天下人の寵姫という実態の伴わない椅子に私を無理矢理座らせて傀儡とした、徒花のような妖しい色香を纏った男のことを、私は幼い時分から敬愛していたのだけれど、その人は政権発足の早い段階で、病によって夭折した。死に際の狂態は平素の彼を知る者なら目を背けたくなる程酷いものだったというが、生憎私はそれを見ていないので、彼の人の面影はいつまで経っても美しい儘である。賢人の永劫の不在に、一番傷付いたのが私の名目上の夫である太閤その人であったことは疑いようもないが、誰かにその悲しみを見せられるような器用な人ではなかったので、私は今日まで、実際のところ彼がどれ程嘆き苦しんでいたのか知らずにいる。心を通わせる間もなく、覇王はこの世を去った。ある日出陣してそのまま戻らなかった。武将には珍しくないこととは言え、私はひどく理不尽な仕打ちを受けた心地になった。私はいつの頃からか、彼のこともまた家族として慕うようになっていたらしい。天下人の不在に伴い、宙に浮いた覇権を巡って、時代は混濁を極めた。そんな中で私の後見を申し出たのが、白布で全身を覆った智将である。彼もまた病魔に侵されていたが、むしろ彼自体が疫病そのものであるかのような、不吉な物言いを好んだ。不気味だと彼に怯える者も多かったが、私は彼のことを非常に気に入っていた。彼の思想や物の考え方は、初恋の人によく似ていた。行動の理念がすべて唯一無二の友の為なところなんて特に。大病が生の灯火を吹き消すよりひと足先に、彼は破滅へと踏み出した。凶王の黄泉路に侍ったのだろう。我々は戦に敗けたのだというが、城の最奥で座していただけの私には何の実感もなかった。死神、と。影で謗られるようになったのはその頃からだ。成程、言い得て妙である。私が目に掛けた男は、皆私を遺して死んでいく。
「姫様、真田が参りました!これで勝てまするぞ!」
浮足立った人の声を久しぶりに耳にした気がした。近頃では誰もがすでに彼岸にあるように暗い顔をしていたので。関ヶ原の一件で懲りたのかと思いきや、またもや戦が始まるらしい。私の知る権威者は、もう誰も残ってはいないから、今度の兵卒が一体誰の御旗の下に集ったものか、見当がつかずに戸惑っている。徳川の因縁の相手として、真田の名はよく耳にしているが、まるで御伽噺のように、遠い。
「真田源次郎幸村、遅ればせながら参上いたしました」
真田という兵者の訪れは余程重大な意味を持つらしい。直近衆は寄ってたかって、私を控えの間へと引き立てた。その顔が一様に嬉しそうなのが気味悪い。名乗って顔を上げたのは、まだ青年の域を出ない若侍だった。どんなに年嵩に見積もっても、私より五つ以上離れることはあるまい。一つにまとめて背に流した栗色の長髪と、黒目がちの大きな目が駿馬を思わせた。
「お久しぶりでございます」
生真面目な様子で彼は頭を下げた。朧げな記憶を辿れば、確かにその顔には見覚えがあったが、彼は豊臣の眷属ではなく、先の大戦の際に刑部が半ば強引に行軍に加えた烏合の将の一人であった筈だ。何度か城にも顔を出していたので、言葉を交わしたこともある。なるほど、久しい。私は黙って頷くことで真田に応えた。

