※注意※

・お手数をおかけして大変申し訳ないのですが、今作をお読みになる前に、第5回「Hero」の“あなたのためならば夜をも喰らう所存だ”→第6回「Villain」“嘘とラブソング”を読まれることをオススメします。(読むのがメンドイと思われた方は“夢主は浅井氏の同盟国の姫で、一時期浅井領にいたため高虎とは幼馴染以上、恋人未満。何やかんやで遠恋中と高虎コソ泥疑惑あり”とだけ頭の隅に置いて頂ければ読まなくても無問題です。)
・無双の知識は勉強中かつアニメと動画サイトのゲーム実況のみ。
・キャラ崩壊あり。
・話はやや史実ベースで進行しつつも、話の都合により改変・捏造あり。
・話の都合上の理由で捏造設定&オリキャラが乱舞。
・「高虎の手ぬぐいはお市様があげた設定以外認めん!」という方はブラウザバックお願いします。
・安定の駄文・駄作クオリティ。
・今作の清須会議は話の都合上、江戸時代に出来た創作『川角太閤記』の話を採用していますが、実際の清州会議は信長の後継者として2男の信雄と3男の信孝が対立し、どちらも譲ろうとしないため、話が終わらないから秀吉と勝家が折衷案として嫡男の信忠の子、つまりは信長の嫡孫の三法師を仮の当主にすることで双方了承済みしているため、この時点では秀吉も勝家も対立はしていません。(秀吉さんと勝家さん、話の都合だけという理由で歴史捻じ曲げてスマン。)
・バファリンの半分は優しさで出来ている。夢あるあるの話の9割は捏造で出来ている。
以上を読んでもバッチコイの猛者の方&例え読後が不快に感じても首に手ぬぐいを巻き、なびかせながら「馬鹿野郎!この駄作製造マシンがっ!」と吐き捨てるだけで済ませられる方のみお進みください。






―四海波恬(しず)かにして瑞色披(ひら)く
―相生の松は茂りて枝を鳴さず
―高砂の一曲喜び極り無し
―契(ちぎり)は固し三々九度の扈(さかづき)

詩吟 『四海波』より




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―天正10(1582)年
―苗字国、苗字氏の菩提寺

深い緑の木々に囲まれたこの寺の本堂の本尊である薬師如来像の前で高らかに読経が院主(寺の住職のこと)によりあげられていた。
少し動くだけでの汗ばむ夏の盛りの熱は、高地にあるこの本堂にも容赦なく熱を運び込み、院主も、その後ろに控えているこの国の壱の姫であり病魔に冒されている領主の父と、病弱な弟にかわり女人の身でありながら領主代行を務めている名前にも、そのお付の者たちにも容赦なく襲い掛かるが、額から流れ落ちる汗にもかまわず彼女は一心に祈り続けていた。

これは領主の父と嫡男の弟の病気平癒と健康祈願を兼ねて、毎月、彼女が多忙な公務の合間を見つけ行っている祈願行事である。

女の身でありながらも政治の才覚もあった彼女は、周りの重臣たちに支えられながら国事(国の政治)を行ってきてもう9年にもなる。

男が家督(国の領主の座や家の当主の座を継ぐこと)を継ぐのが当たり前とされた時代に、彼女のような例は珍しく、女が領主を務めているというだけで周辺の諸国からは、武力による干渉もしくは政略結婚という形で内政干渉(他国がその国の政治に口出しをすること)の危機に何度もあったが、父の妹であり彼女の叔母が鎌倉時代からの名門であり、関東全域を破竹の勢いで掌握しつつある北条氏の重臣に嫁いでいることもあり何とか国としての有り様を保ってはいた。

今年の初夏に京・本能寺にて明智光秀が主君・織田信長とその嫡男・信忠を弑逆(家臣が主君を殺害すること)したのだが、その明智の天下も長くは続かず、中国・高松城遠征に赴いていた筈の羽柴秀吉が異常とも言える速さで京へ取って返し、あっさりと明智は秀吉に討たれてしまった。

天下統一への王手をかけた織田信長とその嫡男の信忠の死は、1度は治まりかけた日ノ本
(日本)を再び乱世へと引き戻すことになるだろうことは、彼女も重臣たちにも懸念するところであった。

彼女にとって何より大事なことは“この国を守りきること”だけであり……織田の家中同士で争おうとも、それ自体はどうでも良い話だった。問題は誰が信長の跡を継ぐかだ。
何故なら彼女の国は、織田本家も織田重臣の領地とも比較的近い場所にあるため、いくら北条が後ろ盾にいようとも、織田家の動向は無視が出来ない話でもあったのだ。

明智が織田に謀反し弑逆した上に、わずかな期間で討取られたことを聞いた彼女や重臣たちの心中は、明智も気の毒だが余計なことをしでかしてくれたといったもので、これまで外交だけで織田と何とか摩擦を起こさずにやり過ごすことに苦心していた彼女の国は、織田家の……信長の跡取りが誰になるかで、外交方針を大きく方向転換せざる得なくなる。

先日、尾張(現在の名古屋県)の清州城で行われた信長の跡取りを決める会議も、表面上は亡き信忠の嫡男……つまりは信長の孫の三法師が跡継ぎと決まったらしいが、肝心の三法師がまだ竹馬遊びも出来ない程の幼子であり、実質は信長の遺児達を駒に使った織田家中の重臣同士の政権争いであった。

