※注意※

・お手数をおかけして大変申し訳ないのですが、今作をお読みになる前に、第5回「Hero」の“あなたのためならば夜をも喰らう所存だ”→第6回「Villain」“嘘とラブソング→第5回「Hero」の“もし君がヒーローだったら”を読まれることをオススメします。(読むのがメンドイと思われた方は“夢主は浅井氏の同盟国の姫で、一時期浅井領にいたため高虎とは幼馴染以上で戦国のロミジュリ”とだけ頭の隅に置いて頂ければ読まなくても無問題です。)

・無双の知識は勉強中かつアニメと動画サイトのゲーム実況のみ。

・キャラ崩壊あり。

・話はやや史実ベースで進行しつつも、話の都合により改変・捏造あり。

・話の都合上の理由で捏造設定&オリキャラが乱舞。

・「高虎の手ぬぐいはお市様があげた設定以外認めん!」という方はブラウザバックお願いします。

・死ネタあり、ダーク戦国無双。

・安定の駄文・駄作クオリティ。

・バファリンの半分は優しさで出来ている。夢あるあるの話の9割は捏造で出来ている。
以上を読んでもバッチコイの猛者の方&例え読後が不快に感じても首に手ぬぐいを巻き、なびかせながら「馬鹿野郎!この駄作製造マシンがっ!」と吐き捨てるだけで済ませられる方のみお進みください。




―幼き日 君と眺めし あやめぐさ 変わらざるのは 花ばかりなり





天正12(1584)年11月21日―羽柴秀吉は朝廷より従三位権大納言に叙任された。朝廷から官位を得、昨年には柴田勝家を下したことにより織田家筆頭に上り詰めた羽柴秀吉の快進撃は止まるところを知らず、その勢いは正に破竹の勢いであった。


翌年、天正13(1585)年に秀吉の行った紀州征伐は苛烈を極め、紀州内でも最大にして最後の抵抗勢力であり、高度な鉄砲戦術や野戦において信長を手こずらせていた雑賀衆の頭領―通称・雑賀孫市と呼ばれた武将・鈴木重意を、秀吉の弟である羽柴秀長の家臣・藤堂与右衛門高虎が、秀長の命により重意を調略、自害に追い込むことで紀州は完全に秀吉の支配下に下った。

織田信長時代からの反抗勢力であった雑賀衆と紀州(現在の紀伊半島)の寺社及び一揆勢力を下した秀吉の名声は、主君の信長ですら成しえなかったことをやり遂げたことにより、否が応でも、その名は全国に轟くことになった。

紀州平定後、その働きを評価された高虎は紀伊国粉河(現在の和歌山県那賀郡)5000石を与えられ、普請奉行に任ぜられる。普請奉行に任ぜられた彼は、領地を与えられた粉河に猿岡山城(別名、粉河城)と主君・秀長の居城となる和歌山に和歌山城(現在の和歌山県和歌山市にある平山城。和歌山の地名は秀長が命名)の築城にあたる。これが高虎にとって最初の築城となる。

紀州平定後に行われた、同年の四国征伐でも高虎の働きは凄まじく、その武功を評価された彼は更に5400石を加増され1万石の大名となった。
最初の主君・浅井長政を失ってから12年目にして、ようやく大名の地位を得た高虎は、その後も休む暇もなく京(現在の京都府京都市)方広寺の大仏殿建設を命じられる。

羽柴家中での高虎の出世は順調であり、出世頭といっても憚らない存在であった。
将来有望な若者として羽柴家中に知れ渡った高虎と縁戚関係を結ぼうと、羽柴家中の家臣達は娘や自分の姉妹を彼の嫁にしようと縁談話を持ちかけるも、高虎はお役目を理由に頑なに断り続けていた。

彼が頑なに縁談を固辞するには理由があった。“釣り合う身分になり必ず迎えに行く”と将来を約束した自身の幼馴染であり、羽柴の同盟国である苗字国の姫である名前の存在があったからだ。

大名と名乗れる身分になれはしたが、彼女の国に比べれば小大名に過ぎない存在でしかない高虎は、1日でも早く彼女の国と肩を並べる存在になるために寝る間も惜しんで身を粉にし役目に励んでいた。そんな高虎に付け入る隙などなかった。しかし高虎と何とか縁を持ちたい羽柴家中の家臣達は、高虎のもとへ娘や姉妹を侍女として送り込むのだが、高虎に近づくことすら叶わないことが殆どであった。

侍女として高虎のもとへ入ったある家臣の娘は、それならば既成事実を作ろうと深夜に高虎の寝所へ忍んでいったのだが、彼が自分の寝所へ帰って来たのは明け方近くであり、高虎は目の下にクマを作った青白い顔で、侍女を一瞥すると

『昼前に起こしてくれ。少し寝る。』

と告げるなり、そのまま倒れ込むよう眠ってしまったのだった。この事から“藤堂殿は木石か何かで出来ているに違いない”とか“主君の美濃守(羽柴秀長のこと)と衆道以上の関係なのではないのか”と羽柴家中でまことしやかに囁かれるようになったのだ。

この時代、衆道―つまりは、主君と家臣や同輩同士が同性同士で肉体関係や情を交わし合うのは珍しいことではなく文化の1つとして認識されていたが、それと同時に女性とも関係を結ぶ武将が殆どであり、衆道で有名な武田信玄や織田信長も、正室以外にも数多の側室を持っていた。

そのため、女性の影が全くと言っていいほどない高虎は羽柴家中でも異質の存在であり、それを心配した秀吉が、四国平定の労をねぎらという名目で、秀長と共に高虎を京(現座の京都府京都市)の遊郭に連れて行き、遊郭でも売れっ妓で秀吉のお気に入りの遊女・吉野を高虎に宛がったのだが、翌朝、昨夜の首尾を秀吉に尋ねられた高虎はすっきりとした表情で

