犯人は銃を所持し人質30名とともに銀行に、とかそういう規模の大きい派手な立てこもり事件を起こして「おとなしく銃を捨てて投降しろ」なんてお決まりの文句をいわれてみるのも一生に一度くらいなら悪くない気がする。むしろ言われてみたい。だけど残念ながらわたしが立てこもっているのは銀行ではなくホテルのそれも小さなバスルームだし、捨てるような武器も特に持ってない。べつに人質もいないので、わたしがたったひとりでここにこもっていられるのは一向に突入することなくあくまでわたしが自発的に出てくるのを外で待つシャルナークのおかげだった。そして彼は市民の安全を守る警察ではないので「銃を捨てて出てこい」なんて正義代表みたいな台詞を吐くこともない。
バスルームを満たす湿気に閉塞感が相まって息苦しかった。本当なら一刻もはやくここを出たかったけれど、出てしまったら終わりだから、安っぽい天上にはりつく無数の水滴の下で、わたしはもうかれこれ1時間以上しわの少ない脳みその入った頭を抱えてどうしようどうしようと不毛な思考回路を働かせている。

「いいかげん出てきなよ。そこでそうしてたって何も変わらないだろ」

蜘蛛の中では温厚な部類に入るシャルもこの膠着状態が1時間も続くのにはさすがに苛立ちを抑えきれなくなったらしく、薄いドア一枚を隔てて聞こえてくる口調はチクチクととげを含みはじめていた。それも当然だ。今日は世間一般的には週末で、そんな絶好の夜に彼がひとりで過ごしていたわけもなく、4時間ほど前にかけた電話からは本人の声はもちろん、思わず耳を塞ぎたくなるような甘ったるい女のあえぎ声までよく聞こえた。つまりそのとき彼はどこかのホテルで女といたしていた最中だったわけだけど、そのおたのしみの時間を、恋人でもないのに電話一本で中断させてタクシーでも3時間はかかるこのホテルまで呼び出しておいて、当のわたしがさっきからバスルームに立てこもってしまい一向に出ようとしないのだから、シャルが気を悪くするのは至極当然のことだった。

「覚悟決めたっていうから来たのに」
「うん、ほんとにごめん。でもやっぱり無理。やだ」
「なにが」
「だってこわいし」

磨りガラスに似た見た目のドアに、ぼんやりとシャルの影が映っている。影はその場に腰を下ろしてため息をついた。

「こわくないよ。みんなやったんだから」
「…みんなができたからってわたしもうまくいくとは限らないじゃん」

システムバスのふちに腰掛けて、投げ出した素足を見つめる。使ったばかりの床はところどころに水がたまっていて、それを踏んで濡れた不快なつま先を丸めたり広げたりしながら、わたしはだんだんとシャルが愛想をつかして帰ってしまうことを期待しはじめていた。けしてみずからバスルームを出てシャルの苛立ちを解消してあげようなどとは思わなかった。

「俺のことが信用できないんだ?」

くぐもったぶん地より柔らかくなって届いたはずの声は、それなのにやけに鋭く高圧的だった。それはシャルが自尊感情なんかを傷つけられたときに出す種類の声に似ていて、一瞬彼のプライドを傷つけたのかもしれない、そうなら申し訳ないなんていう自分らしくもなくやけに思いやりに満ちた考えが頭をよぎる。なんだか知らないけど、わたしにはとうてい理解できないようなところにプライドを隠し持ってるんだよなあ昔から。…ああ、でも計算高い彼のことだから、傷ついたフリをしてわたしの心を揺さぶろうとしているような気もする。わたしが下手に出て「ごめん傷つけた?」なんて言おうものならここぞとばかりに被害者ぶってたたみかけてくるつもりなんだ。きっとそう。定位置で行儀よく背筋を伸ばしているシャワーのノズルからぽたりと水滴がこぼれ落ちた。