漸く冬が到来した頃、ついに我々は徳川方と衝突の時を迎えた。その際に白刃戦で敵に甚大な被害を与えたことで、真田はいよいよ英雄として祭り上げられることになった。軍神もかくやというような賞賛の嵐にも奢ることなく、謙虚で実直な姿勢を崩さない彼の人柄に誰もが尊敬の眼差しを向けている。槍を振りかざして戦場を駆け抜け、御味方に勝利を齎した赤虎の話は、寝物語にしたってこの短い期間でもう聞き飽きたくらいだ。
その真田が、連日私の許に謁見を求めてやってくる。城内の人間は面白がってあれこれ噂しているようだが、残念ながら浮ついた事柄はまったくない。彼はこの城の見取り図が書かれた大きな巻物を持参しては、こちらに斯様な軍備をして欲しいとか、あちらに小隊を置く許可を出すようにとか、一方的に提案していくだけだ。私はそれを果たしたり、すっかり忘れてしまっていたりする訳だが、その結果については、彼もまたあまり重要視していないように見受けられた。重ねて請われることもありはしたが、そんな時でも二度目とは思えないほど丁寧に説明を重ねた。生来の誠実さの表れだろう。よくもまあ、毎度そんなに要望があるものだと、私は密かに感心していた。
「何故私にそんな話をするのです?」
相談役ならもっと、適任が居そうなものなのに。一度不思議に思って尋ねてやったら、真田は虚を突かれたような顔をした。
「貴女がこの城の主ではないか…!」
今度は私が目を丸くする番だった。しかしながら、私はこの城で自分より権力を持っている者を知らない。城主というのはこんなものかと、白けた気持ちになった。城など持っていても仕方がない。奪われるか壊されるかして、すぐにこの手から離れていくだろう。

あれは予兆のようなものだったのかもしれない。籠城は、そう上手くはいかなかった。そもそも破壊を前にして此程愚かな戦法もない。徳川を家康個人として捉えるならば、大坂城は青春の残骸とでも言うべき、過去の遺物だ。そんなもの、焼き払ってしまいたくもなるだろう。もう記憶の中にしかいない誰かと共に。
「最期まで独り…死神にはお似合いね」
火の海となった最奥で佇んでいる。侍っていてくれた筈の侍女も兵士も、いつの間にか居なくなっていた。着物や髪を嬲る炎は、奇怪なことに熱くない。知らぬうちに生と死の一線を超えてしまったのかもしれない。焼けた柱が唸り声を上げながら倒れた。その刹那に呼ばれた気がして、振り返る。火の粉が頬に散った。
「姫様っ…!」
炎がそのまま、人を象ったかのような、赤い男が駆けてくる。彼は必死な様子であった。そして不可解な程に親しげに私を真っ直ぐ見詰めている。
「よかった、間に合った…」
まるで宿世からの恋人同士のように、真田は私を抱き締めた。火傷を負い、いくらか爛れた彼の肌だけが抗いようのない熱を伴っていた。
「覚えておいでだろうか…」
真田は耳朶に刻むように囁いた。その吐息すら狂おしく熱い。
「貴女は独りで死ぬのは嫌だと仰った…」
抱き寄せたままの姿勢で、真田はそっと私の手に何か握らせた。それが彼がいつも首に掛けている六文銭だと気付くまでに、何度か手の中で揺らす必要があった。三途の川の渡し賃。
「誰もが貴女を置いて逝ってしまう、とも…」
そんなこと、言ったかしら、親しくもないこの人に。或いは近しくないからこそ、本心が零れてしまったのかもしれない。関ヶ原での合戦の前後に、真田と言葉を交わす機会なら何度もあったのだから。
「姫様、某は戻って参りました」
真田は少し躰を離すと、その燃えるような両手で私の頬を包み込んで愛しむように撫でた。無邪気な笑みすら浮かべている。
「貴女を独りで死なせはしない」
誰もがこの男を英雄視した。彼が戦場に立ちさえすれば万事上手くいくと。
けれど、蓋を開けてみればどうだろう。真田は私を救う為だけに、ここに来たというではないか。傀儡の私を独りで死なせぬように。
「もう、誰のことも待たなくていいの?」
私も、この城も、征ったきり帰らない男たちを待ち続けて、もう疲れてしまった。二人の輪郭はいつの間にか炎に溶けて、一つに交ざり合おうとしている。
「無論。彼岸の果てまで共に…」
既に涅槃に差し掛かろうとしている意識の片隅で、手にしていた貨幣が地に落ちる音を聞いた。



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