愛なんてただの言葉

視線を感じる。彼ほどの英傑が私のことなんて特別視するはずがないと、叫ぶ理性を容易く裏切るような、ひたむきな視線を。その一方で、自惚れるなと自らを律する己がいるのもまた事実であった。召喚された英霊が後世に生きる未熟な主を慕う心に、邪な感情が混じろうはずもない。私は意を決して振り返る。私が彼を見たかったのだ、というのは一先ず置いておくとして。
「そんなに見られていたら穴があきそうだわ」
カルナは扉の横に、壁に凭れて立っていた。このマイルームは広いので、私たちの間には十分すぎるほどのスペースがあったが、それでも改めて二人きりであることを意識すると緊張する。成り行きで人類最後のマスターとなった私に、誰でもいいので常にサーヴァントを侍らせておくことを提案したのはダヴィンチちゃんだった。残ったスタッフたちに対するささやかなパフォーマンスである。正真正銘マスターであり、サーヴァントたちと良好な関係を築いていると示すこと。くだらないと思うかもしれないが、機関内のモチベーションを維持し続けることが、当初は最大の課題だったのだ。それと同時に私のことを快く思っていない職員への牽制の意味もあったに違いない。私自身はあまり意識していなかったし、嫡子では無いから気にしていなかっただけなのだが、魔術師の家柄に連なる私が一般応募枠で応募してきたことを必要以上に重く捉え、何かの罠かもしれないと警戒している層が一定数いるそうだ。簡単に言えば、自らの短慮により嫌われている、という身も蓋もない状況である。そんなことを気にしている場合ではないと思うが、どんな時でも疑念や軋轢を捨てきれないのが人間だ。私は素直にサーヴァントを傍に置くことにした。まるで見せつけるように。カルナを選んだのは召喚に応じてくれたサーヴァントの中でも特に格が高く、それ以上に顔が良かったからだ。どうせ連れて歩くなら見目麗しいほうがいい。私が思っていた以上に、カルナはこの役目を重要なものと見做した。四六時中、私の傍で控えている。
「穴をあけるつもりはない…が、以後気を付けよう」
そう言いながらも、こちらを真っ直ぐ見詰めてくるのだから、以後気を付けるつもりが本当にあるのかどうか怪しいところだ。カルナの端正な顔を見ながら、なんだか気恥ずかしいような、落ち着かない気分になった私は遣りかけていた作業を一時的に中断し、電子端末の電源を切って立ち上がった。
「お腹空いちゃった、ダヴィンチちゃんのところにパン買いに行こう」
私の提案にカルナは頷いた。
「同行しよう」

前提として、恋に恋をしていたのだと思う。それはすごく好いものらしいと噂には聞いていたが、私のところに訪れたことは、ただの一度も無かったので。英霊という存在は、憧れを預けるのに、こう言っては何だが、とても都合が良かった。だから、これは違うのだと言い訳を繰り返している。或いは、今だけのことだと。あの日、人類の未来は奪われた。取り戻す為だけの戦い。過酷なその渦中にあって、ささやかな慕情を抱くことは、後ろめたいことだろうか。少なくとも私には、罪悪感がつきまとうけれども。
「あーあ、やってらんねぇよなぁ…」
ダヴィンチちゃんの工房を目指す途中、前から歩いてくる人の声を聞いて、つい足を止めてしまった。サーヴァントではなく、スタッフの誰かだろう。覚えのない声だ。私のこの関心の薄さもまた、彼等から顰蹙を買う一因になっている。
「あのお嬢様、ヤル気あんのかねぇ?…ちゃんと検査してたら、残ったスタッフの中に他に適任がいたんじゃねぇの?」
「普段は英霊様にチヤホヤされてるだけでいいんだから、暢気なもんだよなぁ」
どうやら話題は人類最後のマスターについてらしい。陰口を本人に聞かれていたとあっては、彼等も気不味いだろう。擦れ違ってしまわないよう、彼等の姿が見えない内に踵を返す。食欲はすっかり失せていた。
「行かないのか?」
もと来た道を戻り始めた私に、カルナは不思議そうに問い掛けた。スタッフにあんなことを言わせてしまう自分自身が情けなく、更にそれをカルナに聞かれてしまったことが恥ずかしい私には、頷くことが精一杯だ。
「気にすることはない、あれはただの言葉だ」
カルナは淡々と言う。慰められているのだと気付くのに時間を要した。
「人は本心のみを語るのではない、上澄みだけの他人の評価はお前の何も定めはしない」
私は施しの英霊を見詰めた。彼はここまで一度も私から目を逸らしていないので、目を合わすのはおそろしく簡単なことだった。
「…でも、私は逃げ出した」
本当に気にする必要がないと思えるのならば、私は胸を張って彼等の前に立つべきだったのだ。それが出来ないのは、図星だったから。現に私はサーヴァントを侍らせて楽しんでいる。
「気分は変わるものだ、パンが食べたくなくなることもあるだろう」
カルナは事も無げに言った。

結局のところ、あれだけ悩んでいた人間関係の不和については、時間が解決してくれた。異常も慣れれば日常だ。時間が経つにつれて、お互い余裕が生まれてきたし、人理復元の目処も立ってきた。後は死ぬ気で頑張るだけ、という段階に来て、漸くチームワークというものが育ちつつあるのかもしれない。それでも私はカルナを従えて歩くのを止めなかった。彼の一見冷ややかな瞳には慈しみがある。それは私個人に向けてというよりは、人類とか未来とか、もっと大きな括りに注がれた慈愛であるようだったけど。
「カルナは私が愛してるって言ったらどうする?」
対外的な悩みが解決してしまえば、残るのは内向的な欲望だけである。我ながら浅ましい。カルナにしては珍しく、動揺した素振りを見せた。一瞬だったが、多くを望まない私を満足させるには十分である。
「…これもまた、言葉でしかないけどね」
愛なんてただの言葉。それも耳障りの良い言葉。私がしてみたいのは恋。カルナが人理に向けるのは愛。この齟齬を埋めるために、コミュニケーションは存在する。相手のものでしかない述懐を自分の認識に寄せていく。その過程でいくつもの誤解が枝葉を広げる。誰もが真理から遠ざかっていく。私は意図的に真実から離れようと足掻く。
「人は言葉によって分かり合えるのだろうか?」
カルナの疑問に正しい回答を与えられるほど、私は優れたマスターではない。もうすぐ世界は救われる。私たちはそれぞれ、在るべきところに戻るだろう。
「難しいと思うわ」
だって、家族とも分かり合えなかった。私は跡目ではないから、好きに生きさせて貰えると思っていたのに…。
「でも、分かり合いたいと思ってる」
「…そうか」
カルナは感慨深そうに目を閉じた。長い睫毛が影を落とす。私の胸は切なく震えた。勝っても負けても、カルナとはもうすぐ逢えなくなるのかと思うと、気が狂いそうだった。人類最後のマスターで無くなった後の自分を想像してみる。最初から、期限付きの自由だ。程々で家に戻らされて、適当な家柄の魔術師と結婚させられることが決まっている。私に用意された人生はさぞやつまらないものだろう。この非日常の中で、過去の幻影に色恋の一つくらい施されたところで罸は当たるまい。