派手な水音がしたので、庭に続く障子を開けた。案の定、と言うべきか。人の為りをした鶴が一羽、庭の池に嵌まっている。当の本人は愉快そうにしているが、一緒に遊んでいたらしい秋田と今剣は慌てて今にも泣き出しそうだ。本当に泣きたいのは、どこにも逃げ場のない池の鯉だろうが。
「また貴方ですか…」
私は溜息を吐いた。池の底に両手を付いたまま、鶴丸は得意そうにしている。
自慢の白一色の衣装はすっかり泥で汚れていた。
「どうだ!驚いたか?」
「もう慣れました」
私のつれない反応にも、彼は相好を崩したままで、ちっとも応えていない。外で元気に走り回っているとは思えない真っ白な手をこちらに差し伸べてくる。
「手を貸してくれ」
悪戯っぽい口調。何か企んでいるときの、僅かに上がった口角。わかっているのに、その手を取らずにはいられない。濡れた手の平。握られた瞬間に震えた心。私は抵抗することなく、引かれるままに池に落ちた。とはいえ、鶴丸に抱きとめられるかたちになったので、水飛沫は大して上がらなかった。
「あ、あるじさま〜!」
「はわわ、なんてことを!」
大丈夫だよ、という意味を込めて、慌てる短刀たちを手で制す。文句の一つも言ってやろうと、未だ私の手を離さない鶴丸のほうを向き直る。すぐ近くに、色素に乏しい端整な顔があった。思わず身を引く。鶴丸は、子供染みた悪戯をした直後とは思えないほど、優しい目で私を見ていた。
「…ひどい」
「ははは、すまんすまん。だが、今度こそ驚いただろう?」
そう言って眼を輝かせる様子は千年近く前から存在する刀に宿った付喪神というよりは、夢を追い始めたばかりの若者のようだ。きっと、畏ろしいほどに無垢な魂。
「馬鹿言ってないで、立って!…濡れたままウロウロされちゃ困るから、着替えを貸してあげる、ジャージでいい?」
わざときつい口調でそう言いながら立ち上がる。鶴丸がまだ手を離してくれないので、結局引っ張り上げて立たせてやることになった。
「ジャージかぁ…どうせなら手入れ部屋を貸してくれたのでもいいんだが…」
「部外者立ち入り禁止」
空いている方の手で服の裾を絞りながら、面白くもない鶴丸の冗談を切り捨てる。どういう原理か知らないが、この本丸の手入れ部屋では彼を直してやることはできない。何度か試してみたのの、汚れも落ちなければ、怪我も治癒しなかった。彼が私の刀ではないからだろう。

姉とはかなり年が離れていたので、私より随分先に彼女は審神者になった。自分の本丸を貰った姉が羨ましく、尚且家を出てしまったのが寂しく、幼い私はよく彼女の仕事場に遊びにいった。鶴丸とは、その頃に知り合った。彼はそこそこ古参の部類だが、私は姉が彼を部隊に加えているのをみたことがなかった。言い換えれば、遊びに行けば必ず彼が出迎えてくれた。短刀たちも遊んでくれたけれど、私に構う太刀は鶴丸だけだったので、私にとって彼は容易に特別な刀になった。そうこうしている内に私も年頃になり、自分の本丸を持った。今度は鶴丸の方が遊びに来るようになった。最初は妹を心配した姉の主命で。最近では、自発的に。
「それにしても、君の本丸にはいつ来ても俺がいないなぁ」
宣言どおり、たたんであった黒いジャージを貸してやったら、鶴丸にはサイズが合わなかったらしく、袖やら胸やらが余って、幼げな印象になっている。なるほど、うちに鶴丸がいれば内番衣装くらい借りることができただろうに。
「そうだね、早く来てくれるといいんだけど…」
彼ではない彼を、まだ見ぬ私の鶴丸国永を、思い描こうとしたが、上手くいかなかった。私は本当にそんな刀を欲しているのだろうか。
「きっと驚くぜ」
ニヤニヤしながら、言った。私のものではない刀。彼はせっかく現れたのにあまり驚いて貰えず、それどころか既知のものとして扱われるショックという、嫌がらせのようなサプライズで新しい鶴丸をもてなそうとしているのだ。
「鶴丸、好きよ」
口をついて出たのは、少女の頃から繰り返された事実確認。幾度となく伝えてきたので、今更驚きがあるはずもない。それでも言葉にしてみたのは、昔々に聴き飽きた歌をふいに口ずさんでみたようなものだ。
「おう、早いとこ手に入るといいな」
案の定、鶴丸は頷いただけだった。

