「私とトッシーの間に生活は必要ありませんので、結構です」

そう伝えた私に、目の前の男女は怪訝そうに顔を見合わせてそれから、長い時間を遣った後に渋々という様子でやっと頷いた。幸せそうな二人が私の扱いに困っていることは、きっと火を見るよりも明らかだった。

その日は重い足取りで家路についた。初めて会った夫妻だった。あの人の顔で、全然あの人の表情をしない彼を、鈍い痛みと不思議な感覚の両方を感じながら、ただ見つめることしかできなかった。その人は私の方を一度見たきりで、それきり。煙草を蒸かし始めて奥さんに注意されちゃったりして。

『ちょっと、タバコ』
『ああ、悪い......』

いいなと思ったことをすぐに打ち消した。「本物と、その裏側には偽物しかないのかな」ぽつりと、ひとりぼっちの部屋で呟いてみる。

「ただいま」
「おかえり、トッシー」

昨日、トッシーは帰ってこなかった。私は一人分の夕食を作り、食べ終えて、冷たいベッドで朝を迎えた。朝食を済まして簡単な家事を終えた頃、彼の帰宅を知らせるチャイムが鳴った。

「......昨日、どうだった?」
「トッシーへの告白に比べれば、昨日の方が易しかった」
「ついてあげられなくてごめん......」

ソファーに座らせるようにグローブをはめた手に引かれて、労るように肩を抱かれた。温もりが心地好い。昨日はあんなに寂しかったのに、今はもう胸の中を満たしていく。

「平気。そんなことをしたら、奥さんに申し訳が立たないよ。私は一人でも......」
「そんなこと言わないで。名前氏だって、立場は同じだろ」

抱き締める男の腕に力がこもる。そうなのかな、トッシー。私は、勝てないと思ったよ。十四郎さんが嫌うのは私だけで、十四郎さんが好きなのは奥さんだけで。それなら、二人はどの隙間を縫っていけばいいんだろう?

(トッシーがいなくなったら、)

繋がりなんてもう無くなって、私はきっと撥ねられてしまう。お前はトチ狂っていた。間違いだったと言われてしまったらどうしよう。トッシーとの思い出を話せる人がいるだろうか。

また暗い顔をしていると、トッシーにキスをされた。頬のところと、目蓋の隅っこ。何度目だろう。不安になるといつも励ましてくれるこれは、最近になってとくに増えた気がする。十四郎さんの結婚が決まってからのことだ。

「拙者たちは好きなように生きていいと思うよ。せっかく、それが認められている世界なんだから」

トッシーは土方さんの別人格だ。私はトッシーに惹かれ、諸々の事情を聞いてもそれでも好きだった。長い時間をかけてやっと付き合えるようになったが、数ヵ月前に十四郎さんの結婚報告を受けた。おめでとう......という気持ちと同時に別人格である恋人とのお別れを覚悟した私に対し、トッシーは最後まで闘うつもりのようだった。

『診断書もある。名前氏、人格婚は知らない?』
『人格、婚......?』
『本当の結婚じゃないけれど、法律で許されているんだ。これなら名前氏と会っても不倫にならないし。まあ、夫婦間の合意は必要でござるが』

話を聞いて、不安なのと素直に嬉しいのとを半々に抱いたのが私だ。昔から、人の顔色ばかり伺うような女の子だ。だからこそ欲しいものをほしいと言えるトッシーの姿に憧れ、だからこそ土方夫妻のことが気になった。

「トッシー、ごめん......」

温もりがどんなに名残惜しかろうとも、抱き寄せる腕から身を捩ってやっと距離を取る。トッシーは全く予想していなかったのだろう、離れようとする私の思惑を求めるように視線を揺らしている。

「なんか怒らせた?」

きょとんとした表情で、なになにと答えを求めてくる。この人を傷つけたくないと強く思う。同時に、自分を偽り背伸びを続けることを無理だとも思う。

「......昨日、交際を許してもらうお願いなんてしなかったの。お別れしますって言ったから」

信じられないとトッシーは、やっとそういう顔をした。僕からあっちの奥さんにだってちゃんと話していたのに、とも言った。

「あの人だって十四郎さんのことが好きなんだよ。それなのにこんな話、私なら我慢できないよ。その立場だったら憎いよ。それに比べて私は、今の私なら我慢できると思ったの」
「......できるの?」
「......」
「立場は同じだろ......」

それでも、私には怖じ気付いた方が楽だったのかもしれない。トッシーの恋人になれて嬉しかった、格好悪いけれどそれだけは告げる。

「......本当にやめる?後悔しない?」
「するよ。一杯する」

長い時間ソファーの上で、二人は何も言えずに座り込んでいた。私が臆病で、そのせいでもうこれっきりなんだとトッシーも分かっていたと思う。それなのに涙を流した私の目尻に指を当ててくれていた。

「世界に二人だけならよかったね」

そんな世迷い言にトッシーは呆れたように頬を掻くと、私の前髪にかかる少し長い髪を何気ない仕草で払った。まだ恋人なんだという線引きに、このまま帰って欲しくなくなったりするから困る。

「いつか行けるでござる」
「......あんまり優しいこといわないで」
「周りから可笑しいと言われても、君となら平気だった」

私も、そうだった。

暗くなる前にとトッシーを送り出した。顔を見て、一方的に手を握って、背中を押して、さようならを交わした。部屋の窓から最後の背中を目に焼き付けている。戻ってこないように、追いかけないように、きっとそんなことはしないけれど深く祈りながら。

「......自分の選択に後悔はしても、あなたと好き同士になれたことは」

臆病者なりに頑張ったと思うんだよ。

夕暮れ空が真っ赤だ。彼の背中が見えなくなるのを待ち、そっとカーテンを閉めた。


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