「……流石、秀吉……様……関白殿下の御贔屓の遊郭ですな。布団も上等で寝心地が良くて朝までグッスリ休むことが出来ました。」

と返したのだった。“関白殿下”と呼ばれた秀吉は複雑そうな表情を一瞬だけのぞかせた後、苦笑いを浮かべた。秀吉は四国征伐の最中に関白職を叙任されたのだが、そのキッカケは近衛家と二条家が関白職を巡り争ったことから始まり、近衛と二条どちらに関白職を渡しても事態は収拾しないだろうと判断した朝廷が、両者とも血縁がなく天下に王手をかけた武家の秀吉に関白職を預けるという形で事態を収拾しようとした苦肉の策から叙任されたというものであった。そのため秀吉の関白職は預かりものでしかなく、彼1代限りのものであるという認識がなされていた。

ただ関白職は5摂家(近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家を指す。鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家を指す。この5家が関白職を持ちまわりで歴任していた。また、この5家からしか摂政、関白職を任官することが出来ない。)しか任官出来ないため、秀吉は近衛家に猶子(養子とは違い相続などを目的としない他人と親子、兄弟関係を結ぶこと)関係を結ぶことになったのだ。そんなあやふやな関白職叙任劇ではあったが、そのため秀吉は関白殿下と呼ばれるようになり、それは昨年7月の事であった。

関白といえば朝廷の上位に位置し、“私の世は空に浮かぶ満月のようなものだ”と謳い摂関政治を確立した藤原道長も歴任した名誉ある職ではあるが、こうした裏事情があれば流石の秀吉も手放しでは喜べず苦笑いの1つも浮かべたくなるのも無理のない話であった。

高虎の返答に目を丸くした秀吉は、高虎の隣で朝餉の給仕をしていた、彼の昨夜の相手である彼のお気に入りの遊女・吉野の顔を見るが、彼女は秀吉に苦笑いを向けるばかりで、昨夜、高虎は彼女に指1本触れずにただ眠ってしまったらしいことが見て取れた。

どんな堅物でも触れずにはいられない京きっての美女である吉野にすら見向きもしない高虎を信じられないようなものを見る目で見る秀吉は

「まさか……お前ら……本当に……清正の方がまだマシじゃのう……。」

と呻くように言うので秀長は苦笑しながら

「それはありませんよ兄上。高虎はお役目に没頭すると我を忘れるだけですから。」

とやんわりと否定する。
兄弟同士で何事かを囁きあう主君達を、湯漬けをかきこみながら眺める高虎は、内心“何が悲しくて秀吉と同じ女を共有せねばならんのだ”と毒づいていた。主君の秀長は心から尊敬している高虎だが、その兄である秀吉はどうも好きにはなれずにいたのだ。理由は色々あるが……要は根底にある彼への嫉妬なのだろうと高虎は思っていた。自分と同じく最下層の出であり、主君を何度も変えながらも、今や彼は天下人に王手をかけた身分だ。秀吉なら、彼女を娶るなど造作もないことだろうと思いながら高虎は開け放たれた障子の先に見える庭に視線を移した。庭には池があり、そこにはあやめが咲いていた。

それに気付いた高虎は目を細め、心の中で彼女の名を呟いた。
今、どうしているだろうか。昨年、秀長の名代で彼女の父親の病気見舞いに訪れて以来会っていない名前の顔を思い出していた。
病気見舞いであるから、彼女と言葉を交わす事は叶わなかったが、帰り際に彼女の侍女から、包みを渡されたのだ。

秀長に報告をし、自分の居城に帰った高虎が包みを開くと3枚の単衣(裏地のない着物、肌着としても着用された)と手紙が入っており、手紙を開くと彼女の字で“良い布地が手に入りました。貴方用に仕立てたのでよろしければお使い下さい。今日は御顔が見れて嬉しかった。”そう綴られていた。

単衣を持ち上げると、仕立てもさることながら、手触りのよさからも良い反物を使っていることが分かり高虎は口元に笑みを浮かべた。
お互い誰よりも相手のことを大切に、そして想い合っているふたりではあったが、同盟国の姫と同盟国の家臣という身分の差から、高虎が大名になった今も関係を公にすることは出来ずにいたのだ。

それだけではなく、紀州・四国征伐に築城、大仏殿建立など、多忙を極める高虎はなかなか時間を作ることが出来ず会いに行くことは勿論、手紙を送ることすらままならない状態が続いていた。

それは彼女も同じで、病弱な父と弟を支え、領主代行として重臣たちの力を借りながら国政を取り仕切っており多忙な身であった。

最近では、関白に任官されたことで天下取りに王手がよいよかかった秀吉は、自分の政権に対する反抗勢力だった九州の島津に対し天正13年(1585)年10月に“惣無事令”(大名同士の戦や私闘を禁止する法令)を発布した。当然ながら九州統一を先祖よりの悲願としていた島津はこの法令に猛反発し、そのこと原因で、島津と羽柴の両者が緊張状態に陥った。秀吉も島津が容易に従うとは思っておらず、これは島津を征伐するための大義名分となるとほくそ笑み、密かに島津征伐の準備を整えていたのだった。秀吉の野心は九州だけに留まらず、関東・奥州もその対象にされていた。今は九州だけにしか惣無事令は発布されていないが、時を置かずして、秀吉政権に従わない関東・奥州にもその通達がなされることは自明の理であった。

名門北条からすれば、秀吉はいまだに織田の家臣だった男であり、関東支配のみに集中している北条にとって、秀吉が京・大坂を中心に樹立した中央政権については何の興味・関心もなかったのだ。

羽柴と同盟を結び、叔母が北条の重臣に嫁いでいる名前の国は、この件に関してかなり神経をすり減らしながら対応していた。
立場上のこともあり、手紙ですら弱音を書かない彼女だけに、高虎は彼女の心中を慮ることしか出来ずにいる自分の無力さを呪い歯がゆく思っていた。

そんな中で、彼女が手ずから自分のために単衣を縫ってくれたことが高虎には何より嬉しく、彼女への想いも益々深まっていくのだった。その日から、その単衣を大事に毎日着ている高虎は、今日も勿論それを身に着けていた。

湯漬けを平らげ、椀を膳の上に置いた高虎は、そっと名前が縫った単衣の襟元に触れた。家中での自分の評判を高虎は知っていたし、高虎が逆の立場なら噂する彼らと同じことを思ったことから、そう噂するのも十分理解が出来たが、自分には絶対に裏切ることが出来ない存在が、破ることが出来ない約束がある……ただ、それだけなのだ。

