精神が削られていくようだった。
 降谷が、名前すら明らかでない国際的な犯罪組織、黒の組織に潜入し始めてから半年が経った。まだ下っ端である降谷には大きな任務───殺人など───は回ってこない。そもそも、探り屋として潜入しているので、その手のものは幹部になったあとも少ないはずだ。
 しかし、絶対に回ってこない訳ではないだろうし、現在主に任される諜報任務だって少なからず誰かの命を奪うために使われている。そして、そうやって死んでいくのは、必ずしも犯罪者ではない。組織に不利益をもたらすかもしれない何かを知ってしまった一般人や、この組織を潰すという志を同じくする潜入捜査官を、自分は直接ではないにしても死に追いやっているのだ。
 探偵の安室透、組織の安室透が本物で、公安警察官の降谷零が偽物だというような気すらしてくる。どれが本当か。自分は一体、何のために何をしているのか。
 覚悟していたはずだ。犯罪者に紛れ込むために罪を犯すことなんて。それでもやると決めたはずだ。例え法律を犯したとしても、それで守れるものがあるのだと。法律だけでは守りきれない、零れ落ちてしまう何かを、例え自分が黒く染まってしまったとしても守るのだと。─────甘かったと知ったのは、潜入を始めてすぐのことだ。
 殺人現場を見ても、眉一つ動かすことは許されない。動揺を見せることは許されない。常に冷たい笑みを纏って、悠然と余裕を装って。組織中枢に潜り込むには、コードネームをもらって幹部にならなくてはいけない。そのためには、考えていることの一切を悟らせず、犯罪者の暗い仮面を被って、それにふさわしい振る舞いをしなくてはいけない。
 精神が、削られていくようだった。
 



 ある日、組織の任務を終えて久しぶりに家に帰ってきた時、暗い家の中で何かが動く気配がした。
 降谷は息を詰めて、持っている拳銃を確認した。───弾は入っている。安全装置を静かに外し、足音をたてずにゆっくりと気配がある部屋に進んだ。このとき、降谷はただただ人がいることに動揺していた。
 部屋のドアの前で一度深呼吸をする。そして、降谷はドアを大きく開け放って銃口を向けた。
「…兄さん…?どうしたの、拳銃なんか持って…」
「、名前…?」
 そこにいたのは、降谷の妹だった。しばし茫然としてから、降谷は慌てて拳銃の安全装置をかけてそれをしまった。
「…悪い。疲れていたみたいだ…」
 どうして忘れていたのだろうか。名前もまた、安室海という偽名を使って、安室透の妹として一緒に生活しているのに。降谷はもちろん名前が安室海として生活する事に反対したが、名前のハッキング能力が探り屋である安室透に役立つこと、『妹』という『本当』を嘘に紛れ込ませれば信用性が高くなるという上司の言い分に負けた。降谷自身、名前を一人にさせるのは不安があったという事情もある。
「兄さんは休んだ方が良い…帰ってくるの、すごく久しぶりだよ。疲れて当たり前」
「ああ、…ああ、そうだな」
 名前は、降谷が自分に銃口を向けたことには触れず、ただ降谷の体を気遣ってかすかに顔をしかめた。そのいつもと変わらない名前の態度に、降谷はようやく自分が誰かを思い出したような気がした。
「兄さん、ねえ兄さん…泣かないで」
 気付けば、降谷の目からは涙が溢れていた。その表情は変わらず、嗚咽も漏れず、しかし涙だけはとめどなく流れて止まらなかった。
 名前は、降谷が今やっていることを詳しくは知らない。ただ、偽名を使い、ハッキングをして得る情報が必要になるような危険があることをしている、それだけしか知らない。それだけしか知らせていない。
「泣かないでよ、兄さん…」
 ─────例え違う名前を名乗っていても、名前は変わらずに降谷を兄と呼ぶ。知らされていることが少ないことに気付いていても、不審なことが多くても名前は何も聞かずに、ただ降谷の帰りを待っている。
「…名前」
「うん」
「ありがとう」
「え?」
 紛れもないこの自分が、名前を危険に巻き込んでいると知っている。名前の足が不自由なのを良いことに、この家からほとんど外出させずに、長い間寂しい思いで待たせていることも分かっている。名前はきっとそんなことないと言うのだろうけれど、降谷はこんなことのために名前を掬い上げたのではなかった。もっといろんなところに連れて行って、もっといろんなものを見て、感じて、知ってほしかった。
 それでも、名前は降谷の側にいる。確かに降谷を支えている。降谷を、紛れもない降谷として呼ぶ。
 精神が削られていくようなこの生活の中で、自分が誰か分からなくなって本当の犯罪者になってしまおうとしても、名前が何も知らず暖かく降谷におかえりと言ってくれるから、降谷は降谷でいられるのだ。



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