美しいものを目にした時、息や鼓動が、生きる全ての時間が止まってしまうかのような、一瞬の静寂が訪れる。
 それは、朝焼けに見つけた輝く星と月の儚さや、瓦礫の傍に埋もれることのなく凛と咲き誇っていた一輪の花であったり、陽射しに照らし出された荘厳なステンドグラスのような、神々しさすら纏った光景にも等しく、目に焼き付き記憶に刻みこまれて、いつまでも忘れない永遠の瞬間となる。
 柔らかな粉雪の舞い散る空の下、我が子のように泣いた少年を抱え上げた彼は、全く同じ哀しみとそれ以上の苦悩を表情に浮かべながら、しっかりと少年を抱きしめる。瞬きをひとつした瞳には、果てのない慈しみと、澄み切った冀望の光が宿る。その強い眼差しに、心を奪われていた。
 ゆるやかに動き始めていくその瞬間は徐々に元の速さへと戻っていき、街中を行き交う人々の雑踏や雪にはしゃいだ子供達の声に周囲を取り囲まれていた。舞い散る雪の速さすら目まぐるしい現実に引き戻そうとしてくるが、未だ立ち竦んでしまって動けない体は、感動に打ち震えているからに他ならない。
 これを運命的な出逢いだとか、一目惚れと形容するならば、私は今までにどれだけ彼に心惹かれ、何度恋をしたことになるのだろうか。
 そんな余計なことを考えているうちに、ふと彼の顔が上げられ、目が見開かれる。
 しまったと今になって焦ったところで、踵を返すにはもう遅かった。
「名前!」
 声が聞こえずとも唇は言葉を形作り、ぱっと表情を明るくしていた彼は、気付けば長い脚で真っ直ぐにこちらへと向かって来る。人混みに紛れればまだ逃げれるかと近くの路地をちらりと確認した時、すぐそこで上がっていた少年の短い悲鳴。
 濡れた石畳に足を滑らし、今まさに背中から転けようとしていた男に、躊躇なく手を伸ばしていた。
 これがあるから、もしも手を伸ばしていなければ、逃げる時間は稼げた。けれどこれのせいで、病人の少年が怪我でもしてしまう方が事だ。
「やっぱり名前じゃねェか!久しぶりだなァ、こんな所で会うなんて……」
 シャツの胸元を掴まれて宙吊りのような体勢のままあっけらかんと話をしだそうとする男に、少年も彼の腕から地面へと逃れていたので、唯一の支えとなっていた手を遠慮なく離した。うおっと言う低い悲鳴と共に尻餅をついた男は、相変わらず。
「久しぶり、コラソン」
 語気も激しくその名を強調して呼べば、彼はドジったとばかりに息を呑む。
 誰だと言いたげな目でじいっと人の顔を見てくる少年には曖昧な笑顔を返しておきながら、とりあえず地面に座ったままの、ドンキホーテファミリー幹部コラソン及び海軍本部ロシナンテ中佐に、手を差し出した。



「こんな所まで、何しに来たんだ」
 指を鳴らした途端、堰を切ったように声をあげて目の前に立ち塞がり見下ろしてきた彼は、一向に落ち着きのない様子だった。
 思いの外大きく耳に届いた声に、向こうのベッドで先に眠った少年を男の体越しに確認するが、既に防音壁は張られていたようで特に反応はない。
 安堵とは違う溜息を吐き出した。その音も薄暗い部屋には響かずにあるところで吸収されると、まるで見えない箱の中にでも閉じ込められたかのようだった。今でならたとえどんな罵り合いや、取っ組み合いをしたとしても、一切少年に気付かれることなくやり合えることだろう。
「そんなに警戒しなくても、ただ、初雪の中で病気の少年連れの野宿は見過ごせなかっただけ」
 痛い所を突いたらしい事実に顔を顰めた彼は、さっきまでの威勢はどこへやってしまったのか、すごすごと隣に座った。
 そう広くはないソファーのスプリングが大きく軋む。彼の羽のような黒いコートの袖が膝の上に掛かったので、それとなく除けた。
 宿の室内に備え付けられた小さな暖房ひとつでは、自分達の座る窓際のソファーのある所まで暖まりきらずいたので、圧迫感よりも隙間の埋まった温かみになる。
「……何から何まで面倒見て貰っちまって、悪ィな」
 後ろ髪を引っ掻きながらどこか歯切れの悪い謝罪をした彼は、ようやく親鳥のように頑ななまでの警戒心を緩めてくれたようだった。
 あの感動的再会の口上から一転、敢えてコラソンと呼んだ以降、ロシナンテは下手なことを言うまいというつもりだったのか、急にほとんど言葉を発しないようにと努めだした。もしかしたら自身の能力を使っていたのかもしれないが、それにしても、表情が不安げだったり、少年が私に対して何者かと尋ねたりした際には何かを訴えるようにしてぶんぶんと首を横に振り、常に視線を少年と私の間で往復させたりと、黙っているとは思えないほどに忙しなかった。
