世界なんか君にあげる
ふわりと舞い落ちる雪を見るたびに私の心が弾んでいた。だけど、せっかくの雪も今は嬉しくない。すっかりと冷え込んだ外気のせいでフロントガラスが曇りはじめている。それでも私は見えない先にある雪を眺めることをやめなかった。

「あのさ、」

彼が何かを言いかけるが口を噤む。車内では再び沈黙が続く。今度は私が言いかけるがそれ以上言葉が出てこなかった。だって、何をどう言えばいいのか分からない。彼に視線を向けると彼も私の顔を見つめていた。息を飲む。お互いに考えていることなどとっくに分かっていた。私達は明日、結婚する。


この会社に中途採用で入社したのはいつのことだったか。自宅から近いところに就職できたらいいなと軽い気持ちで面接したら受かったのでそのまま成り行きでここにいる。それから少し経ってから同い年の彼の存在を知った。ある日のお昼休みに私が休憩室で本を読んでいた時のことだ。あとから入ってきた人物が私から少し離れた席に座り昼食を食べ始める。彼は片手でハンバーガーを食べながら器用に本のページを開く。ブックカバーをかけていない本の表紙のせいで私はそのタイトルに気づいてしまった。

「それ、私も読んでいるところなんです」

普段は初対面の人に対して自分から声をかけることはない。だけど、当時彼に声をかけることができたのは周りから私と同い年の彼のことを大雑把に聞かされていたからだと思う。私に声をかけられた彼は本と私の手の中にある本を見比べて僅かに眉を寄せてしまう。彼の反応に私はブックカバーを外して本の表紙を彼に見えるようにした。

「その作者、わりと好きなんだよねー。あんたも?」

「はい。私も好きでほとんどの本を読みました」

彼は残りのハンバーガーを口の中に放り込むとくしゃっと丸めた紙屑をゴミ箱に投げ入れる。ナイスシュートと心の中で言ってあげた。彼は読んでいた本を閉じて改めて私に向き直る。テーブルの上に頬杖をつきながら再び口を開いた。

「それじゃあ、探偵ガリレオシリーズも読んだ?」

「勿論読みましたよ」

「加賀刑事のシリーズも?」

「あれはどのお話を読んでも感動します」

彼が満足気に表情を緩ませる。どうやら私の回答に彼は気を良くしたらしい。他にも本の作者の作品について質問を受けたり返したりしているとあっというまに時間が過ぎてしまい、気がつけばお昼休みがもう少しで終わる時間になっていた。

「長々話込んでしまいすみません。私、先に戻りますね」

初めて話したくせに本についてたくさん話してしまったので馴れ馴れしいと思われたかもと少し後悔しながら休憩室を後にしようとする私に彼がまた声をかけてくる。私が振り向くのと同時に彼は早口に続きを述べた。

「それ、やめてくれない?」

私は何が原因で彼の気を悪くさせてしまったのか頭の中で瞬時に考える。不安が表情にだだ漏れになっているせいで彼は僅かに溜息を吐く。

「あんたでしょう?新しく入社した俺と同い年の人ってさ」

ぎこちなく首を縦に振る私に彼がめんどくさそうに顔をしかめながら首の後ろをかいてしまう。さらさらした長い髪が乱れていくのでそれが尚更彼の苛立ちを示していた。

「敬語とかやめて。そういうの、鬱陶しいし。それより早く戻らないとうるせえクソジジイに嫌味言われるから、さっさと行くよ」

彼は私を急かしながら自分のデスクのある部署に向かって歩く。ちなみに、彼の言うクソジジイとは部長のことだろうか。

「これからよろしくお願いします、紫原くん」

思わず頬を緩ませていると案の定彼に不審なものを見る目を向けられてしまった。だけど、よろしくとボソッと返ってきたので私は余計に嬉しくなってしまったのである。まるで、新しく友達ができたような気がして。


本を読む時間が少なくなった。今迄休憩時間になると本を開いて過ごすのが日課になっていたが、あれからのお昼休みは彼と一緒に話すようになったので読書の時間が減ってしまったということである。ついでに仕事で分からないところも彼に気軽に聞ける時間でもあるのでお昼休みを重宝していた。そんなこんなで私と彼は必然とどんどん仲を深めている。自惚れかもしれないが、彼の同期に比べると私の方が親しくなっているほどに。