(こんな俺をここまで想ってくれているアイツを裏切れるわけがない。)

と心の中で呟き瞳を閉じた。
朝餉を終えた高虎は、秀吉と秀長を今年の始めに竣工したばかりの聚楽第(秀吉の命で建設された政庁、邸宅、城郭の総称。場所は現在の京都市上京区)に案内した。竣工したばかりでまだ基礎しか出来ておらず、図面を見せながらの説明にはなったが、基礎と高虎の説明から壮麗なものになるだろうことが容易に想像がついた秀吉は大いに満足し、何度も高虎の肩を叩きながら彼を誉め労をねぎらった。聚楽第が完成した暁には天皇を招待しもてなす計画がある秀吉はそのことを高虎に伝え、今後も励むようにと言った。聚楽第の視察後、ねね達に土産が買いたいという秀吉達の希望で寄った市で、高虎は鮮やかな青の反物を見つけ、それを購入した。単衣の礼がまだ済んでいないのと、自分が彼女の縫ったものを身に着けているように、彼女にも自分の贈ったものを傍に置いて欲しかったからだ。

(気に入ってくれればいいが……。)

と購入した反物を受け取りながら高虎は彼女の顔を思い浮かべていた。


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九州征伐の準備が着々と進む天正14(1586)年の夏、高虎が倒れた。
秀吉の命令により、聚楽第内に上洛予定の徳川家康の屋敷を建設している最中の出来事であった。領地と京の往復に加え、高虎ひとりで抱えるにはどう考えても過多な業務量とろくに休養を取っていないことが原因と思われた。

これからも高虎に頑張ってもらわなければならないと考えている秀長は、高虎にしばらく休むようにと見舞うも、高虎は頑なにそれを拒否し現場に戻ろうとするので、秀長にしては珍しく強い口調で叱りつけたのだった。

普段、温厚な秀長にそこまで言われれば、高虎も従わないわけにはいかず、京の自分の邸でしばらく静養生活を余儀なくされたのだった。

布団の中で横になっていても、図面を広げてあれこれ考えている高虎なので純粋に休養を取っているとは言い難い状態ではあったが、必要外は部屋から出ずに、夜は寝ていることから、ひさしぶりに人間らしい生活をしているとも言えた。

こんなにのんびりとした時間を過ごす事がなかった高虎の脳裏に浮かぶのはやはり彼女のことだった。元々、徳川家康を警戒していた秀吉は彼の力を削ぐために、彼を馴染みがない関東に封じたのだが、家康も負けてはおらず、関東地方の大名と強固な繋がりを持つために娘を現在の北条の当主である北条氏直に嫁がせ縁戚関係を築いていた。

九州の島津のように法令違反や分かりやすい抵抗を見せてくれれば秀吉も、家康を攻めやすいのだが、家康は腹の底はともかく表立っては秀吉に反抗せず、どんなに秀吉が挑発しようともそれに乗るような真似を毛ほども見せなかったのだ。今回の上洛命令も従えば事実上、秀吉との主従関係があることを諸大名に知らしめることにもつながる。
流石に、これには従わないだろうと思われた家康だが、大半の予想を裏切って上洛するとの意志をしめしたのだった。

家康のこの返答に1番苦々しく思ったのは、上洛の打診をした他ならない秀吉だろう。上洛については家康も北条に相談をしている筈であるから、北条も了承済みなのは間違いない。これにより関東征伐は先延ばしになり、秀吉と北条の間で板挟みになっている名前の神経も少しは休まるだろうと高虎は図面を閉じ、瞳をとじた。

その年の9月9日、秀吉は正親町天皇より豊臣の姓を賜わり太政大臣(朝廷内での最高職)に叙任された。豊臣政権の発足の始まりである。



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その夜、高虎は夢をみていた。
かつての浅井領であった自分の故郷の夢だった。
もう随分、帰ってない故郷の夢は懐かしく、まだ慶松と呼ばれていた頃の幼い吉継や名前の姿もあった。3人で野に出て野草を摘み、それを母親に届けると、母親が粥を作ってくれた。囲炉裏の周りに座り3人で粥を食べる。
政争や権謀とは無縁だった懐かしく優しい時代の記憶だった。
あの頃は、もっと早く彼女を娶れるものだと信じていた高虎は随分と長く時を要してしまったことに気付いたのだった。

(あと、どのくらい偉くなれば……俺はアイツを……。)

と夢から覚めた高虎が顔を横に向けると名前の姿があった。

「お目ざめで……」

それが夢か現か確認する前に高虎は彼女に抱き付いた。彼女は小さく悲鳴を上げたが、高虎のなすがままにさせた。国元にいるはずの彼女が京にいる筈はなく、これは夢の続きだと思った高虎は彼女を力一杯抱きしめ、彼女の肩口に顔を埋めた。
彼女の香である藤の花の香が鼻孔に広がる。
温もりがあり、香りもするなんて随分都合が良い夢だと高虎が思っていた時、頭上から咳払いが聞こえ、上をみるとそこには秀長が気まずそうに上を向いている姿が見えた。

「……ひ、ひでながさま?」

「あ、元気そうで何よりだな。では、姫……私はこのあたりで。高虎、彼女の接待をよろしく頼みますよ。」

と高虎と名前の方へ微笑み姿を消した。事態が飲み込めない高虎は、ようやく彼女を離すと、少し顔を赤くした彼女が

「父の病気見舞いの御礼と聚楽第の竣工の祝いに訪れたのです。美濃守様(秀長のこと)が……私の顔を見れば……その……高虎の1番の薬に……なると……ご招待くださって……。」

と消え入りそうな声で、少し頬を染めて告げる彼女に、つられて照れそうになる高虎は、秀長の気遣いに感謝するとともに、“天下の宰相”、“人心掌握の天才”と呼ばれる主君の眼力に恐れ入るばかりであった。

(秀長様は全てご存知だったんだな……。)

