ゆるさないからね
「松川ってさぁ、ちょっとえろくない? ただれた恋愛してそう」
「あー……わかる。別にチャラくないけど、後腐れあんの嫌いそう。ゆきずり的な」
「名前もそう思ってんじゃん」
誰かに対する印象を冗談めかして言うくらいの、単なる雑談だった。だからちょっとしたらそんな話をしたのもきれいに忘れるし、実際私はそのことを当の松川に蒸し返されるまで忘れていた。


「苗字」
声をかけられて立ち止まって、ちょっと来てと手招かれてからが早かった。
人通りの少ない階段のさらに防火扉に隠れた壁は、日が当たらないせいかぎょっとするほどひんやりとしていた。背と肩を預けるには到底安心できない冷たさなのに、その私の頭よりさらに上に、ひたりと松川の手のひらが置かれる。

「陰口叩くならもっと場所選んでくださいよ」

──ね? と傾けた首の角度が、言っていいのかわからないけどカタギじゃないみたいだ。上背も体格もある男に口調だけでも凄まれて焦らないわけがない。ひえっと声が出かけるのを呑み込んだのもつかの間、松川の眠たそうなまなざしがちくちく刺さるので気が急いて、「ごめん」と舌をもつれさせるのが精いっぱいだった。カベドン的な展開はもっと恋愛的な意味でドキドキするものと思っていたのに、怒らせてしまったことが先に立って、冷や汗をかくような動悸がしている。

「何のこと言ってるかわかってる?ホントに?」
「いや、なんとなく、だけど」

不謹慎ながら、彼の呆れ返ったような声は新鮮だった。しゃべるときに、真顔のままなのにどことなく茶化したような雰囲気があって、松川のそういうひと癖ある感じが、ふつうの高校生らしくない。

「なんか俺のこと、ただれた男みたいに言ってたじゃん」
「ただれたっていうか」

そういうんじゃなくて、しれっとしてるくせにきわどいっていうか。いや、そういうことじゃないか。どう弁明したものか考えあぐねていると、決して乱暴でない仕草で置かれていた手と頭上を覆うようだった松川の肩が、言葉を待つようにそっと離れていった。申し訳ないけどほっとした。そもそも体格差がありすぎる。

「だってなんか松川って色っぽいから」

だから、年上のおねえさんとかと付き合ったり別れたりしてるんじゃないかなと思っていた。そういう噂も流れていた時期がある。年上と付き合ってて、その彼女がすごいエロくて、とか。そういう。私みたいに平凡な、学校生活が今のところの生活のほぼ全部みたいな女子高生が背伸びしてようやく覗き込む世界を飄々と渡っていってしまうような、松川には勝手にそういうイメージを持っていた。県下の強豪チームと名高い青葉城西バレー部にいったいそんな時間があるかどうかは別にしても、松川個人についてのその強い偏見は拭えなかった。
制服が似合わないのは顔が老けているとかよりも、「別に何にも考えてないよ」と言うのに目の底に思料の奥行きが見えるせいだし、ぼうっと眠たそうにしている松川の横顔が気だるげに思えたり、視線に気付いたときの流し目が思わせぶりな気がしたり、でもそういったことは松川の持っている属性というか空気感のせいなのだ。──松川ってさぁ、えろくない?──……友達のあっけらかんとした松川評が耳に残っている。

でもさすがに今のは失言だった。

「なに、色っぽいって」

棒立ちの脚の間に、松川が不意に膝を割り入れてきた。制服のスラックスを履いた筋肉質な腿がスカートを押し分けて、タイツ越しの私の脚にふれる。悲鳴の出どころが震えて止まってしまいそうだ。
こんなの。こんなのただのクラスメイト相手にすることじゃない。「ただれてる」で表現は合っていたかもしれない。

「そういうところでしょ」
「そう? そっちだって人のこと言えないと思うよ」
「なんで」
「余裕でしょ、今」

そんなわけない。恥ずかしくて顔を背けた私の顎に、その長い指先を引っかけて、松川が「こっち向いて」と声を低めて促す。松川のこういう女慣れした動作がおかしいと思う、ただれている、……あぶない感じがする。

「苗字的に、彼氏としてはナシ? ゆきずりの男」

なのに彼の口調の端には、どうか、と頼む込むようでいてそこにあわよくば、が混ざったようなずるさと心もとなさがあった。気だるげな、思わせぶりな、食わせ者みたいなまなざしをするくせに、案外ころっと騙されてしまうような世慣れない“男の子”なところが垣間見えてしまった。
もうこのままキスしてしまうような距離で、意外にも体温の高い指先に触れられて、私はすっかり高揚していた。冷や汗は熱を帯び、動悸にときめきが取って代わろうとしている。
友達の「名前もそう思ってんじゃん」は、なんでそう思うのに好きなの、と言葉にしなくてもたぶんそれが続きだった。でも好きになってしまった。松川に年上の彼女がいてもいなくても、私が彼の私生活に係わるなにものも知らなくても。

「松川的にはナシじゃない? 陰口言ってた女」
「別に。俺って苗字にとっては彼氏候補じゃないんだなーって傷ついただけだから」

長身を屈めた松川の肩が、また覆いかぶさってくる。慄くような期待にすくんだ脚の間に彼の腿を締め付けてしまう。
……後から、キスくらい特別なことじゃないなんて言ったらゆるさないからね。