三法師を擁立した羽柴秀吉と信長の3男・織田信孝を擁立した柴田勝家の勢力争いになるだろうと、京と織田の重臣たちの領国へ放った草(忍者)が彼女へもたらした新たな知らせはそれだった。(2男の信雄も存命ではあったが無能過ぎて、最初から跡継ぎ決定のための話合いの席にすら名前がのぼらなかったとのことであった。)

羽柴と柴田……どちらも馴染みはないが、前当主の信長のように此方に友好的であるのならば正直な話どちらでも良かった。早く決まってくれた方がこちらも外交方針を定めやすいのだ。

そして、もう1つ……彼女の気がかりになっていることがあった。
9年前……従兄の景清を誤ったとはいえ亡き者にしてしまった自分の罪を被って城中から消えた彼女の幼馴染であり想い人……かつての浅井の足軽であった藤堂与右衛門高虎のことである。

景清殺害の罪を被った高虎は、表向きは城中で金品を奪い、それを見咎められた景清を殺害後に出奔したという話が流布されたのだが……真相は高虎の名前を出し彼女を騙して呼び出した景清が、彼女に襲いかかり必死で抵抗した彼女に懐剣で刺されたという話であった。それを目撃した高虎は自分が何とかするからと言い、彼女にこの事を忘れるようにと告げたのだ。

あれから、もう9年もの月日が流れたが高虎の行方は依然としてしれない。
生きているのか……死んでいるのか……。
高虎が出て行った夜に出ていた宵待月だけが、あれからも変わらずに夜空に浮かんでは彼女を見下ろしているばかりだった。

(高虎……高虎……どうか、どうか生きていて……どうか。)

蝉の声が増す中、院主の読経が終わり、それを見計らったかのように寺小姓(寺に行儀見習いに来ている武家の子息)達が院主や名前達に茶を献じた。

その茶を飲みながら、国政のことや家中での出来事を相談すると院主はそれら1つ1つに興味深そうに頷きながら解決策を講じてくれるのだ。この時代の知識層の頂点は僧侶であった。織田信長に桶狭間で討たれた今川義元の学問指南兼相談役が禅僧の雪斎禅師であったように、彼女の国でもこの院主が領主の学問指南役であると同時に国政の相談役でもあったのだ。
彼女にとっては月に1度の祈願行事であると同時に国政を相談する大事な場でもあるため、どんなに多忙であろうとも菩提寺の参詣は欠かせない領主代行としての大事な勤めであった。

ひと通りの話がおわると彼女は懐から封印がされた書状のようなものを出し、院主の前に差し出した。

「では院主様……これをお願いいたします。」

名前が院主に向かい頭を下げ、差し出したものは起請文(神仏に誓う文書)であり、中は神仏へ父と弟の病気平癒・健康祈願と国内の安定を祈る内容が記されていた。これも9年前から彼女が月に1度続けていることだ。院主は頷きながら、その4通を受け取り

「確かに承りました。しかし姫も御公務がある中で毎月熱心に……もう9年になりますかな……この願掛けは……。」

それをおさめながら感慨深く呟く。
彼女は苦笑しながら

「神仏にでもすがらねば……女が領主など出来ませんから。」

と返す。

「いやいや感心な御心がけにございます。姫様ほど御聡明な方は男でも珍しかろうと思います。女ということが気になるのなら……思い切って御出家という道も……。かの源頼朝公の御正室である北条政子様も、御夫君亡き後は御出家なされ尼将軍として辣腕を振るわれたとか申しますからの……。」

と院主が言うのを後ろに控えていた政岡が静かに

「院主様。姫様はあくまでも弟君が長じるまでの代行でございます……とうに嫁に行かれても……御子がいらしてもおかしくない御年におなりあそばしてはございますが……まだまだ御子も望める立派な女人……加えてこのような見事な射干玉の御髪を下すなど……そのような御戯れ……冗談にしてもクスリとも笑えませぬ……。」

と表面上はにこやかな様を崩さないものの、聞く者に暗に威圧を与えるような政岡の声に本堂内は一瞬静まり返ってしまった。

「政岡……そのようなこと皆冗談だと分かっていますよ。弟も最近は執務室に来ることが多くなり……今は少しずつ国政のイロハを教えているところです。まあ、弟に全てを引き継ぐ頃には私は十分な年増ではありますから……嫁の貰い手があるかどうか。」

と苦笑しながら彼女が告げると少し場の空気が柔らかくなった。

あらから9年……あの時13の少女だった彼女は今年で22の年を迎えることになる。
この当時、早い者で12歳で嫁いで翌年には子供を産んでいるのが当たり前の時代でありながら、彼女は嫁ぐこともせず縁談も国内の事情を盾にかわし続けていたのだ。
1度も嫁ぐことなく22の年を迎えるということは、この時代の結婚事情からすれば異様ともいえた。

いくら国内を離れられないからとはいえ、それならば婿を取るという方法もあるのだが……彼女はそれにどうしても頷くことが出来なかったのだ。

今もこの手に残る景清の肉を自分の懐剣で裂いた……あの感触と彼の血に塗れた自分の姿が、やもえない事情があったにしろ従兄の命を絶った自分が恐ろしくて……申し訳なくて名前はどうしても縁談を受ける気にはなれなかった。