「あ、苗字さん見っけ。これもよろしくー」

会議の資料を運んでいるとその上にドサドサと別の資料を置かれ、そのせいで腕がみしみしと変な音を立てて痛む。私は頬を膨らませながら彼のことを睨みつけた。

「酷いよ、もう。ちゃんと自分で持って行って」

「俺、ペンより重いの持てないんだよねー」

「嘘ばっかり」

ふらふらと足取りが覚束ない私を放置し彼がどんどん先に向かって歩いていく。他人より遥かに背の高いシルエットが憎くてたまらない。それでも私は彼の背中を必死に追いかけながら彼に小言をぶつけるが結局彼にのらりくらりとかわされて終わり。悔しいので思わず膝かっくんをお見舞いしてあげると彼は前のめりにバランスを崩してしまう。転ぶことはなかったが、それでも今度は彼が腹を立てる。

「やったなー、もう」

怒った彼は私が両手を塞いでいることをいいことに大きな手で私の髪をくしゃくしゃにしてしまう。私が悲鳴をあげるが彼はお構いなし。二人してきゃんきゃん騒いでいると従業員達が揃って私達を見ては微笑ましそうにしてその場を去っていく。酷い。誰か助けてくれてもいいのに。ちなみに、私達の争いを止めたのは頭の天辺がだいぶ寂しくなっているクソジジイこと部長のバッカモーンという怒鳴り声だったのでした。


月日が経つに連れて彼とは友達以上に家族のような関係になりつつある。いや、寧ろなっていると思う。しかし、私達にはお互いに絶対に触れない話題があった。それは私も彼もそれぞれ婚約者がいること。別にお互いに隠しているわけではないのだが、なんとなく触れて欲しくない。それに、私達が口を開かなくても職場にいるおしゃべり好きが勝手に情報を流しているので嫌でも耳に入ってくる。

「人間ってさ、どうして他人のことに干渉したくなるんだろうねー」

いつだったか彼がそんなことを溢したことがあった。それについて私も同感だったので肯定した記憶がある。彼には同棲してから長く共にする恋人がいるし、私も恋人と共に恋人の実家に住んでいた。彼も私も結婚式の日取りが決まっている。だからこそ、この心地良い関係が続けられるのも残り僅かと言ってもいい。

「仕方ないよ。いつの時代も噂好きがいるものさ」

「それもそうだねー。だけど、勝手に人の話を広めて歩くのって悪趣味だし」

それっきり彼とはそういう話をしていない。お互いの共通する趣味の話だけに会話をとどめておくことにしているのは暗黙の了解というやつだと思う。時折彼も私も恋人同士のようにじゃれついてしまうのはそこには恋愛感情がないからと自分に言い聞かせていた。どうしようもなく泣きたくなる衝動に駆られるのは何故だろうか。


職場の同僚が彼の結婚式に向けてお祝いの準備を始めていた。寄せ書きを集めた色紙と記念品を彼に渡すらしい。ちなみに小耳に挟んでしまったが、どうやら私の結婚式に向けて同様のことが進められているようだ。一方私と彼はそれには触れずいつも通りの生活を送り続けている。そして、気がつけばタイムリミットが目前に迫っていた。

「来週忘年会やるから、予定あけておくんだぞ」

部長にそう言われた冬のある日のことだった。街はすっかり雪化粧しており、歩く人々も皆寒さに震えている。それは彼もまた同じだった。

「ところで君達、さっきから何しているんだ?」

部長の疑問に私も彼も白い息を吐きながら部長の顔を見つめる。一度作業する手を止めてからどちらからともなく返答した。

「何って、雪だるまを作っているんですけど」

会社の玄関先にカーネルサンダースと同じ大きさの雪像が何体も置いてある光景は異常にしか見えないだろう。ところが、雪だるまを作るのは意外と楽しいのでやめられない。ちなみにこの雪だるまの大群なのだが、取引先が我が社にやってくる時の目印にもなっているためわりと受けがよかったりする。

「いや、まぁ、別に構わないのだが」

何か言いたそうにしながらも部長は会社の中へ戻っていく。別に咎められる必要がない。何故なら今はお昼休みの時間だから問題はないのだ。

「苗字さんって、本当に楽しそうに雪だるまを作るよねー。俺には理解できないし」

「そう言うわりには紫原くんも夢中になって雪だるまを作っていると思うけどね」

「別に夢中になってねーし。だいたい苗字さんが作る雪だるまが下手くそだから手伝ってやってるんじゃん」

むっとしながら頬を膨らませてしまう彼に私は声をあげて笑ってしまう。年甲斐もないその態度に内心呆れた。もっとも、年甲斐もなく雪だるまを先に作り始めたのは私の方だけど。