思えば、周りが高虎にいくら縁談をすすめても、秀長だけはそれには触れなかった。その理由がようやく分かり、心の中で高虎は秀長に感謝した。

ソッと高虎の頬に触れた彼女は心配そうに

「少し痩せたのではありませんか?」

と言った。頬に添えられた手に自分の手を重ねながら高虎は

「大丈夫だ。お前も……息災そうで何よりだ。」

と今度は壊れ物を扱うようにソッと彼女を抱きしめる高虎だったが、不意に辺りを見渡し

「そう言えば……あのババ……いや、政岡……殿は?」

彼女にいつも影のように付き従う乳母であり、自分を目の仇にする侍女の政岡の姿を高虎が目で探すと、彼女は苦笑しながら

「政岡たちは秀長様が京の町をご案内して下さるとかで夕刻までは帰ってきません。」

と告げる彼女の言葉に彼は、秀長にそう言われてしまっては政岡も断ることは出来なかったのだろうと、彼女の悔しくても顔に出せない複雑な心境を想像して、思わず吹き出してしまった。政岡にとって自分は大名になろうとも下賤のものであるということには変わりがないのであろう。もし彼女を娶り、自分との間に子が出来れば……あの政岡がどんな表情をしてその子を抱くのだろうと考えると少し愉快な気がした。

「お腹が空きませんか?」

と言う彼女に頷くと、彼女は高虎の侍女を呼び土鍋と饅頭ののった皿を持ってこさせた。
土鍋を開けると、さきほど夢に出て来た粥が入っていた。

「厨をお借りして作りました。お饅頭も……お口に合えばいいのですが……。」

と言う彼女に高虎は目を細め礼を言うと粥を口に含んだ。

「故郷の味だ……うまい。」

と告げる高虎にホッとした表情を見せる彼女は

「あと、高虎に頂いた反物で羽織を縫ったんですよ。後で着てみてくださいね。」

と告げた。彼女用に贈った反物でまさか自分の羽織を縫われると思わなかった高虎は吹き出しそうになりながら

「あ、そうか……いつも済まないな……。」

とだけ告げると。すると彼女が幸せそうに微笑むので、その顔を見ているだけで高虎は彼女が幸せならそれで良いかと粥をかきこんだ。愛する人が笑っているのなら、もうそれだけで良いのだと。

(今度から、自分用に着物を仕立てるように一筆添えておこう。)

と思いながら食事を終えた高虎に彼女は羽織を取り出すと彼の肩にかけた。
高虎は袖を通しながら

「似合うか?」

と尋ねた。彼女は

「とても……やはり高虎は青が似合いますね。肩はきつくないですか?」

「いや。丁度いい……お前の仕立てるものはいつも丁度良くて着心地がいい。それに粥も旨かった。いつ嫁に来てもらっても困らないな……政岡殿の教育も素晴らしいのだろうな。」

彼女の女人としての嗜みはお世辞抜きに素晴らしく、認めるのは癪に障るがこれも彼女の乳母であり教育係の政岡の努力の賜物なのであろうと彼は思った。

「そんな……でも、その言葉を聞けば政岡が喜びます。政岡は本当に良くやってくれていますから。」

と照れて目を伏せる彼女は懐から、彼の羽織と同じ布地の巾着袋を取り出すと

「高虎に頂いた反物の余りで作りました。御揃いですね。」

と彼の前に差し出した。

「ああ、そうだな。」

と彼女の巾着袋に触れ、高虎が頷いた。
仮初の祝言を交わした仲ではあっても、関係を公に出来ないふたりが揃いのものを持つことなど出来るわけもなく、それでも少しでも相手と同じものを持つことで心の支えにしたいという彼女のいじらしい気持ちが切なく、高虎はただ目を伏せるしかなかった。
けれども夜までは時間がある、ならば今出来る限りの彼女の願いを叶えてやろうと高虎は彼女の方へ向き直り笑みを浮かべた。


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あくる年の天正15(1587)年、よいよ秀吉の九州征伐が始まった。
高虎も主君の秀長の出兵に伴い九州へ向かい、根白城坂の戦いにて味方を救援し武功を立て、領地を2万石に加増された。そして、この戦功により秀吉の推挙を受け正五位下・佐渡守を叙任することになる。高虎にとって初めて得た官位であった。

早速、この知らせを手紙にしたためた高虎は名前の元へそれを送った。
ようやく、彼女との約束を果たせるのだと、その兆しが見えたことに高虎は素直に喜び、新しく出来る邸のどこに彼女の部屋を作るか、彼女の部屋から見える庭園の設計をどうするか、茶室は彼女の居城にある、ふたりが仮初の祝言を上げたあの茶室に似せたものを作ろうと図面を引くのだった。

(ようやく、ようやくだ。)

互いに、共にいられる未来を思い描くふたりに思いもよらない知らせがもたらされたのは、九州平定を成し遂げた秀吉が関東・奥州の両国に対し“惣無事令”が発布した、天正15(1587)年の暮れのことであった。

関東の領地拡大に野心を燃やす北条にとっても、秀吉の命令は島津と同じく受け入れがたいものであり、なおかつ北条氏は未だに秀吉を“織田の家臣だった農民出の卑しい身分の小男”と認識し、かつ“武家の出でも、貴種の御落胤でもない尾張(現在の愛知県)の百姓上がりが此処まで成り上がるのは相当に汚い手を使ってきたに違いない。信用できぬ”と秀吉に対し不信を抱いており、そのため、この法令に対して無視の姿勢を貫いていた。

北条のこの姿勢は秀吉にとっては予想通りのものであり、太政大臣を任官した折も、九州平定をした折も挨拶も祝賀にも訪れない北条がこの法令を無視するだろうことは最初から予想の範疇であった。

それなのに、何故このようなことをしたか言えば、秀吉の狙いは北条でもなく、関東支配でもなく、真の目的は自分の樹立した政権の脅威となりかねない徳川家康の勢力を削ぐことであった。

むしろ北条が法令違反を犯すなり、反発してくれた方が秀吉にとっては非常に都合が良かったのだ。北条が逆らえば、関白の命に背いたという大義名分のもと正々堂々と討伐が出来る。勿論、北条が立てば娘を北条に嫁がせている家康も我関せずの姿勢を貫くことは立場上、出来ない筈であった。真の目的は家康とはいえ、自分を天下人と認めない北条も目障りだった秀吉にとっては北条が従おうが、逆らおうがどちらに転んでも利点があった。それに20万の大軍団を差配出来る秀吉であれば、北条も徳川も武力により捻り潰すことは訳もないことだったのだ。だが物量や武力での強制支配や威圧行為は長い目で見れば、反発を招くことが多く、最終的には自分の首をしめることになるため、あくまでも征伐するのであれば、多くの人間が納得するような理由―大義名分のもとに行いたいというのが秀吉の本音だった。