1国の姫として自分が十分間違っていることは良く理解していたのだが、あの日……景清に体を奪われそうになった時……気付いたのだ。

どうしても高虎ではなければ嫌なのだと。
高虎にされることならば、おそらくどんな恥ずかしいことであろうとも耐え受け入れられるだろうが、他の男にそれをされたなら


(おそらく私は……景清殿にした事と同じ事をしてしまう……。)


それが彼女には何より恐ろしかったのだ。
最初は高虎の生存を信じ迎えに来るという言葉を支えにしてきたが……9年もの間、彼からは文1つないのだ。行方も分からずじまいであり……それでも最初の3年は必ず迎えに来てくれる筈だと信じることが出来た。

けれども、もう9年だ。
おそらく彼はもう自分を迎えには来るまい……。
9年の月日があれば幼い頃に交わした約束など……若い情念など……消し去るには十分な時間だ。


4年目から6年目までは迎えに来ない彼を恨み、別れた夜に浮かんでいた月を眺めては誰にも知られないように涙にくれた。

けれども、国政に携わり民の暮らしを見るにつけ……彼女は気付いたのだ。

自分と違い高虎は己が身1つでこの乱世を生き抜いているのだという事に。

今は……生きて……元気でいてさえいてくれれば……もうそれだけで良いとすら思えるようになった。そして彼の本懐が叶えば良いと……その隣にいるのが例え自分ではなくても。

それに自分は、どんな理由があるにせよ従兄殺しなのだ。
 

そんな自分が

(幸せになって良い筈がない。せめてこの国のために生きることが出来たのなら……もうそれだけで……それだけで良い。)

女だと侮らずに支えてくれる重臣たちや民のためにも、院主に言われたように弟に国政を全て引き継ぎ、弟の……領主に相応しい嫁取りの段どりを整えた後に出家するのも悪くない話かもしれないと彼女は思った。

そして、生涯をかけて景清を供養したのなら……少しは景清の気も晴れるのだろうか、自分の罪も許されるだろうか……今はその事が少しだけ彼女の心を照らしていた。
そう思いながら彼女は少しだけ唇に弧を描いた。


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祈願と院主との国政相談も終え菩提寺から帰った名前を迎えたのは、いつも冷静な様子を崩さない家老の寺脇の慌てたような顔だった。
着替えもそこそこに寺脇の話を聞くと彼は

「先程……織田家・御家中の羽柴筑前守(羽柴秀吉)が領主に……姫様に御会いしたいとお越しでございます。」

「羽柴筑前守が……?」

と彼女も戸惑ったように返す。
まだ織田の跡継ぎも定まってないような段階で渦中の人物に会うことになるとは思わず戸惑ったが、もう相手が来ているのだから会わないわけにはいかないだろうと……少し思案した後で彼女は思った。

本来であれば事前に書状などで約束を取り付けるべきではあり、追い返すという選択もあったが渦中の人物である羽柴筑前守……秀吉がどんな人物かという興味の方が勝ってしまい彼女は会うことにしたのだ。

弟の体調を薬師に確認し加減が良いようなら秀吉に会うための支度をさせるようと侍女に告げると、自分も着替えと化粧に取りかかった。
待たせる間、秀吉に非礼がないように十分もてなすように言いつけながら彼女は支度をおこなう。秀吉との会見の席で、もう諦めかけた懐かしい想い人に再会することになろうとは思いもよらずに……。


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「いやあ……そぎゃあ大きい国ではないが……内装と言い、酒と言い中々のもんじゃのう!秀長!高虎!」

と待つ間に用意された酒と肴に上機嫌で秀吉は舌鼓を打ちながら、隣にいる秀長と後ろに控える秀長の家臣である高虎に声をかける。秀長は

「御会いになる前に、あまり御酒を過ごされませんように……。今日は大事な相談……頼み事に来たのですから。」

と諫める秀長に秀吉は

「分かっとるって……分かっとる。しかし、高虎が此処の領主の縁者と知り合いというのは何とも心強い話だのう。何かあったら頼むわぁな。」

と既に頬の赤い秀吉に、高虎は内心……舌打ちをしながら

「ハッ……秀吉……様。」

と低頭した。あれから9年……気絶させられた挙句、川に投げ捨てられた高虎は、近隣の村人に助けられ何とか命を長らえていた。
その後も転々と主君を変えながら、今は羽柴筑前守秀吉の弟である羽柴小一郎秀長の家臣として仕えている。1国1城には遠いが去年、但馬国の土豪を討った功績により3000石の所領を加増され鉄砲大将に任ぜられたのだ。

相変わらず自分の体を武器に的にする高虎の凄まじい戦い方に、味方からすら“藤堂の鉄砲大将は戦い方まで鉄砲玉そのものじゃ”と恐れとも揶揄ともとれるようなことを言われてはいるが、今の高虎にはそんな周りの評判はどうでも良かった。

早く釣り合う身分になり、名前を迎えに行くことだけが高虎の心の支えだった。
9年間……もしかすれば他家に嫁いでいるかもしれないと何度絶望しそうになったかは分からないが、彼女が何処にも嫁がずに病床の父と病弱な弟を支えて国政を取り仕切っている話を聞き高虎は安堵していた。

それと同時に待たせすぎてしまったとも後悔してもいた。
自分の記憶に間違いがなければ彼女は今年で22歳の筈だ。
普通なら他家に嫁ぎ子供の2〜3人産んでいたとしてもおかしくない年齢なのだ。