刀帳の空白を、私は愛している。鶴丸は、あれで真面目なタチなので、私がこの頁を埋めてしまえば、新しい鶴丸に遠慮して、顔を出さなくなることくらい簡単に想像がつくからだ。私には貴方がいい。貴方が欲しい。幾度となく繰り返される戯言の、その真意を、彼は巧みにすり替えてしまう。刀帳の空白を私が埋めたがっていることにして。恋慕なんて無いふり。恋心は見ないふり。そのほうが都合がいいこともまた、事実である。鶴丸は神様。八百万神の、そのたった一振り。
審神者としての私がどんなに未熟だろうとも、真面目に日々の営みをこなしていけば自然と刀は集まってくる。鶴丸の話を聞く限り、優秀な姉は私の収集の遅さをとても心配しているようだが、それには及ばない。選べるのは最初の一振りだけ。それ以外の刀は好む好まざるに関わらず私の許にやってくる。きっと一番いいタイミングで。だから、私はそのシルエットを見た時に、潮時なのだと思った。もうこれ以上は無いのだと。その思想からは主語が綺麗に抜け落ちていたけれど。
「よっ、鶴丸国永だ」
同じ声でも口調と込められる感情によってこうも変わるものかと、どこか感心するような心持ちになる。相手はよく知る鶴丸の姿をしているにも関わらず、私のことを微塵も知らないのだ。爛々と輝く双眸が惜しげもなく告げる、はじめまして。
「俺みたいなのが突然来て驚いたか?」
あまり好意的とは言い難いだろう主の態度をどのように解釈したのか、彼は不思議そうに首を傾げた。その口許に鶴丸らしい不敵な微笑が浮かんだことに気付いて、私はほんの少しだけ気が楽になる。よかった、これだって鶴丸国永だ。
「主さーん、鶴さん来たよー…って、あれ?」
バタバタと何人かが廊下を駆けてくる音がした。先陣をきって鍛刀部屋を開けたのは鯰尾である。彼は素直に驚いた反応をしているようだが、私は振り返れないでいた。じわじわと目の前に在る鶴丸の表情が変わっていく。
「こりゃ驚いた…」
その科白は後ろから、後頭部に叩きつけられたような気がした。言い方自体は、随分と優しかったけれど。
「おめでとう、ずっと欲しかった俺じゃないか!」
違う、と思った。何度も繰り返し口の端にのぼせてきたけれど。私が欲しかったのは貴方なのだ。

新しく第一部隊に加わった鶴丸は、すぐにうちの本丸に馴染んだ。姉の刀と違い、彼は大仰な道具を持ち込んで人を驚かせたり、落とし穴を拵えたりしない。鶴丸らしい行動をとることがあっても、せいぜいぼうっとしている短刀に後ろからワッと声をかける程度だ。それも、主の私にはしない。うちの鶴丸は大人ですね〜と、しみじみと今剣が呟いていたのも頷ける。落ち着きがある、とでもいおうか。存外実戦向きらしく、一番の新参者にも関わらず戦場では頼りにされているようだ。ずっと私を見守っていてくれた彼は、出陣経験すらろくなかったというのに。
「そう邪険にしないでくれよ、寂しいじゃないか」
宴会が出来るくらいの大きな和室を普段から刀たちの憩いの場として開放している。必要とあらば軍議もここで行う。誰もいないのに電気が点いているようだったので、消さなければと中を覗きこんだら、鶴丸がいた。隅の方に寝転んで、本を読んでいたらしい。鶴丸が、読書なんて。少なからず衝撃を受けて立ち去ろうとした私を彼は呼び止めた。軽い口調だったが、初対面の時以来ろくに関わりが無かったことを思えば、大層勇気が必要だったに違いない。
「邪魔になるかと思って…」
言い訳をしながらも入室するべきか迷っていた私の手を、いつの間にやら体を起こしていた鶴丸が引いた。座れ、ということらしい。その手は子供の頃から幾度となく私に触れてきた優しい手と寸分違わず同じだった。知っている大きさ。覚えているぬくもり。それなのに、強張って震えていた。彼は初めて私に触れたのだ。
「…本丸にはもう慣れた?」
拒むのもおかしい気がして、私は鶴丸のとなりに腰をおろした。彼が安堵しているのが伝わってきて、どこか居た堪れない気分になる。私のよく知る鶴丸からは私に対する遠慮や躊躇が抜け落ちていたので、こちらに気を遣う鶴丸、というのがなんだか不気味なのだ。
「ああ、気のいい奴等ばかりだしな。…やたらもう一振りの鶴丸さんの話をされるのには驚いたが、もう慣れたさ」
鶴丸は事も無げに言ったが、私は本丸中に箝口令を布かなかったことを心の底から後悔した。
「あーあ、『鶴丸、好きよ』なんて。俺も一度は言われてみたいもんだぜ」
そこまで耳に入っていたのかと思うと居たたまれない。ただの事実だったから、伝えている最中は照れも恥じらいもなかったのだが。
「なぁ、俺は君の刀だ…ゆっくりでいいからその意味を少し考えてみてくれないか?」
俺を見てくれと言われた気がした。切なげに揺れるその両の眼に踊った熱は、むしろ私に似ている。神様というより人間のようだ。欲しいものが手の届きそうな距離にあると錯覚した時にだけ、人はそんな表情をする。

いつの間にか、吐く息が白くなる季節がやって来ていた。冬の訪れは、私にいつも鶴丸を連想させる。ただし木枯らしに例えるには、箒を手にして微笑む鶴丸は優し過ぎた。そこにはまじり気のない親しみだけがある。
「久しぶりだな。君の方から此方に来るなんて…」
私が自分の鶴丸を手に入れてしまえば、姉の鶴丸はうちの本丸に来なくなるだろうという私の予感は的中した。彼に逢うために、私は以前のように姉の本丸を訪ねる必要があった。立派な門構えは古びてはいたが変わっていなかったし、留守を守る鶴丸の姿も相変わらずだった。それだけのことで、私の心は少女の時分に戻ってしまう。自分が審神者になるなんて考えたこともなくて、ただ鶴丸に憧れていた頃に。
「鶴丸、好きよ」
これが最後になるだろう、と思った。その思考からは、やはり主語が抜け落ちていたけれど。
「まいったな…」
私の気持ちは此処に辿り着いてはじめて真実の意味で鶴丸に伝わったのだろう。今までのようにいなされることはなく、その代わりに絶句されてしまった。私たちの間を風が吹き抜け、沈黙を伴って積み重なっていく。もう語るべき言葉が無いことは明白なのに、私たちは動けずにいた。共に立ち尽くしてくれる鶴丸が好き。彼は私の刀ではない。だからこそ愛しく思う。飛び立つ前の一瞬の静寂みたいに。きっともう二度とこの気持ちには戻れない。


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