これに慌てたのが、既に上洛し現秀吉政権の内情と秀吉の性格を知っている家康であった。家康は即刻、北条の外交担当であり、当主の叔父にして知己でもある北条氏規を通して、隠居ではあるが実質の決裁権を持つ先代の北条氏政と現当主の北条氏直を再三説得するのだが、北条の態度は頑なで変わることはなかった。

そんな北条の外交方針は、北条の家臣や同盟国にも多大なる影響をもたらしていた。
北条に恩はあるものの、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの、しかも朝廷の後ろ盾がある秀吉に面と向かって逆らうことに難色を示す者も少なくなかったのだ。

それは叔母の初瀬の方が北条の重臣に嫁いでいる名前の国でも同じことだった。
秀吉は基本的に敵対した者にも降伏を示せば寛容な態度を取ることでも知られていたが、天下に王手がかかった頃から、時には見せしめの意味で、降伏した敵対者に対して残忍なまでに冷酷に処断することもあり、秀吉とも同盟を結んでいる彼女の国は、北条と秀吉の両者から、どしらに付くか選択を迫られていたのだ。

国内もこの際、北条と手を切り同盟を秀吉1本にするべきだという秀吉派と、これまで通り北条へ従うべきだ嫁いだ初瀬の方がどうなってもいいのかという北条派の2派に分かれ、連日会議がなされるも結論が出ない状態が続いていた。

この案件で、重病だった彼女の父は一時危篤状態に陥り、ようやく健康を取り戻した彼女の弟・苗字藤九郎清嗣もまた再び床に臥せることが多くなった。
去年から、体力が回復した弟に領主の座を譲って、後見役として黒子に徹していた彼女も国内のこの状態に再び政治の表舞台に返り咲く他なく、どちらの味方につくかの返答を領主の重病を理由に先延ばしにしていたが、それも苦し紛れの理由でしかなく、先日はしびれを切らした北条から白紙の手紙とともに、叔母の初瀬の方の1房切り取られた髪が送られてきたのだった。

北条のこの態度は、早く自分たちへの恭順を誓えという早期の返答を迫る無言の圧力ではあったが、強大な軍事力を持ち朝廷の後ろ盾がある秀吉を敵に回すことも得策とも思えない彼女は重臣同様にどちらに味方すべきか迷っていた。

先日、叔母から密書が送られ“私のことは気にせず、御家のためになる選択をなさい。そちらの足手まといにはならぬように何時でも己が身をどうするかは覚悟は出来ていますから。御心配なさらぬように。”という内容がしたためられていた。

大局を見るならば、秀吉につくべきなのだと思う。それにあちらには高虎がいる。取るべき道は1つしかない。それは分かっている。
けれども自分とは違い、家のために北条の重臣に嫁いだ叔母の初瀬を彼女はどうしても見捨てることが出来なかった。叔母が嫁ぎ先で献身的に尽くしてくれたからこそ、今の今まで北条と良好な関係を築くことが出来たのだ。
高虎と自分のような出会いではなかったが、叔母の夫は側室も持たずに叔母を大切にし、健康な男子3人に恵まれただけではなく、夫婦は仲睦まじいのだと聞き及んでいた。
そんな妻の髪を、いくら主君の命令とはいえ切り差し出すことになった叔母の夫の心中を察すると、彼女はどうしても決断が出来なかった。

今回のことに関しては、高虎を通じて秀長から秀吉に返答期日を延ばしてほしいと願ったところで、それは誤魔化しとしか取られず、印象が悪くなるばかりだろう。

どちらかを選ばなければならない。
けれども叔母を犠牲にも出来ない。
時勢のせいにして北条を裏切ることも出来ない。
同盟締結の名代役であった高虎やその主君の秀長にも迷惑はかけられない。
しかし、家は何を犠牲にしても残さなければならない。
双方を立て、家が生き延びるには……彼女は夜空に浮かぶ月を眺めた。

先日、高虎が寄越してきた手紙の内容を思い出した彼女は静かに目を伏せた。
手紙には、今回、佐渡守を任官したことで、自分達の関係を公にし、主君の秀長に晩酌人を頼み彼女を娶りたいというものだった。
新しく建てる邸の彼女の部屋の話や、そこから見える庭についてはどうしたいか、茶室を見た時に驚く名前の顔が楽しみだということが綴られていた。
こんな事がなければ、それは心から嬉しい言葉だった。

けれども、今は……。

「初めから 二に別れし 流れなら 交わることも 無き浮世かな……。(最初からふたつに別れた川のような私たちでしたね。最初から別れた川が交わらぬように私達もそうでしたね。そういう定められて、この世に生まれてきたのでしょう。)」

そう呟くと彼女は侍女を呼び、弟を起こし重臣達を召集するように命じた。

========


深夜にも関わらず、彼女の召集から程なくして、邸の広間には重臣たちが揃い、上座には名前と彼女の弟の清嗣がいた。
重臣達が揃ったところで彼女は

「夜分遅くに呼び出し、皆の者には申し訳なく思っておる。私が皆を召集したのは他でもない……殿下(秀吉のこと)と北条の殿についてじゃ。ここ連日、皆には忌憚なく意見を述べてもらい感謝しておる。殿下に付くにしろ、北条の殿に付くにしろ……どちらの言い分も理にかなっており決め難くはある……ただ、そろそろ……どちらかに付くか決めねばならぬ時が来た。そのことを私の口から伝えようと思う。」

と静かだが意志の強さを感じさせる彼女の声に、重臣たちは緊張した面持ちで名前の顔を見た。
彼女は重臣達の顔を見た後に、傍に控える政岡、清嗣の顔を見ると一瞬だけ目を伏せ、再び瞼を開いた。