「そもそも信用し合う間柄でもないでしょ、わたしとシャルは」
「…あっそ」

わざとこちらも素っ気なく返せばシャルは冷えびえとしたトーンで肯定も否定もしなかった。大体予想どおりの返事だった。けれど俺は信用してると、ひとことそう言ってくれたならそれだけで何もかも忘れてバスルームから飛び出してしまえるわたしの本心は、ますます滑稽で虚しくてとても直視できない。そうなんだ。私たちの間に信用なんて一度たりとも築かれたことがない。流星街で暮らしていた頃からずっと、目的があるから手を組むだけの関係で、良く言って仲間だ。永遠に。それ以上特別になることもなければそれ以下の存在になることもない。仲間なんて言い方をすると特別な存在みたいに聞こえるかもしれないけれど、他に11人もの同列がいるんだから、けしてたいした地位ではないのだ。そうして11人のなかでシャルにとって重要な人間を順番に並べて行ったらきっと最下位に位置するだろうわたしはむしろシャルにとったら空気と同じなのかもしれない。いや、空気のほうがよほどシャルに必要とされてる。あの顔によらずたくましい胸の奥にある肺に取り込まれては吐き出されるというだけでもじゅうぶんにシャルの生命維持活動に必要とされてる。くらべてわたしはどうだろう。たとえば彼の前で死んだとして、傷つかれることもなければ悲しまれることもない。いてもいなくても同じじゃないか。…いやちがう。いることで彼をマイナスにしていたんだった。今現在彼を困らせてるのはわたしなんだものね。
自虐的な思考に沈んでいたらドアの向こうでふいにシャルがもういいよ、といった。心底うんざりしているようで、怒りさえにじんだ低い声色にぎょっとする。

「君ってほんとにめんどくさい。バスルームと結婚すれば。俺帰るから」

もう一度言うけれど彼は蜘蛛の中では温厚な部類の人間なのだ。人当たりもいいし愛想だってうわっつらだけでいえばそう悪くない。怒らせたりしなければ。その代わりひとたび怒らせると他の人間の倍は厄介だった。報復スイッチの入った彼は普段の性格をくるりと裏返したように恐ろしく、流星街にいたころ何度か彼を本気で怒らせた人間を見たけれど、そしてそれきり二度とその人に会うことはなかった。アンテナを握りしめていた彼の柔らかな笑みは見ていて寒気がしたものだ。
そんな恐ろしい男の怒りを買うことだけは断固阻止したくて、せめて謝ろうと思わずバスルームから飛び出したわたしが対面したのは、してやったりと弧を描くシャルのよく整ったくちびるだった。騙されたと気づいて身を引いても、もうおそい。一瞬のうちに腕をつかまれ、まるで根菜か何かでも引っこ抜くみたいにして脱衣所へと引っ張り込まれた。勢いを殺せないままにシャルの胸に鼻をぶつける。

「はい捕獲」
「また汚い手を使って」
「使わせたのは君だろ」
「いたた、荒っぽいなあ」
「まだ序の口だよ」

底意地が悪そうなシャルの笑みを見てハッと我にかえる。まずい。逃げないと。あわてて脱衣所のドアを目がけて身をよじったけれど、掴まれたままの腕をグイと引かれてしまうと、旅団の腕相撲大会において過去30回連続最下位を華麗に独走するわたしは当然シャルの腕力にも敵うはずがなかった。弱った。どうしよう。そうだ。かくなる上は泣き落としだ。

「お願い、見逃して!」

涙ながらに訴える。けれどシャルがわたしの(もしくは人の)涙ごときで意志をくつがえすわけがなかったのだ。冷ややかな声が降ってくる。

「命乞いならする相手がちがうよ」
「え?」

頓狂な声を上げたわたしにシャルは物分かりの悪い人間でも見るような目をして、息をついた。

「言っただろ。これは団長命令なんだ。文句があるなら団長にどうぞ」

なんなら携帯貸そうか?ん?と親切ぶる。携帯が手元にあろうとなかろうと、わたしが団長に文句を言うことなど天地がひっくり返ったってできるはずがないと知っていてなおこう言うのだからシャルは親切ぶっているだけで、親切ではない。