「雪だるま作りに下手とか関係あるのかしら」

「あるに決まってるじゃん」

私は自分の手から手袋を外して彼の手を握る。それから彼の手からもそっと手袋を外して今度は直接彼の手を握った。お互いの体温を感じて心地良い。

「手、冷たくなっちゃったね」

「誰かさんのせいでね」

彼の手が私の手の中からするりと逃げていく。代わりに私の首に彼のマフラーがぐるぐると巻かれていった。

「風邪でもひかれたら困るからこれでも使ってなよ」

無言で頷いてから私は彼から視線を逸らす。マフラーの温もりが目頭までも熱くしていくので、これ以上彼と視線をあわせることができなくなった。


忘年会とついでに私と彼の結婚祝いもしてくれた。結婚後も彼は当然会社に居続けるし、私も妊娠するまでこの会社で働くつもりだ。これからも何も変わらない。だけど、心の何処かで何かが変わるような気がした。お酒がだいぶ進んだところでお開きとなったので私は早々にお店を後にする。しかし、外に出たらすぐに彼に呼び止められた。

「悪いけど、駅まで送ってくれなーい?」

ほろ酔い気味の彼からそう言われて私は一つ返事で了承した。忘年会では現地集合現地解散だったのでお酒を飲まない私は愛車でお店に来ていたのである。ちなみに、彼はお酒を飲むので電車とバスを乗り継いでお店まで来たようだ。彼を助手席に乗せて車を発進させる。お互いに無言のまま駅を目指した。そう時間もかからず駅のロータリーに到着し、邪魔にならないところに車を停止させる。それでも彼はすぐに車から降りようとしなかった。ちらりと彼に視線を向けると彼と目があう。さよなら、その一言が言いたいのに私の心がそれを拒んでいた。

「電車の時間、逃しちゃうよ」

「うん」

辛うじて出た言葉は極普通の当たり前のことだった。彼からの返事も当たり前のもの。私は彼から視線を外して前を向く。不意に彼との出会いから今までのことが脳裏に浮かんできた。別に大それた出会いではない。たまたま職場に同じ趣味の人がいたまでのこと。だけど、その人と仲良くなってしまうのは必然だったと思う。本当ならこのまま恋をして、彼は私のことをどう思っているのか悩んだりして、そんなことを考えちゃっている私はなんて愚かなのだろうか。また泣きたくなる。私達は出会ってはいけなかった。

「紫原くん、」

さよならと今度こそ告げようと口を開く。愚かなこの気持ちを終わりにしようと決心して。いつもならふわりと舞い落ちる雪を見るたびに私の心が弾んでいた。だけど、せっかくの雪も今は嬉しくない。すっかりと冷え込んだ外気のせいでフロントガラスが曇りはじめている。それでも私は見えない先にある雪を眺めることをやめなかった。

「あのさ、」

彼が何かを言いかけるが口を噤む。車内では再び沈黙が続く。今度は私が言いかけるがそれ以上言葉が出てこなかった。だって、何をどう言えばいいのか分からない。彼に視線を向けると彼も私の顔を見つめていた。息を飲む。お互いに考えていることなどとっくに分かっていた。私達は明日、結婚する。

「また、会社でね」

彼が先にそう言った。私も同じ言葉を返した。ようやく彼が扉に手をかけて外に出る。車内には一気に冷気が入り込んできた。

「おやすみなさい」

「うん、おやすみー」

扉が閉まる。私は彼が駅に向かっていく背中を見つめてからゆっくりと車を発進させた。頬を伝う涙の向こうで振り向いた彼と目があう。そんな妄想に取り憑かれたまま私の車はロータリーの外へ消えていった。


駅に向かっていた足を止めて振り向くと彼女の車が発進するところだった。フロントガラスの向こうにいる彼女と目があったような気がする。そんな妄想に取り憑かれている自分を嘲笑った。

「バカだなー、俺。本当、何やってるんだろう」

呟いた声は雪の中に吸い込まれていった。彼女の好きな雪。いつも寒い中、子供みたいにはしゃいで雪だるまを作っていた彼女。そのせいで彼女から握られる手はいつも冷たかった。本当は、今すぐにでも抱きしめてやりたい。いや、実はそうするつもりだった。だから酒を飲んで酔ったふりして彼女を何処かへ連れ込んでやろう、そう思っていたのに。結局はできなかった。ドラマでは一夜限りのアバンチュールなんて言葉があるけれど、一夜なんかで終われるはずがない。彼女をこの世界から連れ去ってしまえばもう二度と元の場所には戻ることができない、そんなことをすれば取り返しのつかないほど彼女を傷つけるだけだ。

「好きだよ。大好きだよ。どうして出会っちゃったのかな。こんなことって、あんまりだ」

吐く息と共に彼女への気持ちを口にしても届くことはない。ほんのりと火照る瞼に気がつかないように俺は目を閉じた。雪の日に無邪気な笑顔を浮かべる彼女を抱きしめる妄想を抱いて。