自分との約束を信じて待ってくれていたのなら嬉しくもあり、若さを無駄に過ごさせてしまった申し訳なさもあった。

まだ彼女の身分には程遠いが、今日は今の自分を見てもらい……彼女に改めて決めてもらおうと彼は思っていた。
もし今の自分を見て彼女がこれ以上は待てないというのならば……潔く諦めようと。

誰にだって、どんな生まれだとしても幸せになれる権利はあるのだ。
もしそれが、叶うか叶わないかの約束のために阻まれるなどあってはならない事だ。
特に命のやり取りを直に戦場でしている高虎にとっては、それは此処数年間で切実に感じてきたことでもあったからだ。

人はアッという間に死ぬのだ。
呆気ない程にアッサリと……それならば幸せにならなければ損だ。

(アイツがどちらを選んでも……俺は恨まない。)

例え自分を選ばなくても……9年間……いや10年以上待ってくれたのだ。たかが他国の……小さな小さな村の土豪の次男坊を1国の姫が

(それだけで……もう十分だ。)

と高虎が目を伏せると、外から声がかかる。
よいよ彼女と対面するのだと高虎は高鳴る胸を押さえて姿勢を正し前を見つめた。

お付の者と重臣数名を伴い彼女が部屋に入って来た。

「遠路はるばる良くお越しくださいました。羽柴筑前守殿。私は苗字諫早守が娘(娘のこと)でございます。」

と9年前より少し大人びた彼女の声が高虎の鼓膜を震わせた。
高虎は低頭したままだが秀吉は

「こりゃあ別嬪さんじゃのう。」

ほろ酔い気分も手伝い上機嫌で話す声に、彼女はクスリと笑いながら

「羽柴様は陽気な方なのですね。お上手ですこと。」

にこやかに返す。

「いやいや……うちのお市様ほどとは言わんけど、苗字の姫さんも中々じゃのう!お前らもそう思うじゃろ?秀長!高虎!」

相変わらず陽気に話す秀吉の言葉の中に“高虎”という言葉を聞いた名前は、秀吉の後ろに控えるふたりの武者の方へ目を向けた。
すると、ちょうど顔をあげた秀長と高虎の顔が目に入る。
秀吉の後ろに控えていたのは、別れた時よりも顔つきも精悍になり体躯もしっかりとしていたが、間違いなく彼女の知る高虎だった。

驚きのあまり言葉を失った彼女を、高虎もジッと見つめ返した。
ふたりの距離は10数歩ほどで、すぐにでも傍にいける距離であったが、それは許されないことであった。

視線を宙で交わらせるが、言葉はかけられない。それは許されないことだった。

高虎の姿を見た途端に涙が溢れそうになるのを堪えながら彼女は、秀吉がこの地に来た理由を聞いた。秀吉が話した理由は、清須会議の結果を不満に思う柴田勝家を中心とする信孝派が、三法師を擁立した秀吉を討つために密かに勝家の居城である北ノ庄城(現在の福井県福井市)で軍備を整え挙兵の準備をしているとのことであった。勝家に対抗する意思を固めた秀吉は、勝家の背後にあたる土地の領主である名前の国と同盟を結ぶことで、後顧の憂いをなくし勝家との戦に集中したいとのことだった。

「まあ、突然来て返事せえと言うのも乱暴な話じゃからの。この藤堂与右衛門高虎をワシの名代(代理のこと。この場合、秀吉の代理を指す)として残していくでぇ……考えてくれんじゃろか?そちらが必要なことでワシが用意出来ることなら何でもさせてもらうけ……高虎を通して言うてなぁ。そちらの殿さんと弟君が御病気じゃあ聞いたからの。京からの薬師も同行しとるけん……。」

秀吉は高虎の方を見た。
高虎は再び低頭し秀吉の問いかけに短く答えた。
要求は伝えるが、直ぐに返答を迫るのではなく自身の代理である人物を置き交渉役にすることで相手側の警戒を解き、交渉役を現地に置くことにより他国に交渉に入る隙を与えない手法は“人たらし”と言われる秀吉の手法の十八番とも言われるが、間近に見るのと聞くのでは大きな違いがあった。

秀吉の外交手腕の隙の無さに感心するとともに、彼女は高虎がこの地に留まるということに喜びを感じずにはいられなかった。
高虎が秀吉の名代ということは、彼とも自由に言葉を交わせるということだ。
この9年間、伝えたかった事、話したかったことが自分の口から伝えられるかもしれない、その事が何よりも嬉しかった。

「そちらのご希望に応えられるかは確約できませぬが……それでもよろしければ……薬師の件、有り難く存じあげます。」

「姫さんたちが此方の味方になってくれりゃあ心強いだがね。この高虎をワシだと思って何でも言いつけてくれや。高虎頼んだで。」

と話が纏まりかけた時

「お待ちください。」

と名前の傍に控えていた政岡の声が大広間に響いた。

「政岡?」

と怪訝そうな名前に構わず政岡は

「そこに控える藤堂与右衛門殿はかつて、この城で恩義を受けながら不忠を働き出奔した不忠者でございます。羽柴様には大変無礼な物言いになりまするが……名代として相応しからぬ人物であれば、他の方を名代に御命じ頂きたく存じます。」

「高虎……そりゃまことか?」

政岡の言葉に場が静まり返り、その場にいる全員の視線が高虎に注がれた。
高虎の表情は動かないが言葉も発しない。
事実を話せば名前が―彼女が傷つくことになるからだ。
高虎はひとつ息を吐き口を開いた。