「今回の件ではあるが、我ら苗字は今はどちらにも付かぬ。」

その彼女の声に、重臣たちはざわめき

「おそれながら姫様……それではどちらからも攻め込まれることに……。」

と進言する重臣に彼女は

「そうじゃの。その通りじゃ。」

「ならば……「だから“今”はどちらにも付かぬと申しておる。いくら殿下が朝廷の後ろ盾を得ようとも、殿下が殿下のかつての御主君である信長公のようなことにならぬとも限らぬ、殿下の政権は今まさに産声をあげたばかりじゃ……強大でも、北条の殿のように反抗勢力があるうちは盤石とは言えぬであろう。また、北条の殿に関しても今まで十分に良くはして頂いたが…ただ今は…義理や恩だけで御味方するような状況でもない。しかし、北条の殿の御重臣に嫁がれておられる叔母上を犠牲にするわけにもいかぬ。また我々にとって何よりも優先しなければならないのは……私やそなた達の先祖が血を流し、多大なる犠牲の上に残してくれたこの地と家名を守り次に伝えることじゃ。そのためにも、どちらに御味方するか決め手にかける様な今の状況で決めることは好ましくはない。」

と彼女は1度言葉を切り再び目を伏せた。重臣達はただ静かに彼女の言葉を待った。
再び目を開けた彼女は居並ぶ重臣達の顔を見渡すと

「じゃが、皆の言う通り……今決めねば、どちらからも攻め込まれるのは必定であろう。この世で何より恐ろしいのは“裏切者”と誹られることではなく……“日和見”と誹られ信用をなくすことじゃ。裏切者と呼ばれるのは……結局は信ずるに足る、信用していたということじゃからの。」

と彼女は微笑んだ。

「じゃが……先程も申したように我らがどちらに御味方するかを決めるにふさわしいのは“今”ではない。よって……私は時勢を見極めるために時を稼ごうと思う。そのために私は今宵、自害する。」

彼女の口から出た“自害”の言葉に弟の清嗣は勿論、政岡や重臣達も動揺を隠しきれなかった。そんな彼らに対し、彼女は冷静に語りかけた。彼女が語った内容こうだった。

父親である前領主は秀吉派、彼女も最初は父に従い秀吉派だったが、秀吉に味方すれば北条にいる叔母の身は無事では済まないことを懸念し、北条派に意見を変えるも、やはり秀吉に受けた恩義を裏切ることは出来ず、北条も裏切れないという感情の板挟みになり思い詰めて自害したと、秀吉と北条の両者に伝えよという内容だった。

「両者に義理を通すには、我が1族の誰かが死ぬしかない。叔母上は犠牲に出来ぬ。父上がこのことを知れば代わりに御自分が死ぬと言いかねん。かと言って当主である我が弟……清嗣様を犠牲には出来ぬ……そうなれば我が苗字の血は断絶することになろう。それだけは避けねばならぬ。そのなると……もう私しかおらぬのじゃ。流石にどちらに味方するかで死人が出れば、殿下も北条の殿も返答を迫るような酷な真似はすまい。色んな道を考えたが……これが1番良いと思ってな。幸い私は夫もおらねば子もおらぬ。この中で死んでもあまり困らぬのは私くらいじゃ……どうか分かって欲しい。」

時折、誰かの啜り泣くような声が聞こえる以外、広間は静まり返っていた。
彼女の声色から決意の固さが伺え、もう誰も言葉を発することが出来ずにいた。

「他に道はないの……ですか。」

と家老の寺脇が肩を震わせ名前は静かに微笑み

「そうじゃ……これしか道はない。そなたとは長い付き合いであったな。父の代から今までよう仕えてくれた。礼を申す。今度は清嗣様を支えて欲しい。「どうしても御自害なさるというのならば……我らもお供を!」

寺脇の手を取る彼女に重臣達が詰め寄るが、彼女は

「それはならぬ!殉死(主君の後を追うために自害すること)は許さぬ!私に殉ずるつもりがあるのならば清嗣様を支え、苗字を守って欲しい。勘違いするでない……私は死にたくて死ぬのではない。家をそなた達を守るために死ぬしかないから死ぬだけじゃ。そなた達にはどんなに辛くても……生きて生きて生き抜いて欲しい……生きてこの家を清嗣様をお守りして欲しい……私はそなた達が羨ましい……そなた達には明日が……清嗣様と苗字を守ることが出来る……明日がある……もう私にはそれが……どんなにしたくとも叶わぬことなのだから……せめて……これ以上……私を惨めにさせないで……おく……れ。」

と彼女は言葉を切り、肩を震わせた。そんな彼女に重臣達はかける言葉を失い、ただ涙するしかなかった。

「……姉上……。」

弱弱しい声に後ろを振り返れば、彼女の弟の清嗣が涙をためて名前を見下ろしていた。彼女は涙を拭くと清嗣の前に平伏し

「以上……お聞きの通りに御座います。今宵限り……私は清嗣様の後見人を退き、家を貴方をお守りするためにお別れせねばなりません。今後は、この寺脇と政岡に相談しながら、この国を御治めください。残念なことではございますが……この姉はどうやら……ここまでのようです。どうぞ……お元気「いやです!私では無理です!」

と縋る清嗣を引き離すと名前は、清嗣の涙を指の腹で拭いながら

「誰でも最初から今の……自分の立場に相応しい振る舞いや器量があるから、そう振舞えるように出来ているのではないのですよ。任されたことに対して責務を果たそうと……相応しくあろうと努力するから相応しくなり、相応しく振舞えるのです。私だって、寺脇だって、政岡だって……ここにいる皆はそうしてきたのです。貴方もそう御在りください。」

彼女は清嗣に微笑みかけた。

「私を哀れに思わないでください。幼き日……あやめが欲しくて……でも取る術がなくて見ている私に……こう教えてくれた人がいます。“何かを得たいのであれば、相応の対価を払う必要がある”と……私はその時、持っている握り飯を差し出して、あやめを得ました。もし、この国を貴方達の命を……私の命ひとつで贖えるならば……その価値が私の命にあるならば……何を悲しむ事がありましょう……私はこの死を心より有り難く思い……死を賜わりたいと思います。」

と告げると広間をでた。広間から出た彼女は政岡を伴い執務室と自室で、自分の死後に残したことで苗字国が困るような書状や書物を焼き捨てた。その中には高虎の手紙もあったが、彼女はそれを少しの間、眺めた後に火をくべた。

