I'm addicted to you.

友達数人と一緒に街で一番大きな屋敷の庭に潜り込んでみた。何人かの使用人が各々の仕事をこなしながら歩く姿を横目に見つからないように注意しながら奥へと進む。すると、屋敷で飼っているらしい大きな犬が突然僕達の前に現れて何度も吠え始めてしまった。ふわふわの尻尾が印象的な洋犬。これはあとで知ったのだが品種はゴールデンレトリバーという異国の地から輸入した犬だった。話は戻るが犬に遭遇した友達は当然驚き悲鳴をあげながら無我夢中で庭を走る。そうすれば必然と使用人達に見つかり怒鳴られてしまう。一方僕は驚いた拍子に尻餅をつき、その隙に犬が僕に向かって飛びつく。これは大怪我決定だと思いながらぎゅっと目を瞑った。だけど、いつまで経っても犬が襲ってくる気配がないので僕は恐る恐る目を開けてみる。するとそこには僕ではなく小柄な少女の身体に飛びつく犬の姿があった。ふんわりとウェーブがかかった黒髪に、ぱっちりとくりくりした大きな瞳に目がいく。しかし、それよりも驚くほど血色の悪い顔色に僕は思わず息を飲んだ。彼女は僕の姿に目を向けると静かに眉根を寄せてしまう。やがて使用人達の声がこちらに向かってくるのが聞こえてくる。まずいと思った僕は無意識に立ち上がりこの場から逃げ出そうとしたが、パシッと彼女に手首を掴まれたせいで逃げられなくなった。離せと思いながら彼女の手を振り解こうとするが彼女が静かに首を横に振る。それから彼女は僕の手首を掴んだまま縁側から襖が開いたままの部屋に僕もろとも入り込み、すぐに襖を閉めた。畳の上に無造作に転がる二人分の小さな下駄にいつのまにと思う。彼女の突然の行動に目を丸くする僕を横目で見ると彼女は自らの人差し指を自分の唇に当ててクスッと笑う。その格好のまま一緒についてきてしまった犬にも笑いかけた。しばらくすると使用人達の声が遠くの方へ向かっていく。それを聞いて安堵しながら彼女は僕に言った。

「これでわたくし達は共犯ですわ」

至極楽しそうにころころ笑う彼女がとてもかわいかった。顔色はとてつもなく悪いのに、それを感じさせないほど彼女には明るさというものがある。その瞬間、僕の胸にちくりとした痛みが走った。初めて感じる病に似た症状に僕はどうしていいか分からない。そんな僕の心情を知らない彼女は愛犬の頭と顎を撫でながら偉い偉いと褒めていたのだった。結局彼女のおかげでその日は使用人達に怒られることがなく、それからの僕は友達に黙って一人で屋敷の庭に潜り込むようになったのである。何故だか分からないが、彼女を放っておけなかった。


彼女と逢瀬を重ねるようになってから彼女のことを知った。見た目の通り生まれつき身体が弱い彼女は両親達の命により外へ出してもらえないらしい。たまに両親の目を結んでは使用人達に強請ってみるがやはりダメなものはダメだった。そのせいで彼女の知る世界は屋敷の中と自室から見える庭の景色だけ。本来なら床に伏しているはずの彼女だが、そこは彼女が自由を好む性質のためよく無理をする。これには僕が彼女に紹介した名医、玄白が頭を悩ませていた。医者の腕がどんなに良くても患者がこれだといつになれば治るのやら、玄白の口癖になりつつある。そんなこんなで彼女と出会ってから早数年。大人になった僕は屋敷の次期当主である彼女の計らいで堂々と屋敷に出入りできるようになった。今日も門を潜り庭の奥に進むと開けっ放しの襖が目に入る。僕は縁側で下駄を脱ぎすっかり慣れ親しんだ部屋に足を踏み入れた。