「政岡殿のおっしゃ「それは偽りです。高……与右衛門殿は不忠者ではありません。」

しかし、その言葉は名前の声に遮られた。

「あの夜、私の部屋に夜盗が侵入して……危ういところを我が従兄の景清殿と与右衛門殿に救われたのです。景清殿は夜盗に討たれてしまいましたが……与右衛門殿は夜盗を追って……変な噂が立たぬようにと口止めされていたので……今まで黙っておりましたが……これなる与右衛門殿は私の恩人なれば、恩人を不忠者と誹られては黙ってはおれません。事実を話すことも出来たのに私のために今まで口を閉じて下さった与右衛門殿は信頼に足る御方です。羽柴様の御名代としても相応しい方……羽柴様の御名代として歓待いたします。」

と彼女は上座から下り高虎のもとへ歩み寄ると、その手を取った。

「羽柴様と苗字のために、よろしくお願いいたします。」

という彼女の目じりに涙が光っていたことは、おそらく目の前にいる高虎にしか見えなかった。高虎は一瞬だけ切なそうに目を眇め彼女を見つめたあと

「ハッ……全力を尽くします。お言葉……まことに有り難く……9年の苦労が今報われた思いでございます。」

と低頭した。その場はふたりを温かく見守る眼差しに満ちていたが、政岡ただひとりだけが袖の中に隠した手を握りしめ、ふたりに厳しい眼差しを向けていた。

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高虎が秀吉の名代として苗字の城にきて半月経とうとしていた。

高虎の口から伝えられる秀吉側の情勢や条件は、苗字側が放った草の者(忍者)からもたらされた情報と寸分違わないことから十分信頼に足ると判断されたため交渉は順調に進んでいた。

また信長時代から続く北条攻めに関しても、苗字と秀吉との同盟が成立すれば、北条に関しては不可侵条約を結んでも構わないとの申し出もあり、北条の重臣に嫁いでいる叔母がいる彼女としても、秀吉との同盟は歓迎できるものであった。

北条方にもその次第を伝えると、北条からも今回の同盟締結について了承が得られたため、間もなく同盟は正式に締結された。後顧の憂いが無くなった秀吉は、柴田勝家との戦に向けて準備を進めることとなり、交渉役で名代であった高虎の帰参が明後日に決まった。

領主預かりとして交渉の場にいた名前だが、高虎とは直接、口を聞くことが出来ても話す内容は同盟についての話ばかりで、お互いのことや、離れ離れになっていた9年間の出来事について話すことはなかった。高虎は非常に有能で冷静であり巧みな交渉術で同盟を取りまとめただけでなく、苗字側にも最大限の配慮をしてくれた。

高虎の心遣いは彼女にとっては嬉しいものではあったが、ここ半月の彼の言動を見て彼女はそれが私情……自分のために配慮されたことではないことは良く分かっていた。
純粋に政治として、彼は自分と向き合っていたのだと彼女は感じていた。

9年間、彼から話を聞かなくとも彼が様々な経験を積み、戦場や政争を潜り抜けてきた結果が今なのだと、彼と話す度にそう思わされたのだ。その事に彼女は静かな喜びを感じていた。

(立派な武将になられたのですね……私の願いそのものに……。)

彼女はひとり静かに微笑み、執務室で書状や訴状に目を通していた。明後日には彼が帰参する。同盟を締結させたことで彼はまた出世をするだろう。今はまだ妻もいないとの話だが、彼も良い年齢だ。
これを機に嫁取りの話も出るかもしれない、今度、会える時には……いやもう会うことはないのかもしれない。

それならば……と彼女は筆を置き、政岡を呼び寄せると、明日、高虎の今までの功労に報いるために茶席の用意をするようにと告げた。
政岡は怪訝な様子を見せたが、同盟相手への最大の礼であり、彼の亡き主君・浅井長政の命日が近いこともあり供養をかねての茶席であると告げると、政岡も、それ以上は言わず引き下がった。高虎が来た夏から、季節は蜩の鳴き声も乏しくなった秋に移ろうとしていた。


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与えられた部屋で高虎は帰参に向けての荷造りを行っていた。
ここ半月、同盟のために彼女と顔を合わせ、話す事が多かったが、話の内容は当然ながら同盟の話ばかりでお互いの話をすることはなかった。

9年ぶりに見た彼女の姿は美しく、加えて領主代行としての威厳や思慮深さを兼ね備えた凛々しい女人として成長していた。
この9年間、彼女と釣り合う身分になることだけを支えにお役目に励んできた高虎にとって彼女の姿や振る舞いは、もう自分の手が届くものではないことを理解させられるには十分なものであった。

今は領主預かりとして独り身を通している彼女だが、少しずつ健康になってきた弟が跡を継ぐことになれば、彼女の身分に相応しい大名のもとへ嫁ぐことになるだろう。それが自然の流れなのだと彼は寂し気に笑った。

今まで自分は若さに任せて、浅ましい……叶わない夢を見ていたのだと
それが覚める時が来ただけなのだと
このまま彼女を待たせたところで、彼女を迎え入れることが出来るようになるには、自分も彼女も白髪頭の朦朧した年寄りになっているのかもしれない。
明後日、自分は此処を去ることになる。
そうなれば、もう彼女とは会うこともないだろう。

「その方が……諦めがつくか……俺の夢は此処までか……。」

と呟いた時、障子の向こうから侍女の声がした。入るように告げると、侍女は高虎の働きに感謝した名前が明日、茶席をもうけるので是非受けて欲しいとの話だった。断る理由のない高虎は謹んで受ける旨を侍女に伝えた。


