目を開けると、見慣れた天井だった。隣の温もりがない。そこで意識が完全に戻り、がばっと起き上がる。隣に彼女はいなかった。僕は慌てて布団から出るが、鼻腔を擽る甘い香りで、ああ、と合点がいった。

彼女は歩くとき、ぴしっと、まるで上から糸で吊るされているかのように背筋を伸ばし、顎をぐっと引いて歩く人だった。所作は美しく、僕は度々息を呑んだ。しかしそれは外出先での話だ。玄関に入るや否や、堰を切ったようにずぼらさとだらしなさが溢れる。靴も服も脱いだら放りっぱなし、お風呂に入る時に替えの下着を持って行くことをよく忘れ、お風呂上がりにバスタオル一枚をくるっと巻いて出てくるなんてことは日常茶飯事で、僕はその度に目のやり場に困った。背骨は曲がりきり、ぐてっという効果音がよく似合う。などなど、とても手の掛かる、子供のような女の子なのだ。しかし僕は、それを悪しきことだとは全く思えず、むしろ人間の不完全さを感じさせ、とても愛おしく思えた。

そんな彼女が家で唯一きっちりとこなすことがある。それは飲み物をカフェよろしく、驚くほど丁寧に作ることだ。夏はアイスティを前夜から水出しで仕込み、冬はカフェオレやミルクティ、ココアなど(牛乳が含まれていることがとても重要なようだ)を時間をかけて作る。特にミルクティには拘りがあるようで、鍋でよくコトコト煮込んで作っていた。そしてそれらの、彼女渾身のドリンクを朝食時に僕に振る舞ってくれることに力を注いでくれた。そのために早起きすることは厭わないようだった。彼女の作ってくれるそれらはまことに美味であり、市販のものがあまり美味しく感じなくなる程だ。今朝はココアを作っているのだろう。
この彼女の習慣を以前、まだ環くんが彼女のことをよく知らないうちに(今は何度かうちに遊びに来て、彼女のことも、彼女がどういう人間かも、僕たち2人の関係も粗方知っている)話したことがあった。その時彼はこう言った。「そいつ、その労力を他のことに向けらんねえの?」と。僕は環くんを咎めることはなかった。曖昧に笑って終わらせた。しかし、僕はその言葉を自分の中で殺した。何度も何度も、言霊の痕跡が全く残らないように。きっとその言葉は、彼女を殺してしまうだろうから。

大学を卒業した彼女は始めは小さな印刷会社に勤めていた。しかし、そこは3ヶ月しないうちに辞めた。僕が辞めるように言ったからだ。その後、週に5日、本屋にアルバイトに行っていたが、それも日を追うにつれ4日、3日と減り、最終的にはそのアルバイトも辞めた。いや、僕が辞めるように言った。恐らく彼女は世間で落伍者のように扱われることだろう。そう仕向けたのは紛れもなく僕だ。彼女のことを考えたら、そうせざるを得ないと思ったのだ。
彼女は所謂温室育ちで、箱は箱でも桐箱に入れられていたような女の子だった。言い換えれば、世間知らず、ということだ。それも、夥しい程の。そんな子を世間の荒波に放り出すことが果たしてできようか。辛酸を嘗めさせる必要などあるのだろうか。僕は彼女が潰れてしまうことを考えると夜も眠れず、そのため、彼女を一番安全な、自分のすぐ側に置いておくことにした。環くんには「そーちゃんは救世主気取ってるだけ。それはあいつにとってもそーちゃんにとってもよくない。」と言われた。大和さんには「きっと彼女は跼天蹐地しているぞ。」とも言われた(一応大和さんも、彼女をほんのりと知っている)。でも僕は、なんと嘲罵されようとも愚弄されようとも構わないのだ。彼女にとって僕だけが、そして僕にとって彼女だけが、唯一の存在になれていればそれでいいのだ。
小鍋でくつくつと沸騰しないように気をつけながら煮ている彼女の後ろ姿を見、愛しいという感情が胸に焼け付くように迫った。後ろから抱きしめ、寝起き特有の嗄れた声で挨拶をする。窓から射し込む、朝の、目が潰れそうになるほどに燦然と輝く光で、彼女の美しい髪の毛はより一層美しさを増す。まるで宝石だ。彼女の頭のてっぺんから和毛、そして指の間から手足の爪の先に至るまで、何もかもを食べてしまいたくなるほどに愛を感じ、先ほどよりも強く、彼女を抱きしめた。「壮五、苦しいや」と、それでも嬉しそうに言いながら僕の手をそっと撫でる。今、僕に背を向ける形で、彼女の顔を窺うことはできないが、彼女はきっと、僕の愛情を感じて法悦にひたっているに違いない。そして彼女もきっと、僕と同じように、僕のことを食べてしまいたいほどに愛してくれているに違いない。