きっと彼は怒るだろう……いや、彼も1国1城の主だ、きっと分かってくれるだろう。
自室の調度品を全て片づけ、床を掃き清めたあと、彼女は政岡に懐剣を所望した。彼女の懐剣は高虎に預けたままだったからだ。政岡はその事には触れず、自分の懐剣を彼女に差し出した。

「ありがとう政「姫様はさぞ……私を御恨みなさっていることでしょう……姫様がこのような事になるのならば……あの若者と……。」

と俯き呻くように呟く政岡に名前は、彼女に顔を上げさせると

「政岡には感謝しています。早くに母と死に別れた私を……まことの母のように教え導いてくれました。政岡でなければ……領主代行のお役目を果たせなかったことでしょう。そなたは私にとって……もうひとりの母でありました。そなたはそなたの役目を果たしただけのこと……それを何故……恨もうか。さらばじゃ……次の世でも……また逢えたら良いの。」

名前は、そう告げると清めた自室にこもった。
中には介錯役(自害や処刑の折、本人が苦しまないように即死させる役目)の家老の寺脇の姿があった。

「お待たせしました……よろしくお願いします。」

と彼女は寺脇に頭を下げ、部屋の中央に座した。政岡の懐剣を鞘から抜くと、自分の髪を無造作に掴み項が良く見えるように懐剣で自らの髪を落とした。
バサッと黒髪が床に弧を描きながら散らばる。
それを横目に見ながら名前は自分の左胸に懐剣の切っ先を当てるように構えた。

「姫様……老いてはいても、この寺脇……腕は鈍っておりません。どうか御心やすらかに……。」

自分の後ろに立つ寺脇が介錯刀を八双(剣先を天に向けた構え)に構える気配がした。
彼女は頷くと懐剣を持つ手に力をこめた。
心は驚くほどに静かであり、思い浮かぶのは今はもう……ただ高虎の姿だった。

(高虎……高虎……高虎……。)

―嗚呼、私は本当に貴方が好きで……好きでたまらなかったのですね……。

懐剣で彼女が自分の胸を突くのと、寺脇の介錯刀が閃いたのは同時だった。

天正16(1588)年―
年が明けて間もない、その日の明け方、苗字国の姫である名前は自害して果てた。

彼女の死は、秀吉か北条のどちらに恭順するかで2分された御家騒動の収束のための自害であると、苗字1族の歴史を記録した『苗字家伝』に記さることになる。
彼女の死を重く見た秀吉と北条は、恭順をどちらに示すかの返答を迫る機会を逸することとなった。

この時、苗字諫早守清忠の壱の姫である名前は27歳。
姫に産まれながら、数奇な運命により女人ながら領主代行を行うなど家の事情に翻弄され続けた27年の生涯であった。
辞世の句(死に際に読む最後の和歌、遺書のようなもの)は『生まれれば 死ぬる定めの 浮世なら 今その時ぞ 誰も恨まじ(この世に生まれたならば、死ぬのは決まったこと。私は今がその時だっただけであり、それが定めなら誰を恨むことがありましょうか?恨む必要など何処にもない。)』と記されている。



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秀吉のもとへ、苗字国より名前姫が自害したとの報が届いたのは、新年の祝賀の挨拶を終え正月気分が抜けきった時分のことであった。
名前の自害の知らせは秀吉にとっても寝耳に水で、使者であり彼女の乳母である政岡に対して詳しく話すようにと秀吉は促した。政岡は時折言葉を詰まらせながら秀吉に経緯を説明した。

国内は秀吉派と北条派で2分に分断しており、前領主である彼女の父も娘の彼女も最初は秀吉派であったが、北条の重臣に嫁いだ彼女の叔母の切り取られた髪が届けられたことから、叔母を見捨てることが出来ずにいた彼女は、やむなく北条派になるも秀吉に受けた恩義と身内の板挟みに苦悩した挙句

『殿下も叔母上も北条の殿も……誰も裏切れぬ。重臣たちを惑わすことも出来ぬ。私が死ねば……国は纏まるであろう。』

と言い自害したのが、1月程前のことであった。重病状態にあった彼女の父も娘の自害の報を聞くと嘆き悲しみ後を追うように亡くなったとのことだった。政岡は震える声と、止めようとしても止めることが出来ない涙を流しながら懐から懐紙に包んだ1房の髪を差し出した。


「姫様の遺髪にございます。殿下にお渡し頂ければ……自分の真心は分かってくださる筈だと……。」

小姓からその遺髪を受け取る秀吉の目にも涙が浮かんでいた。

「……さぞや、ワシを恨んで死んだことであろうの……若い命を……。」


と言う秀吉に政岡は首を振り

「“生まれれば 死ぬる定めの 浮世なら 今その時ぞ 誰も恨まじ”……姫様の辞世の句でございます。姫様はただ……殿下と御家のために……ただそれだけを……。」

と政岡は平伏した。女ながら、その処断の潔さに居並ぶ秀吉の家臣団は驚きとともに彼女の果敢な行動を褒めそやした。
秀吉も上座から下り政岡を労わると

「心配せんでええ……姫さんのお気持ちよう分ったでな。辛かったな……辛かったな……。」

と涙を流し政岡の手を握った。

「ただ、今は御隠居様と姫様の葬儀で国内が落ち着かず……。」

「ええて、分かっとるて……長旅で疲れたじゃろう。高虎……政岡殿を部屋に案内してくれや。ゆっくり疲れを癒してくれ。」

と政岡を労わり、秀吉に命じられた高虎は政岡を奥座敷に案内した。
部屋に通したあと、1礼をして去ろうとする高虎に政岡は

「散々、貴方達の邪魔をし続けてきた私が……さぞ憎いことでしょう。お斬りなされ……ずっと私など殺したい……。」

政岡の言葉が終わらないうちに、高虎は帯刀していた刀を抜き一閃させたが、それは政岡の喉元に突き付けられたものの、彼女の体を傷つけることはなかった。

「どうせ……アイツに死ぬなと言われたんだろう。どうしても死にたきゃ自分で死ぬんだな乳母殿。それに……。」

“アンタを斬っても……アイツは生き返らねえ……。”とだけ呟き、抜刀した刀を鞘に納め部屋を去ろうとした。後ろでは政岡がカラカラと笑いながら涙を流し

「それよ……お主のそういうところが……たまらなく嫌いだった。」

と告げる政岡に、高虎は振り返らないまま

「……奇遇だな。俺もアンタが嫌いだった。」

とだけ言い部屋を後にした。政岡のむせび泣く声が聞こえたが高虎はただそれを聞き流すだけだった。政岡はその後、半月の間、聚楽第に逗留し秀吉から歓待を受けた。歓待を受けた政岡は帰国し、自分の新しい主君であり名前の弟である清嗣に聚楽第での仔細と秀吉からの悔みの言葉が綴られた書状を渡した。