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翌日、高虎は迎えに来た侍女に案内され、城の奥にある茶室に通された。
茶室は小さな庵として城からは独立した形で建てられており、開け放たれた障子がその開放感から実際より大きく茶室の中を見せていた。


茶室の眼前には淡海の海(琵琶湖)を模した小さな池とその中には滝が流れ、澄んだ水面を囲むように周りには様々な近江近辺で良く見る植物や木々が植えられていた。

茶室に通されると、既に名前と政岡が座しており、高虎を見ると彼女達は頭を下げた。

「本日は御招き頂き有り難く存じあげます。」

と高虎もその場に座し低頭する。例え言葉を交わせても自分と彼女は形式通りの言葉でしか話せないのだ。そのことが何よりも彼女との距離を高虎に感じさせていた。
同盟の……役目だけならまだしも、役目以外の席でもこんな風に振舞わなくてはならないことは彼にとっても苦痛だったのだ。

「与右衛門殿のお陰様で同盟が滞りなく締結されました。今日は些少ではありますが、与右衛門殿の労を労えればと思いまして……政岡あれを。」

と名前が政岡に声をかけると、控えていた政岡が近侍(傍仕えの武士の事)に命じて紫の布に包まれたものを両手に持たせると高虎の前に差し出した。

近侍の手により開かれた布の上には、1丁の細かい装飾が施された大筒(火縄銃と形は同じだが大きさは2倍ほどの火縄銃、城壁も破壊するほどの威力があり)があった。
高虎はそれを暫く眺めたあと彼女の方を見ると

「……今回の御礼と9年間にわたる我が家中での貴方への誤解に対するせめてものお詫びの証です。国友衆(鉄砲鍛冶の名手であり、その集団。本拠地は現在の滋賀県長浜市)に造らせた特注品です。与右衛門殿は鉄砲大将なれば、どうかこれを今後の戦場でお役立て下さい。」

「俺……私は気にしては……それにこれはお役目なれば……過分な褒賞を頂くのは恐れ多いこと「与右衛門殿にお持ちして頂きたいのです。」

断ろうとする高虎の言葉を遮り名前は、まっすぐに懇願するように高虎を見つめた。
もう2度と会えないのならば、せめて彼の傍に自分がいた証を……彼の役に立つ何かを残しておきたかった。未練だと浅ましいと言われても、それが彼女の切なる願いだった。その視線を受けた高虎は諦めたように目を伏せると

「それでは……有り難く頂戴いたします。」

と大筒を恭しく持ち上げた後に低頭した。
それに満足げに彼女は微笑むと

「政岡、他の者も席を外すように……今日は私が与右衛門殿をおもてなししたいのです。それに、本日は今は亡き浅井長政公の御供養も兼ねた茶席なれば……長政公を知る者同士……ふたりだけで弔いたいのです。」

政岡は何か言いたげな表情を浮かべはしたが、やがて諦めたように目を伏せて近侍を連れて茶室から退席した。流石に同盟国の名代相手に異論を述べることは得策ではないと考えたようであった。

政岡が退席すると、しばらくして名前は

「この茶室から見える景色……懐かしいとは思いませんか?」

と高虎に語りかけながら茶の準備を行った。高虎は

「ええ……近江で見る草木が多いですね。池の形が淡海の海に見えますが……淡海の海を模されているのですか?」

と答えた。彼女は高虎に茶菓子を差し出しながら

「私の母は淡海の海の近くで育ちました。僅か10歳で父の元に嫁ぐことになったそうです。嫁いだばかりの母は毎日のように“淡海の海へ、城へ帰りたい”と泣いていたそうです。そんな母を不憫に思った父が建てたのが……この茶室です。わざわざ母の故郷から築城を担当した大工を呼び寄せて茶室は母の部屋に似せて造らせ……庭の木々や草花も全て母の故郷から取り寄せ、近江の……母の故郷の城から見える景色に似せたものを造らせたのです。母はこの茶室が1番好きだと良く申しておりました。そんな父ですから、母も本当に父を慕って……共にいた時間は短いふたりでしたが、本当に仲が良くて……私も誰かとそんな風に添い遂げられればと……幼心に良く思ったものです。」

と幸せそうに、だが少し寂し気に笑った。高虎はそれに対してただ黙って聞くことしか出来なかった。彼女の両親の幸せな思い出のような事は、自分達には決して叶えることは許されない事だからだ。

「9年……無事でいらっしゃるか案じておりましたが……本当に立派な武将になられましたね。御主君にも恵まれて……後は良い縁談を受け……跡継ぎを……」

と徐々に震えてくる語尾を誤魔化すように名前は、震える手で茶釜から柄杓で湯を掬い茶碗に注ごうとした時、あやまって左手に湯を零してしまった。

「っ!……不作法を……大したことは「馬鹿野郎!跡が残ったらどうする!」


何でもないのだと茶の続きをしようとした彼女に高虎は怒鳴ると、素早く彼女の体を抱え、庭に降り彼女の左手を池に浸した。

「ご無礼を……嫁入り前の大事な御身に傷が残っては事ですから……。」

彼女の手を池に浸したことで少し落ち着きを取り戻した高虎はしまった言わんばかりの表情になったが、すぐに冷静さを取り戻し彼女に無礼を詫びた。

池に浸された彼女の手が微かに震えていたことに気付いた高虎は、彼女の顔を見ようと視線を下に落とすと、そこには目から大粒の涙が流す名前の顔があった。それを見た高虎はギョッとしながら、そんなにひどい火傷なのかと彼女の左手を再び見ようとした時、高虎の鼻先を藤の花の香が擽ったかと思うと、首に温かな感触が伝わった。