彼女は淹れたココアを一口啜り、「全ての輪郭がぼやけてきたの」と言った。僕は「よくわからないよ」と聞き返したが、彼女はそれ以上言うことはなかった。彼女の瞳には、射し込む朝の眩しい光が届いていない。僕は薄々感じていた。彼女は漫然と暮らしすぎて、全ての境目が曖昧になっているのだということに。彼女の生命力が幽けしいということに。僕は恐らく予期出来たはずだ。自分で言うのもなんだが、僕は思惟深い人間なのだ。予見出来たはずなのだ。僕は果たして、こうなることを望んでしまっていたのだろうか。こうなるように、彼女を懐柔してしまっていたのだろうか。それは言わずもがな、
「ねえ、壮五。聞こえてる?」
「あ、ごめん。うん、なに?」
彼女はおずおずと自身のスマートフォンを僕の方へ差し出す。
「スマホがどうかしたの?」
彼女の表情は、今、自分たちを照らしつけている天気とは程遠い、厚い灰色の雲が覆う空の彼方で轟く雷鳴が聞こえてきそうな、もう雨が降り出すぞという空のような顔をしていた。そして暫くは口を開かず、言うか言わぬか考え倦ねていたようだったが、意を決し、こう言った。
「壮五は、仕事を辞めるように言ったのも、なるべく外出しない方がいいって言ったのも、友達や家族に会わない方がいいって言ったのも、メールも電話も出ない方がいいって言ったのも、全部私のためって言ったけど、本当なの?」
僕は狼狽えた。彼女は僕のこの提案を微塵の疑いも抱かずに受け入れていたはずなのに。
メールボックスを開く。そこには登録されていないアドレスから毎日毎日メールが届いていた。アドレスにはkingpuddingという単語が含まれていた。環くんだろう。どうやって彼女のアドレスを獲得したのかは知らないが、彼の乏しい語彙力と文章力で、「今のままでは名前の健康がもっと損ねられるぞ」という旨を、画面一杯に、彼なりに精一杯伝えてきている。環くんの、顰蹙し、そして憂悶に満ちた顔が浮かび上がりそうな、それだけ気迫のある文章だった。しかし僕は二の足を踏むこともなく、淡々とメールを一通ずつ削除してゆく。僕は彼に対して、決して辟易などしたりしていない。寧ろ、それだけ彼も、彼女のことを考えてくれているのだという事実を知ることができて、喜びに満ちていた。
「はい、メールは全部削除しといたからね、もう大丈夫だよ。もし心配なら、僕がスマホ、預かっておこうか?名前ちゃんに都合のいいメールが来た時だけ見せてあげられるよ」
彼女は頷き、「じゃあ、そうして」といい、スマートフォンを僕に預けた。そして、「あのメール、環くんだよね」と、とても言いにくそうに、しかし敢えて切り出した。言下、僕は否定していた。それは、仕事と学校で忙しい合間にも彼女のことを、そして恐らく僕のことをも考えてくれている環くんの好意を、彼女に誤飲させないために、無駄にしてしまわないために、環くんの善意を殺してしまわないために。彼女は拘泥することもなく「そう」と、続けて「最近、環くん遊びに来ないけど元気なのかな」と屈託なく言った。僕は言わなかった。環くんが3日前に、恐らく彼女の様子を探ることも兼ねて、うちに遊びに来たということを、そのことが彼女の記憶からすっかり消え去ってしまっているということを。
「環くんは相変わらず元気だよ、また家に呼ぼうね」
そう言い終えた僕は、何故だか僕たちが狂おしい程憐憫に思え、ひっそりと瞼を濡らした。

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