 お陰で何も話さないロシナンテの代わりに、夕食を食べながらあれこれと大人顔負けに質問をぶつけてくる少年に適当なことを答えはしたものの、利巧な少年にはほとんどが見透かされていたことだろう。なにせ、昔の女かという質問を少年がした時、ロシナンテは水を吹き出して、そうだと私が肯定した直後には、グラスを倒してテーブルの上に水溜りを作るという所業を重ねていた。適当な嘘に動揺するのにも程がある。顔を伏せたままごめんと書かれたメモ紙を見せられた時にはテーブルの下の足を蹴っ飛ばしてやろうかとも思ったのだが、それより早く少年が「口で言えるだろ!」と睨んだので、この件についてはもう追及はしないつもりだ。
 自前に情報収集はしていたが、ふたりのそういう様子からして、想像よりも元気そうだった白い町の少年とロシナンテ中佐は、なかなかに良い関係を築きあげているようだった。彼らを探して幾つかの島の病院をまわった時は、あんたも海兵ならさっさと化け物を捕まえてくれ!と、医者とは思えぬ台詞を聞かされた。堪え難い道ではあっただろうが、少年はけしてひとりではない。
 それにひきかえ自分は、何から何まで面倒見てと言われても、たかだか夕食と宿の代金を代わりに支払っただけだ。任務も放って不治の病の少年を連れて病院を巡っているのとは、比較にもならない。
 だからなにも、疚しいことが無いのならば堂々としていれば良いのに、彼はまだ何かを気にしている様子だった。
 それは少年に関する事とは別のようで、切り出すタイミングを見計らうように何度か視線を此方に寄越されるが、沈黙が続く。どう言葉をかけてくるか、このまま待っているのも悪くはなかったが、もう夜更けだった。
「ロシナンテ」
 再会をしてから初めて彼の名前を呼べば、彼は僅かに肩を跳ねさせ、長い前髪の下からじっと見つめてくる。
「まずは、元気そうで良かった」
 素直な思いのままに微笑めば、ロシナンテはその目を見開く。そして顔を反らして隠すようにして、額に手を当てた。
 押し込めたような無言の後に、浅い吐息の音がすぐそこで響く。
「やっぱり、お前には敵わねェな」
 そう言って笑った口紅の下で、彼の頬は微かに震えているようだった。


 仲の良かった海軍学校の同期であるロシナンテは、何も告げずに遠くの海へとひとり、命懸けの潜入捜査へと身を投じていた。それをどこかの支部へと移動になったと聞かされていた自分は、生きていればそのうちまた会えるだろうと、数年の間どれだけ安穏とした生活を送っていたのかを思い知らさせる。
 ぽつりぽつりと語られていく長い空白の期間の物語は、海兵にとってどれだけ過酷で堪え難い環境だったか、詰まらせた言葉の合間にその嘆きが聞こえてくるようだった。
 だが、無言を貫き数年もの間堪えてきたのは、ひとえに任務の為だったはずだ。それを今は中断し、あまつさえ敵味方に疑われるような行動を取り続けているのは、無謀でしかないというのに。
「ローのことは、裏切りたくねェんだ」
 いっそ少年と一緒に海軍本部に戻ってみてはどうかと提案すれば、強い意志と共にそう返された。フレバンスの生き残りである少年が政府を憎むのも当然だが、まだ確証はないとはいえ、政府や海軍の力を借りればより広く解決の糸口が見つかる可能性は上がるのにも拘らずだ。
 任務のついでにとある男の様子を見てきて欲しいとセンゴク大将に頼まれた時、どちらが本命かは確かめずとも分かった。だから予定より日数がかかっても、噂と情報だけが頼りの当てのない旅路だとしても、ふたりを探したのだ。
 無事に見つけて元気な様子を確認したので、本来の任務はそこで終わり。様子を探れとか、捕まえて連れて来いとの命令は一切受けていないので、今はただの、島での滞在の延長線上に過ぎない。言い付けられたこと以上に動きたくない性分になってしまったのは最近世話になった上司のせいなのかもしれないが、元から余計なことにまで首を突っ込む方ではない。
 けれど、何もかも気にせずにいられる程、冷めきった関係でもないはずだ。
「これからは、どうするつもり?」
「また次の島に行って、病院を巡る。有難いことに、まだ島と病院なら星の数ほどあるからな」
「それからは」
「それは……、その時になったら、また考える」
 曖昧に微笑みすら浮かべでいたその横顔は、真っ直ぐに眠る少年の方へと向けられていた。
 任務を離れて病院を探し、幾度と無く化け物扱いを受け追い返されながら数ヶ月が経った今でも、彼の意志は弛まずに堅かった。数年の間、海賊の中で気付かれずに生活してきたとは思えない程に、その精神は穢れのひとつもなく崇高で気高いまま。積み上げてきた任務と少年ひとりの命を天秤に掛けている何も知らない私には到底、足元にも及びはしないことだろう。