「〜っオニ!」
「なんとでも言えよ」

シャルはにこりともしないでわたしの腕を引くとずんずん歩き出した。

「グズグズしないではやく歩いて」
「こわ…、…お宅どちらさま?」

掴まれた手首がきしんで、見上げたシャルの横顔はひどく不機嫌そうだった。いよいよかぶっていた猫の片鱗も見えない。そりゃあ散々拒んで立てこもって駄々をこねたわたしが悪かったけど、でもシャルってこんな奴だっけ?絨毯だかなんだかホテルのフカフカした床を素足で歩きながら考える。こいつ、顔だけはかわいいのに一体いつの間にこんな怖い男になっちゃったんだろう。幼なじみは少し悲しいよ。ああでも昔から機嫌が悪くなるとこうだっけ。いつだったか、まだ流星街にいた頃、何かとてつもなく不機嫌になったシャルにアンテナをさされた記憶がある。あの時のシャルの眼は完全にイッちゃってる人のそれで、何気に一生もののトラウマだったりする。この歳になってもまだたまに夢に見る。そうか、シャルは案外前から怖い奴だったなあ。などと逡巡しているうちに処刑場ーー寝室ともいうーーに到着した。座りなよというようにベッドに向かって妙にやさしく肩を押されて背筋が寒くなった。乱暴に投げ飛ばされた方がまだましだ。怖々と腰を下ろすと、シャルは何を考えてるのかわからない目つきでじっと見下ろしている。怖い怖い怖い。だれか助けて。

「そこから動くなよ」

つぶやくとシャルは寝室のドアを閉めて鍵をかけた。冷たいロック音に、刑事ドラマでよく見るこれから尋問を受ける容疑者のような気持ちになる。それから背中を向けてガラステーブルでカチャカチャと備品をいじりだしたシャルに、わたしは今なら逃げられるかも、と淡い期待を抱いた。ここからドアまで1秒、鍵を解錠するのに2秒、…シュミレーションをしていたらおもむろにシャルがわたしを振り返って笑う。

「もう逃げないよね?」

口元は確かにゆるやかな弧を描いているけれど眼が笑ってない。驚くほど笑ってない。気がつけば脊髄反射のようにはげしく首をたてに振ってうなずいていた。そんなわたしに満足したのかシャルは薄っすらと目を細めた。あまりの寒々しさに絶句してしまう。背骨が凍りそうな思いで、微動だにできず震えていたらいよいよシャルは準備が済んだらしくわたしの前に椅子を持ってきて向かい合わせにそこに座った。目の前で揺れる金髪の下からグリーンの瞳が不安定な光を放っている。最近観た作家の男が監禁される映画の犯人の女を思い出した。あの映画、さいごには自分を監禁していた女を殺して逃げるんだよなあ。わたしにはとうてい真似できそうにないけれど。

「腕出して」

言われるままに両腕を出すと、左だけでいいよと無愛想につぶやかれる。それもそうだと右腕を引っ込める。それからわたしの左腕を取った彼はそのこわばり加減に少し驚いたらしく、ゆっくりと視線をわたしの腕から顔へと移した。

「……そんなに怖いの?」
「だからそう言ってるじゃん」

いつの間にか精神が不安定そうな雰囲気は消え失せいつものあどけなさが戻ってきている。まばたきをする瞳がやっぱり男にしてはずいぶんかわいかった。ゴミ山暮らしの頃と変わらない。そう言ったらきっと不機嫌になるだろうから黙っておこう。

「俺はうまいって言ってるじゃん」
「だから先端恐怖症なんだってば!」

わめいてシャルの手にしている注射針を指差す。それは、次の活動で行く流行り病のウイルスが蔓延する街に入るにはどうしても必要な予防接種で、団員の中でもとりわけ医療知識の豊富なシャルは全員分のそれを一手に引き受けているのだった。団員はとうにみなすませていたけれどわたしだけが唯一いやがってあの手この手で逃げ回ってここまでずるずると引き延ばして来てしまった。彼の腕はたしかなんだろうと思う。思うけれどそれは問題じゃない。怖いものは怖いのだ。

「そんなんでよく団員が務まるね」
「言っとくけど、わたしが先端恐怖症になったのはシャル、君のせいだからね」
「はあ?なんでさ」

シャルは身に覚えがないとでも言いたげに眉を寄せた。流星街のころに君にアンテナをさされて以来そうなのだと恨みがましく告げてやれば、へえなるほどと彼は単簡な相づちをもらした。まるで申し訳ないとも思っていなさそうなのが憎たらしい。この際だから腹にためてきたあれそれもぶつけてやろう。

