今年の梅雨はほとんど雨が降らなかった気がする。
そのせいか中途半端に残った地熱が昼でも夜でも冷めることがなかった。
このまま梅雨が明けてしまえば夏本番の暑さはどうなってしまうのだろう。
結局また連日記録更新する猛暑日ばかりであることは分かりきっているわけだけど。
要するに私が何を言いたいのかというとただでさえ暑いのに目の前にいるこの暑苦しい彼を何とかしてほしいのである。

「そろそろ気が済んだ?」

正しくは目の前ではなく私のすぐ後ろにいる。
私の肩に額をつけ、私のお腹に手をまわしがっちり掴んで離してくれない。
私の問いかけに彼が首を横に振ったことは何となく気配で分かる。
寧ろ、更に腕の力が強められてしまった。
私は短く息を吐きながら縁側から見える夜空に視線を向ける。
空にはアルタイルとベガがたくさんの星が流れる川を挟んでお互いの存在を伝えあうように美しく煌めいていた。
その二つの星から少し離れた場所にあるデネブも負けじと輝いている。
流石夏の大三角形と呼ばれるだけあって三つの星は夜空の中でも一際目立っていた。
特に星座に興味があるわけではないが、特にすることがないのでうちわで涼みながらひたすら夜空を眺め続けている。
再び訪れた静寂。
先に静寂を壊したのは黙り込んだままでいる彼からだった。

「また赤司に負けました」

彼の同級生であり私の後輩である赤司くんに彼はまた負けたらしい。
具体的に何で負けたと聞かなくても分かる。
今回は期末テストの点数で負けたのだろう。
他にも彼は赤司くんに負けっぱなしだ。
将棋も、バスケも。
そうやって何かしら負けるたびに彼が私の元へやってくるようになったのはいつからだろうか。
確か入部してほどなく彼が初めて赤司くんに負けた時からだったと思うけど。

「俺はまた負けたんです」

私の肩にぐりぐりと額を押しつけてくる彼に私は息を吐いてからそっと彼の頭の上に私の手を乗せる。
彼の姿が見えないので手探りになってしまうけど、さらりとした髪が私の手に感じたのでちゃんと撫でてあげられたと理解した。

「緑間くん、泣かないの」

「泣いてないのだよ」

間髪入れずに返ってきた彼の強がりはいつものこと。
私の肩が僅かに濡れて冷たく感じることは彼が悔し涙を流している証拠。

「俺は赤司に勝てたことがない」

悔しそうに呟いた言葉は今にも消え入りそうなくらい小さくて、彼の顔と私の耳が近くなかったらきっと聞こえなかっただろう。
彼の頭から手を退けると、彼が弾かれたように顔をあげる。
少しだけ振り向いた私の視界には瞼を赤く腫らしている彼の姿が映された。

「ほら。泣いてる」

私の指摘に彼はまだ幼さが残る顔を怪訝そうに歪めていく。
それから眼鏡のフレームを直しながら私と同じように縁側に座った。
彼が私の隣に座ったおかげでようやく彼の表情をきちんと見ることができる。
もう一度彼の頭に手を伸ばして撫でてあげた。

「苗字先輩、今日が何の日か知ってますか?」

不意に問われた内容に私はちらりと夜空を見上げる。
誰もが知っているだろう答えをすぐ返した。

「七夕でしょう?」

「今日は苗字先輩が七夕祭りに行くと聞いたんですけど、行かなくてよかったんですか?」

「聞いたって誰から?」

「桃井からです」

確かに今日は近所で開催される七夕祭りに出かける予定だった。
だけど、出かける直前に彼が私の家に押しかけてきたせいで行けなくなったのだ。
おかげでせっかくの七夕祭りなのに私は浴衣のまま家にいるはめになってしまったのである。
それを行かないのかと聞いてくる方がおかしいわけで。

「今から行けばまだ間に合うかもね」

「もう赤司は待っていないと思います」

桃井さんの情報網を駆使してそこまで調べあげているとは思わなかった。
クスクスと声に出して笑ってしまう。
彼が怪訝そうにまた表情を歪める。

「何がおかしいのだよ?」

彼の頭から手を離し、そのまま彼の頬をむにっと引っ張った。
彼の表情に不機嫌さが増す。

「私ね、赤司くんとは待ち合わせしてないよ」

「そんなバカな」

「赤司くんの誘いはとっくに断ってたの。本当はね、これから誘いに行こうと思っていたのに、まさか本人が先に来ちゃうとは」

彼の目が大きく見開かれる。
まるで信じられないと言わんばかりの表情に私はまた頬が緩んでいく。
その瞬間、彼の頬を引っ張る私の指を彼の大きな指に絡めとられてしまう。
彼は耳まで赤く染めながら表情を和らげた。

「仕方がないから一緒に行ってあげるのだよ」

「うん。そうしてちょうだい」

彼が私の手を握ったまま立ち上がり、私も彼につられて立ち上がる。
それから仲良く手を繋いだまま星空が輝く空の下を七夕祭りの会場へ向かって歩き出した。
彼の隣で私はカランコロンと下駄の音を響かせる。
遠くから聞こえる祭囃子に胸を弾ませながら、ふと、大事なことを思い出して彼に声をかけた。
私に呼ばれた彼が足を止めて私に振り向く。
私はそっと地面から踵を離して彼の耳に唇を寄せた。

「赤司くんにならとっくに勝ってるよ。だって、私は緑間くんが好きなんだもの」

「な、」

顔を真っ赤にさせながら口をパクパク動かす彼の姿に私はクスッと笑う。
彼の気持ちなら赤司くんに七夕祭りに誘われた時に全部聞かされていたのだ。
俺は苗字先輩が好きです、きっと緑間も俺と同じように苗字先輩のことを想っています。
当然、自分の想いをまさか私が知っていることを彼は想像できなかったはずだ。

「ほらほら、早く行こう?」

繋がれた手を握り返しながらそっと引っ張る。
先へと促す私に彼はされるがままの状態で再び歩き出す。
しかし少し経ってから彼の表情にはこれまでにないほど喜びを露わにさせたのだった。

「今まで生きてきた中で今日は最高の誕生日になったのだよ」

彼があまりにも嬉しそうに微笑むものだから私まで顔が熱くなってしまう。
あれ?誕生日?
思わぬ言葉が聞こえた気がして私は瞬きを繰り返す。
私の反応がこうなることを分かっていたらしい彼は満足気に笑う。
それから私の身体を長い腕でそっと抱き寄せた。
デネブがアルタイルとベガを見守るように、どうか私と彼のことも見守っていてほしい。
かわいい年下の彼の誕生日の夜、幸せに溢れたその日、私の胸の奥がキュンと鳴った気がした。

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