「与吉だ……やっぱり与吉だ……私の知ってる与吉だ……与吉、与吉……よきち……。」

彼女が高虎の首に腕を回して抱き付き、高虎の幼名である与吉の名を涙を流しながら呟き続けた。最初は彼女を引き離そうと腕を伸ばした高虎だが、やがて諦めたように彼女の背に自分の腕を回し抱きしめ返した。

「私……私……ずっと謝りたくて……もう許してもらえないのかとおもって……よきち……高虎はずっと他人行儀にしか話してくれないし……怒って……もう私のことなんて……どうでもいいんだと「馬鹿野郎……怒る訳ないだろうが……待たせて遅くなって悪かった……9年間……一瞬だって忘れたことなんかなかった……。」

高虎は彼女の顔を上げさせると指で涙を拭い

「長政様を失い……色んな所を流転して……時には飯を食うのも事欠く日もあった……そんな中でお前だけが俺の支えだった。そんなお前を忘れるわけがないだろうが……。」

と彼女の頬を両手で包み、自分の額と合わせた。

「綺麗になったな……それに……お前も立派になった。もう俺の手が届かないほどに……星よりも月よりも……お前は遠く高くなった。」

と言う高虎に彼女は首を振り

「そんなことはありません!重臣達が優れているからこそ……女でも何とか治めてこれただけです。いつだって自分の判断が国を滅ぼすんじゃないかと……女などについていけるかと言われるんじゃないかと……怖くて……立派などでは……。」

と高虎の着物の合わせを掴みながら彼女は彼の胸に顔を埋めた。小刻みに震える彼女の背を労わるように撫でながら、高虎は彼女をソッと抱きしめた。

9年間……自分なりに努力はしてきたが3000石取りの鉄砲大将にしかなれずにいた自分と、女でありながら領主預かりとはいえ国政を担う彼女に対して引け目を感じ、お役目を理由に他人行儀に接してきたことが、これほどまでに彼女を不安に陥れ寂しく思わせていたとは思わず、自分の腕の中で小さく震えている彼女が憐れで……けれどもとても愛おしく感じた高虎は彼女を抱き上げると茶室の中へと戻った。

左手は少し赤くなっていたが、この分であれば跡は残らないだろうと高虎は安堵し、懐から軟膏壺を取り出すと赤くなっている部分に塗り、自分の首に巻いた手ぬぐいを歯で裂き丁度良い長さに調整した後に彼女の左手に巻いた。
高虎の行動に彼女は、左手に自分の右手を大事そうに添えながら礼を言うと

「待っていても……私は高虎を待っていても良いのですよね?」

不安げにジッと彼の顔を見上げた。
まさか彼女の口から待つという言葉が出るとは思わず、その言葉が嬉しいと思う反面、今の自分の立場を考えると安易に頷くことが出来ない高虎はただ彼女を見つめ返すしかなかった。そんな高虎に彼女は、彼の着物の合わせを握りしめ彼の胸に顔を埋めながら


「私のことが……もう嫌いだと……どうでもよいというのなら……もう待ちません。けれども……高虎の口から……そう聞くまでは待ちます。何年……何十年かかろうとも……この身が滅びて……例え生まれ変わっても……貴方が迎えに来て下さるまで。」

何かを覚悟するような彼女の口調を聞いた高虎は、諦めたように溜息を吐くと彼女の頭を抱えるように抱きしめながら

「……迎えに来た時、俺は白髪頭の爺になってるかもしれないぞ。城持ち大名と言っても小国かもしれない……それでもお前はいいのか?」

「高虎が爺なら私も白髪頭の婆ですよ……私は待てます……例えそうなっても……ただ、そうなると高虎のために……貴方の子は産めないかもしれませんが……。」

そう告げる彼女を抱く手を強めると高虎は

「俺には兄も姉も妹もいる……お前が嫌でないなら、兄か姉か妹の子を養子にすれば良い。それでもいいか?お前を母にしてやれんかもしれんが。」

名前も高虎の腕を掴む手に力を込めながら

「皺だらけで美しくなくなっても……御傍に置いてくださいね。やはり婆は嫌だ……なんてなしですよ。」

と言うと高虎の胸に頬を摺り寄せた。高虎はそんな彼女を見て目を細めると、名前の顔を上げさせ

「婆になっても、皺だらけになっても……お前はきっと美しいままだ。俺の目にはそう見える。まだ待たせることになるが……待っていてくれ。」

と言い終えると高虎は、彼女の右手首をソッと持ち上げ自分の口元に当てた。

「……ん。」

と名前は手首に感じたむず痒い痛みに小さく呻く。高虎は少し我慢して欲しいというように彼女の目を見た。しばらくして、高虎は彼女の手首から口を放した。高虎の口が触れていた彼女の手首には小さな赤い痣のような斑点が浮かんでいた。
名前はそれを見た後に高虎の顔を見ると、高虎は照れたような笑みを浮かべ

