「っ…ぐすっ…今日な…、休み時間に蔵と電話しとったんやけど…、蔵がおなじサークルの女の子に呼ばれて電話切っちゃったんが寂しくて…くだらんヤキモチ妬いて…、当たっちゃってけんかしてもーた。蔵は悪くないのに…どうしよう…」

「………」

「もう……あたしら…あかんかもしれん…」


俺はとりあえず、近くの自販機であったかいココアを買ってきて、さめざめと泣く名前を近くのベンチに座らせると、いつものように背中を揺すりながら考えた。
名前はこんなにも苦しそうで…こんなにも泣いとるのに、もしも二人がほんまにあかんくなったら…、なんてそんな考えが浮かんでは消える。こんなこと考えとるんが名前にバレたら、名前はきっとそばに置いてくれなくなるんやろうな…。

俺はこいつのただの幼なじみなんやから、名前が白石と別れたって俺を見てくれるとは限らないのに。俺はほんまにどうしょーもない最低男や。
せやけど…せやけど!白石が名前にこんな顔させ続けるんやったら…、俺が奪ってやろうかと思ってしまう。そしたら、毎日笑わせてやれるのに。


「名前…、あのな、」

「謙也あ…あたしね、たぶんね…、もしこのまま蔵に振られたとしても…、ずっと蔵のこと忘れられへんと思う。たぶん…、ずっと蔵のことが好き。」


泣くのをやめずに、口元を歪ませてそう言い切った名前を見て目が覚めた。

ずっと…ずっと…、ずっと、恋していた。
何度も、数え切れへんくらいにこの恋をあきらめようとしたけど、そんなことはできなくて苦しかった。

せやけど、この瞬間…思い知った。
このまま白石とだめになってもーたら、こいつは俺の横じゃ一生…、本当の笑顔で笑えなくなる。俺の気持ちは…一生……、名前には届かない。

泣きそうになりながらも、ぐっと堪えて精一杯笑顔を作った。ちゃんと笑えとったらええな。


「大丈夫やで、名前。ちょっとそこで待ってろ!」

「えっ…謙也?!」


ぽんぽん、と名前の髪を撫でると、俺は財布を握りしめて駅へと走った。

息を切らせて戻ると、そこにはまだ泣いている名前がいて。
俺は大きく深呼吸をすると、全財産をつぎ込んだそれを名前の手に握らせた。


「東京への片道切符や!」

「は…?」


顔をあげた名前の涙は驚きすぎたせいなのか、止まっていた。口を開けたまま、片道切符を見つめている。

俺は鼻をすすって、さっきと同じような笑顔を作ってばんっと名前の背中を叩く。いきなり痛みが走った背中に名前は顔を歪めて、反射的に俺を睨んだ。


「そんなに泣くほど好きなら、今すぐ言って伝えて来い。だめになって、後悔して泣いてたって…俺にもうお前の涙を拭ってやることはでけへんから。」

「謙也…」

「ほら、早く!」


ためらう名前の腕を引いて、彼女の背中を押して新幹線へと押し込んだ。
発射を知らせるけたたましい音が流れる中、名前は振り返って俺に抱きついた。


「謙也っ…ほんまに…ほんっまに、ありがとう!」


そう紡いだ名前は、俺のずっと好きやった笑顔を浮かべていた。ほっとした。こうすんのが、やっぱり正解やったんや。

お礼なんて言われるようなことはしていない。だって俺は、お前が白石とうまくいかなければいいと、何度も考えたような男やから。
どうしたって叶わない恋なら、背中を押して、さようならをするまでや。


「名前…っ、名前…名前…。……好き、やった。ずっと大好きやったで……」


新幹線の扉が閉まって、名前を見送った後に拳を握りしめて、少しだけ…声を殺して泣いた。
長くて…、ほろ苦かった恋がここで終わる。

……今までありがとう、名前。




次の日の朝、満面の名前と白石が映った写メと、「蔵と無事仲直り!蔵も謙也にありがとうって言うてはるよ!」というメッセージが届いた。
大丈夫や…、もう泣かない。大丈夫…、明日になったらもう名前の隣でいつものように俺は笑える。

しんどかった練習の合間…、しんどかった受験勉強の最中…、名前の笑顔だけが俺の幸福やった。
せやけど…、これからはそうもいかない。今はまだ胸の痛みは消えへんけど…、もう前に進むことができると思った。

(名前よりもうんといい女を捕まえて、名前と白石を驚かせてやろうと心に誓った。)

2017.03.23



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