政岡は、その後も陰日向なく苗字のために働くも、その3年後、清嗣にとって跡継ぎになる男児の出生を見届けた後に職を辞し家中から去った。その3日後、領内の湖に浮かぶ彼女の遺体を領民が発見。湖の岸辺には政岡のものと思われる草鞋とその下には、政岡の字で“陽だまりを 水面に見たり 懐かしや 今こそ傍に 侍りたもうぞ”と走り書きされた皺だらけの懐紙があったという。彼女の遺体が発見された、その日は奇しくも名前の命日だった。


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政岡が秀吉に名前の自害の報を知らせているのと、同じ頃、北条にも名前の自害の報が伝わっていた。
彼女の自害は単なる国内の内部分裂の末の御家騒動とも取れたが、元凶は北条と秀吉にあるため、これが悪影響となり同盟国や家臣の離反を恐れた北条は、自分達への恭順や忠誠を追及する態度を緩めざる得なくなった。

弱気になった北条に対し、好機とばかりに家康と北条氏規は、後陽成天皇を聚楽第に招くから上洛せよという秀吉の命令を拒否していた北条氏政・氏直親子の両者をここぞとばかりに説得し、それに成功する。
北条氏規は当主代理として、その年の夏に家康の仲介のもと上洛。聚楽第にて秀吉の謁見を受け、事実上、北条が秀吉に対して追従の姿勢を取った事を天下に示す事となった。



秀吉と北条の関係は一時的に安定したかに見えたが、翌年の天正17(1589)年、北条の家臣が、真田安房守昌幸の家臣から名胡桃城(場所は現在の群馬県にあった城)を奪取したことが、秀吉が発布した惣無事令に違反したとされ、秀吉は北条征伐を決定。北条に宣戦布告する。

この事は北条には寝耳に水の話であり、名胡桃城奪取について北条は関与していないことを、北条氏規や重臣の板部岡江雪斎を派遣するなどして必死で抗弁するも、秀吉は聞き耳を持たず、天正18(1590)年、20万の大軍を率いて北条征伐―世にいう小田原征伐を行う。善戦するも圧倒的な軍事力の前に関東の雄である北条は滅亡した。

その後も高虎は豊臣政権下に留まり、主君の秀長を支え武功を次々打ち立てていくも、どんなに勧められても妻を娶ることはなかった。
そんな高虎を“変わり者”と周りは噂したが、数少ない事情を知る者たちは高虎が彼女を忘れようと、ぶつけどころのない怒りや悲しみを紛らわすために役目に没頭していることを理解し、そんな彼を気遣いながらも、ただ見守ることしか出来なかった。

そんな高虎に追い打ちをかけるように、高虎の理解者であった主君の豊臣秀長が天正19(1591)年に死去する。大陸に野心を燃やす兄の秀吉の行く末を心配しながらの無念の死であった。彼が死去すると高虎は、秀長の甥で養子の豊臣秀保に仕え、文禄元(1592)年
に始まった明国(現在の中国大陸にあった王国)との日ノ本(日本)の間で起った国際紛争である“文禄の役”(いわゆる朝鮮出兵)に病弱な秀保の代理として出征。ここでも高虎は獅子奮迅の活躍を見せることになる。

しかし、運命は嘲笑うかのように高虎から再び主君を奪った。
文禄4(1595)年に豊臣秀保が僅か17 歳の若さで病死。
秀長に続き、秀保まで失ったことが決定打になり、高虎は官位と領地を返上し出家。
高野山(現在の和歌山県伊都郡高野町。平安時代の僧侶である空海が開いた霊山)に上ることになる。

「随分とさっぱりしたものだな。」

と高虎の宿坊に訪れた大谷吉継は、経典と書物に文机しかない殺風景な部屋と髪を下した彼の頭を交互に見ながら呟いた。

「頭がか?部屋がか?」

と写経中の高虎は吉継の方を見ないまま返答した。それに溜息をつきながら吉継は

「両方だ。」

と胡坐をかき、書物を取り寄せるとめくり始めた。
高虎が高野山に上がって1月が経とうとしていた。
世は相変わらず騒がしく、此処だけ時が止まったようだと吉継は思った。
この緩慢に流れる時間が、目の前の藤堂高虎という男を食い尽くし、いつか次元の彼方に連れていってしまうようで……それは正に生きながら死ぬという“出家”を体現しているように彼には思えた。

(我ながら下らないことを……考えるものだ。)

と吉継は書物を閉じた。相変わらず高虎は写経に没頭している。
今日、吉継が此処にきたのは高虎の才を惜しんだ秀吉に命じられて、彼を還俗(僧侶から俗人、一般人に戻ること)させ再び豊臣に仕えるように説得するために来たのだが、僧侶というにはいささか大きすぎる体躯を墨染の衣で隠した高虎の背中が、一切の現世との関わりを拒否しているようで吉継はかけるべき言葉を失っていた。
手持ち無沙汰の吉継が宿坊からみえる庭に目を向けると、そこには、あやめが咲いており

「こんな高山でも咲くものだな……。」

と呟いた。その言葉に高虎は視線だけを、あやめに向けると誰にも聞こえぬように何事か呟き、再び写経に没頭するのだった。


―幼き日 君と眺めし あやめぐさ 変わらざるのは 花ばかりなり

(幼き日、貴女と一緒にあやめを見ましたね。あの時から季節も時も移ろいましたが……もう貴女はいないけれど……あの日、共に見たあやめだけは昔のように今も此処に咲いています。昔と何ひとつ変わらずに……。)

―君へ捧げた忘れじの恋。




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