 それでもせめて、金が無ければ海賊然として奪うことも、払わずに逃げることも、暴力に訴えることすらできる。それを率先的にしようとはしない彼よりは、それらを躊躇わない自分の方がずっと海賊役にも潜入任務にも向いていたのかもしれない。彼は、優しすぎる。
 もしも彼の立場が自分だったならばどうしていたか、そんな無意味な考えをしかけて、止めた。彼が少年に向けていた眼差しは温かい。またそれを無意識に見つめ続けていた自分自身に、気が付いてしまった。
 時にこの身体は、自分でも気付かぬ程に正直だ。息を吸うように、うつくしいものに見惚れる。伝わりさえしないのに、心や言葉よりもずっと冗舌で、素直過ぎるのがいやになる。彼に知られる前に、逸らすようにして瞼を伏せた。
 利他的で自己犠牲すら厭わない真っ直ぐなばかりの正義の前に、これ以上浅ましい自分から掛けれる言葉など、もうありはしなかった。
 ふと、黒い羽が手の甲をくすぐった。ポケットを漁っていたロシナンテは、見つけたらしい煙草を一本取り出す。それを咥えて同じ場所からライターを取り出す前に、彼の口先から摘むようにして煙草を奪った。今時分になってまたボヤ騒ぎは御免だ。
「あっ、おい……」非難がましいのは寄せた眉だけで、それ以上は何も言わない。
 構わずに自分の口に咥えて、立ち上がり様に彼のポケットからライターも勝手に拝借しておく。軽く窓を開けてから、ライターで火をつけた。外にはまだ淡い雪が舞っていて、明日の朝には辺り一面を真白く覆い尽くすだろうか。吐いた息は煙以上に白く、煙よりもあっという間に粉雪の合間に溶けて消えていった。
 ソファーに座ったままのロシナンテに振り返り、こっちに来てと手招く。彼は素直にすぐ来てくれて、軽く体を屈める。立って話をするときは声を聞きやすいようにといつもしてくれていたその仕草は、以前と何も変わりない。
 一口だけ吸った煙草を彼に返して、場所を空けた。
「話の続きは、また明日にでも」
 寝るのならベッドにと勧められたが、黙ってソファーに足を投げ出し横たわった。脱いだ上着を毛布がわりにしてうずくまる。シングルサイズのベッドでも彼には狭いだろうけれど、このソファーよりはずっとましなはずだろう。それとも彼は忍びないと思って心を痛めるだろうか? 最善も正義も悪さえも、人の心のように、目に見えないものは曖昧だ。
「おやすみ」
 彼の返してくれた返事は、風に踊る煙のように微かに微笑んでいてくれたような気がした。



 夜明け前の空は暗く、凍えるような冷気が室内にまで忍び込む。時折していた窓を叩くような風の音もせず、降っていた雪もやんだのだろうか。
 目を閉じたまま、眠っている時のリズムを意識して、静かに呼吸を続けていた。
 明日になったら、今度は三人で、温かい朝食でもとりながら話をしようと考えていた。天気だとか、好きな食べ物とか、そんな他愛のない話でもしながら。どこにでもいる普通の生活を送っている人々と同じように、ありふれた日常のなかで、彼らのことをもう少しだけ知りたかった。ただの、ひとりの友人として。
 それから、大したことではないけれど、同期にまだ言っておきたいことも幾つかあった。階級を昇進したことや、今度ノースブルーの支部に移動の話が来そうだとか、君の似合わない派手な化粧や格好についてとか、そんな軽微なことばかりだけれど。
 ひっそりと、音もなく開けられたドアからは冷えた空気が流れて、素肌をなぞる。暗がりを写したままの瞼の下で、私は息も密かに微睡んだままでいる。
 足音も、衣擦れの音も、鼓動の音すらもさせずに近付いてきた気配は、遠慮がちにその手を伸ばしてきた。指先だけで、ゆっくりと髪を撫でられる。慎重に寄せられた吐息が、音無く耳をくすぐった。声はしない。言葉も聴こえない。
 もしも、見聞色の覇気に熟達していたのならば、彼の心の一端でも識れたのだろうか。頬に触れた柔らかなその、ほんの少しの温もりの真実の意味を、黙って行く彼への哀しみや虚しさよりも、もう少しだけ素直に受け取ることができたのだろうか。
 まだ時刻は真夜中。室内は物言わぬ静寂に満たされる。船出の頃にはどうか、風に吹かれた雲の隙間からでも朝陽が暖かく照らしだしてくれれば良い。
 朝陽が瞼の裏を照らし、ようやくこの塞いだ目を開けて、鏡の中に頬についたドジな彼の仕業を見つけるまではこのまま。ひとり肌寒いこの部屋の片隅で、私はあの眼差しを思いながら、ふたりの旅の行方がどうか残酷なばかりではないことを、夢にみていた。
 いつかの日の夜、怯者な自身を堅く呪いながら、深い後悔の海に沈みゆくこともまだ、露と知らずに。

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