「お前に約束として渡せるものが何もないからな……この赤が消える頃までに迎えに来るとは約束が出来んが……消える前に必ず文を書く。必ずだ。」

名前は涙を浮かべると、高虎の首に抱き付き

「約束ですよ。柴田殿との戦……必ず勝ってください。勝って生きて帰ってきてください。朝夕……高虎の無事を祈っております。これを私だと思って……お持ちになって。」

と言い終えると、自分の懐から懐剣を取り出し高虎に渡した。
高虎はそれを受け取ると彼女を見つめながら口を開いた。

「俺も、朝夕……お前のことを考え「名前です……私の本当の名前……名前とお呼び下さい。」

高虎の言葉を遮って自分の真名(本名)を告げる彼女に、彼は驚きの表情を隠す事が出来なかった。この時代、自分の真名を明かすのも呼べるのも、自分の主君か肉親か伴侶に限られていた。それを明かす彼女の覚悟の程をまざまざ見せられて思いがして高虎は懐剣を握る手に力が篭るのを感じた。

「これより私は……藤堂与右衛門高虎の妻。私は高虎……貴方のものです。」

目に涙を浮かべながら告げてくる彼女の頬に手を添え高虎は

「今日が……祝言か。」

と目を伏せ笑うと、彼女がたてそこなった茶碗を引き寄せた。茶碗の中身は既に湯が冷え水となり覗きこむ高虎の顔を映し出していた。

婚礼衣装も、晩酌人も、高砂も……何もない……形ばかりで何の意味もない形ばかりの……子供のままごとよりも意味のないことを、それが分かっていながら、ふたりは冷えた湯の入った茶碗を三々九度の杯に見立て、お互い順番に口をつけ飲み干した。

誰にも知られてはいけない……知られることもないふたりだけの祝言。
決して許されることがないことを分かっていながらも、それでも心がこんなに満たされているのは何故だろうかと高虎は彼女の顔を見た。
彼女はただ幸せそうに、少し頬を染めながら微笑んでいた。
愛しいひとが微笑んでいる……ただ自分に微笑んでいる、それだけでもう高虎は、もうそれだけで良いのだと目を伏せた。
世の中の理がどうであれ……世の理よりも、何よりも、自分にとって彼女が大事なのだと……それだけなのだと。


「四海波恬かにして瑞色披く。相生の松は茂りて枝を鳴さず。高砂の一曲喜び極り無し。契は固し三々九度の扈。」

高虎は己がために、名前のために謡い言祝いだ。
かつての主君・浅井長政がお市の方との祝言の席で謡ったとされる祝い謡を。
誰も知らぬ、知られてはならない自分達の祝言のせめてもの贐に……。
天下の覇権を差配する英雄にはなれなくても、傍らにいる……何もない、何者にもなれない自分を慕ってくれている名前を幸せに出来る器量だけは……せめて手にしたいと心の中で誓う。

すると、それを見透かしたように名前が

「例え天下人や大名でなくても……高虎はずっと私の英雄です。幼い頃……あやめを取ってきてくれた頃から……ずっと。」

と微笑む彼女を再び抱きしめた。

―天正10(1582)年、秋、羽柴秀吉と苗字氏の間で不戦の約定が締結。正式に同盟が結ばれる。それにより秀吉は背後からの脅威がなくなったことから、柴田勝家との対立を表面化させ全面戦争へと突入する。

―天正11(1583)年、4月、秀吉の猛攻により柴田勝家は自身の居城である北ノ庄城へと撤退を余儀なくされ、婚礼を挙げたばかりのお市の方と共に燃え落ちる城の中で自刃。戦は秀吉側の勝利となる。世にいう賤ヶ岳の戦いである。
長政とお市の方の遺児である浅井3姉妹は落城寸前で脱出。3姉妹は秀吉の保護下に置かれることになる。大坂に本拠地を移した秀吉は柴田勝家を破ったことで、織田家中での影響力や発言権は増し、信長の3男・織田信孝ですら自害に追い込む力に織田信長の遺児達は秀吉の支配下に下る他なかった。

信長亡き後、日ノ本は九州の島津、四国の長曾我部、中国の毛利、駿河・三河・遠江の3国を支配下に置く徳川、関東の北条、大坂の羽柴秀吉の5大勢力が天下の覇権を争うことになる。

豊臣政権下で順調に出世を重ねる高虎は、名前と密かに文を交わし順調に関係を育んでいた。主君・秀長のもとで、彼を支えながら彼女を守り幸せにするだけの力があれば良いと一途に思う高虎の心を踏みにじる出来事が待ち受けていることも知らず、ふたりはただ互いの無事を祈り合っていた。

この乱世の世にあって、覇者、英雄、絶対者以外は、それらの思惑に翻弄されるしかないのだと……高虎が己の考えが甘かった事を思い知ることになるまで……あとわずか。

(もし……俺が英雄だったのなら……あんなことにはならなかったのだろうか……。)


―四海波恬(しず)かにして瑞色披(ひら)く
―相生の松は茂りて枝を鳴さず
―高砂の一曲喜び極り無し
―契(ちぎり)は固し三々九度の扈(さかづき)

(天下が平和に治まり花開き、相生の松は豊かに緑生い茂るが枝は鳴らずに折れる様子もない。高砂の1曲を聴くこの日の何と喜ばしいことか、その喜びは現しようがないほどだ。将来を誓いあい、酌み交わした三々九度の杯の約束は決して破られることはないであろう。
故にあなたへの想いが変わることも尽きることもない。)


―もし君がヒーローだったら



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