幼い頃から彼はよくいじめられていた。理屈というより屁理屈を述べる彼のことを近所の子供達は気に入らなかったのだろう。気に入らない理由は簡単、彼の言葉がいつだって正論だから。人というのは他人に間違いを指摘されるとどうしても腹が立ってしまうわがままでプライドの高い生物だ。中にはそうでもない人もいるが多かれ少なかれ大抵はみんな腹の底に醜い本性を隠している。それは私も同類。

「結局のところ、名前も僕の言葉を信じていないということだろう?」

パチパチと小さな音を立てる暖炉を見つめながら彼が怒ったように私にそう言ってくる。私は脱脂綿に消毒液を含ませ、今度はそれを彼の額に強く押しつけてやった。傷口に消毒液がしみる彼が大きな瞳を涙で潤ませながら小さな唇を強く噛んだ。

「信じるも信じないも、私、壁外に出たことがないから分からないもん」

壁外はとても広い世界。数えきれないほどの塩水で作られた湖も存在するし、大地を震わせて山の頂から雨のように降らす炎も存在するらしい。物心がついた時からもう何十回も彼に聞かされたこの話を私は未だに信じることができないでいる。それもそうだ、壁外なんぞ出るものではない。仮に壁外がとても広い世界だと認めるとしよう。しかし、その広い世界を埋め尽くすように巨人が存在している。それならば、海というやつも火山というやつも全てが巨人のものという理論に結びつく。ほら、そう考えると結局彼の言うことは近所の子供達の言う通り妄言になってしまうのだ。ただ理屈上は彼の妄言が正しいので頭の悪い近所の子供達は中身のない反対と暴力でしか反論ができないのである。

「はい、おしまい。アルミンの言いたいことも分かるけど、少しは自分を抑えることも必要だと思うよ」

彼の手当が終わったので最早彼専用となっている救護箱の中身を片づけ始める。一方彼は私の忠告が気に入らないようで半泣きになりながら抗議した。

「あの壁外について記載されている本が嘘を言っているとは思えない」

「嘘とは言ってないよ。もしかしたら本当のことかもしれないわ。だけど、その虚偽を証明できる人が私達の周りにはいないの」

彼がぐっと涙を堪える。どうやら彼は私の言っていることが正論だと理解したようだ。救護箱を戻した私は彼がいつも持ち歩いている壁外の本を手に取りパラパラとページを捲る。本当はこの本に記されている世界を確かめに行ってみたい。しかし、まだちっぽけな子供でしかない私達にはできないのだ。それが可能なのは私達よりもずっと大人である調査兵団だけ。

「僕達は無力だね。自分が信じたいことすら信じることができない。とても、惨めだ」

結局私にできるのは彼の夢や希望を奪うことだけ。先程までおひさまの下で輝く彼の金色の髪のようにきらきらと眩しさに満ちていた大きな瞳が段々と曇っていく。夢見る彼のことを私は好き。だけど、夢見てしまうからこそ毎日のように傷つけられる彼のことをこれ以上見ていたくなかった。

「壁外の話はもうやめよう。それに、調査兵団がまた情報を持ち帰ってきてくれるだろうから、少しだけ待ってみようよ。ね?」

とは言ったものの実際調査兵団の壁外調査など当てにできるものではない。調査兵団はただいたずらに人間を巨人に餌として与えているだけ、そう大人達が陰口を叩いているのを聞いているので子供の私ですら今の調査兵団が人類の役に立っていないことなど分かりきっていた。彼は私の提案に少しだけ考え込んでから首を縦に振る。それ以来、彼は私に壁外の話をしなくなった。

「名前!僕、いつか必ず壁外に行くよ!」

やがて、少しだけ成長した彼はまた壁外のことについて口にするようになってしまった。原因はつい最近彼と親しくなったエレンのせいだ。真っ直ぐに信念を貫くエレンの性分に彼の心が動かされたらしい。おひさまのような輝きを取り戻した彼に私が口を挟む隙間などなくなっていた。代わりに私が彼に伝えるのはありきたりの内心では全く思ってもいない声援だけ。そうして、恐れていた事態が起こったのである。


845年。突然壁が壊された。桁違いに大きい巨人が壁を壊したかと思えば、その壁の向こうから巨人がこちら側の世界に入り込んでくる。人間が怯えながら暮らすために作られた小さな世界を巨人は容赦なく壊し、食らい、奪っていく。結局は信じるなどいつかなんぞそんな言葉は全て綺麗事に過ぎない。彼が一生懸命夢見た話は夢でしかないのだ。壁外に理想をただ掲げてそれだけで死んでいく報われない調査兵団のように。

「いつか、ね。私にはそのいつかがとうとう来なかったよ」

巨人と目があう。大きな影が私を覆い尽くす。私はあまりにも残酷な現実におかしくてつい声に出して笑ってしまう。やがて、大きな手は私からおひさまを奪っていったのだった。



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