「言わせてもらうけど、あのときのシャルはね、すごく怖かったんだよ。正常な人とは思えなかった。クスリでもキメてるんじゃないかってくらい。今でも夢に出てくる」

責めるつもりで言ったのになぜかシャルは気を良くしたような笑みをもらすのでつくづく不気味だと思った。

「アンテナって、殺したい人に刺してたじゃん、シャル。……だから嫌われたのかと思った」

このひとことを口から発するのにはずいぶん勇気がいった。アンテナを刺された日から、わたしシャルに何かしたっけと馬鹿なりに悩んでいろんな気苦労があって、そのほとんどは本人に聞けば一瞬で解決する類の杞憂と思われたけれど、もしかしたらシャルに嫌われてるのかもしれないという、なさそうでありそうなひとつの可能性が何よりも怖くて聞けずにいた。けれどシャルはふうんへえ、とつぶやくだけだった。予想をはるかに上回る反応の薄さに肩すかしをくらったような気分になり、自分がシャルに弁解を期待していたことに気がつく。嫌ってないよだとか好きだよとかそういう嘘でも安物でも陳腐でもいいからわたしを安心させる弁解を。こんな夜中にここまで3時間もかかる街から、それも女との行為の真っ最中に、わたしの電話一本で駆けつけてきたりするくせに、どうしてかいつだってシャルはわたしのほしい言葉だけはくれなかった。
アルコールで湿らせた布でわたしの腕を拭きながら、シャルはつぶやく。

「よくもここまで手間かけさせてくれたよね」

返す言葉もなく、そもそも注射という恐怖を前にそれどころじゃないわたしは沈黙を返事にした。それを特に気にした風もなくシャルはひとりで話し続けた。

「名前があんまり出てこないから、むしろ俺が嫌がられてるんだと思った。けっこう傷ついたよ?」

シャルがそんなことを考えていたなんて思ってもみなかったからわたしは少し驚いて、あわててとりつくろった。

「ちがうよ。…本当にただ注射が怖くて」
「はい、おしまい」

気がつくとすべて終わっていて、シャルは涼しい顔でうまいって言ったでしょなんてすまして笑う。全くその通りだった。あんなに怖がっていたのがいっそ馬鹿みたいだった。手をわずらわせてごめん。ありがとう。頭を下げて感謝すればシャルはまったくだよと大げさに深いため息をよこした。普段のわたしならそれを横柄だなんだと非難しただろうけれど、単純なもので、さっきまで精神異常だなんだと怖がっていたシャルを、ことが終わってみればころっとここまで付き合ってくれたやさしい奴だなどと思いはじめていた。それからふと彼がが団長に報告するために携帯を出したのを見てあれ?とわたしは首をかしげる。

「そういえばさ、最初からわたしにアンテナさせば手間かけずに終わらせられたよね。…どうしてやらなかったの?」

ふと思いついた疑問を口にすると、たいていどんな質問にも真偽のほどは不明とはいえそれらしい答えを返してくるシャルがめずらしく黙り込んだ。

「……なんていうか、学習したんだよね。流星街にいたころはアンテナさえ使えば何でも思い通りにできるって思ってたけど、そうじゃないんだって」
「思い通りにできなかったの?」
「……操作しても駄目なことはあるよ」
「…何が思い通りにならなかった?」
「ないしょ」

それからやがてお茶を濁すように唐突に、俺の下半身の面倒見てくれない?君に邪魔されたから満足してないんだよねなどとなかなかふざけたことをぬかしたのですぐさまレンタルビデオ屋へ行こうと立ち上がると、我が物顔で仰向けにベッドに寝転がりながらシャルは捨て犬のような顔になってこちらを見上げた。

「あーもうなんでそうなるかな。アダルトビデオなんていらないよ。名前としたいって言ってるのに…」
「ならもうちょっとマシな誘い方してよね。どっちにしてもやだけど」
「あーそう」

でも今日はもうここに泊まるから。一方的に宣言されて正直なところ面白くなかったけれど、そもそも呼び出したわたしに非があるので渋々受け合うと、彼は満足そうに笑って手招きしてきた。いいかげん疲れて眠気も来ていたので誘われるまま隣に横になって布団を持ち上げると慣れた動作で腕が回ってきた。

「しないからね」

念を押すように言えば、昔から思い通りにならないんだよ君はとシャルは耳元で悩ましげな息を吐いた。それはお互い様じゃないの。
160710

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