ミッドナイトブルーブルー
「お疲れ」
「え。わ、お疲れ様、です」
もう誰も残っていないだろうと思っていたところに声をかけられ、何だかまごついた返答になってしまった。
「課長、帰った筈じゃなかったですか?」
「いや、忘れ物取りに来ただけ。もう帰るよ」
言いながら、課長は自分のデスクに置きっぱなしになっていたライターを軽く振って見せた。
「そっちも今帰り?」
「はい」
いつものようにそのまま帰ると思っていた課長に声をかけられ、少し意外に思いながら答える。
「アトリ達は一緒じゃないの?」
「はい、3人は同期の人達で飲みに行くそうで」
「そっか。じゃあ、送って行くよ」
「え? お友達と飲みに行かないんですか?」
「うん、今日はいいんだ」
何だか普段と違う課長の対応を不思議に思ったけれど、そう言えば仕事以外で、しかも、二人きりで話すのははじめてだな、と気付いた。
普段は他の人が送る役を引き受けるから私が知らなかっただけで、こういう気遣いをする人だったのかもしれない。
「じゃあ、お願いします」
視線を上げると課長が思ったより近くにいて驚いた。鞄に荷物を詰めていて気付かなかったけれど、いつの間にかすぐ横に立っていたらしい。
「名前はもっと危機感を持った方がいいよ。こんな時間に男と二人きりなんだから」
いつもの落ち着いた口調で忠告する課長の私を見下ろす目に、心臓が騒いだ。
だって、今日は何だかいつもと様子が違うような気がするから。
「あの、私、」
「俺相手なら大丈夫だと思った? それとも、誰が相手でも一緒?」
「違、います、私、」
「どっちにしろ迂闊だね、俺みたいな奴はそういう隙を狙ってるんだから」
「課長、」
ろくに私の言葉を聞かずに捲し立てる課長の服を掴む。頭がついていかなかった。
私は一体、何をどうすればいい。
「ジーン」
「え、」
「今、目の前にいるのは、上司じゃなくて、名前を手に入れようと画策する、ジーンという男だ」
そんな私に言い聞かせるようにゆっくりと目を見ながら言った。けれど、そんな予想してなかった展開についていけず「む、無理です、無理」と繰り返す私を抱き締める。
「俺は無理じゃない」
そして、熱っぽい息を耳に吹きかけるものだから肩が震えた。そんな彼から煙草と僅かにアルコールのにおいがする。どうやら多少なりとも酔っているらしい。
「あったかいな、名前」
言いながら、甘えるようにすり寄ってくる彼の言葉をどこまで信用するのか。これからどういう目で彼を見るべきなのか。
分からずにただ、体温がじんわりと馴染んでいくのをどこか遠くのことのように感じていた。