「今日も来てくれましたのね」

「暇だから来てやっただけ」

「昨日もそう言っておりましたわ」

軽々と吐いた嘘を指摘しながら彼女が激しく咳き込み出す。朗らかな笑顔を浮かべていた表情は消え、手にしていた書物を畳の上に落とし彼女も片手をつきながらごほごほと咳を繰り返した。慌てて僕は彼女に寄り添い華奢な背中を何度も撫でる。彼女の愛犬も心配そうに彼女の顔を見つめて小さく鼻を鳴らしていた。ちなみに、犬の名前がお饅頭だと知った時、僕が彼女の感覚を疑ったのは言うまでもない。

「もう大丈夫ですわ。どうもありがとう」

二、三度大きく深呼吸してから彼女が笑ってみせる。昨日よりも小さくなった顔に僕は胸が締めつけられるような苦しさを感じた。少し落ちつきを取り戻した彼女が畳の上に落とした書物を拾い文机に置く。僕より小さい手のせいで分かりづらいけど、これでも彼女の方が年上である。

「あ、そうですわ。源内、お腹すいているわよね?」

「別にすいてないけど」

「先程往診に来てくださった玄白先生から珍しい焼き菓子をいただきましたの」

「え、だからいらないんだけど」

「いい子でお待ちくださいな。お饅頭、あなたはいらっしゃい」

僕が話聞けとツッコミを入れるのとお饅頭が返事するのが同時だったせいで彼女の耳に僕の言葉など届いていなかった。先程まで咳き込んでいたくせに鼻歌を歌いながら彼女は早々に自室を出ていってしまう。お饅頭も彼女の後に続いて大きな尻尾をふわふわ揺らしながらいなくなった。一人部屋に残された僕は見慣れた彼女の部屋を見回す。手持ち無沙汰にその辺にある書物を手に取った。文机の上や書棚に所狭しと並んでいる書物は全て医学書。彼女は将来医者になると聞いている。それも、玄白のような優秀な医者を目指して。

「あれ?おかしいな。まただ」

僕は突然の胸の痛みを感じて咄嗟に掌を胸に当てる。彼女と出会った時に感じた胸の痛みは大人になるにつれてどんどん増していくようになった。始めは針が刺さったような軽いものなのに、今は呼吸が苦しくなるほどの強い痛みに襲われる重い症状に変わっている。しかし、こんなことを誰かに相談できるわけがなかった。玄白に話せば必然と彼女に知られてしまう。そうすれば、彼女自身も体調がよくないくせに僕のことを心配して余計に彼女の病状も悪化させてしまうだろう、きっと。ただでさえ青白い顔をこれ以上悪くさせたくない。もっとも、彼女自身は自分の身体に気を遣うことなく無茶ばかりしているけど。

「源内、おやつの時間ですわ」

聞き慣れたお嬢様言葉に僕はハッとして振り向く。彼女は青白い顔でにこやかに微笑んだかと思えば手にしていたお盆をすぐに机の下に置き、見たことないお洒落な食器をそれぞれ机の上に置いた。そしてお饅頭はその場に座った彼女の膝に顔を乗せて目を瞑る。時折揺れるふわふわの大きな尻尾に自然と視線がいった。

「お饅頭、大きくなったよね」

「何ですの?藪から棒に」

「別に。何となくそう思っただけ」

僕も机の前に座る。取手のついた真っ白いお洒落な湯呑みの中には赤茶色の透き通ったお茶が入っていた。丸くて真っ白い食器には金色に近い菓子が乗っている。僕が見たことがないものばかりに思わず目が奪われた。

「玄白先生からいただいたお土産ですわ。先日、現の国へお出かけしたんですって。これは紅茶、そちらの焼き菓子はカステラ」

「ふーん、そう」

彼女の細い指で示しながら一つ一つ丁寧に説明してくれたけど、僕は素っ気なく相槌を打ってからどちらも一気に口の中に入れた。玄白から貰った物を嬉しそうに説明する彼女の姿は気に入らない。そんな僕の気を知らない彼女は僕の態度を気にすることなくカステラを口にし、紅茶を飲む。優雅な姿は申し分ないほどお嬢様のそれだった。

「この湯のみ、ティーカップという名前の食器ですって。これも玄白先生からいただきましたの。わたくしもいつか、現の国へ行ってみたいですわ」

彼女の言ういつかとはいつになるか分からない。彼女の体調が安定しなければ彼女はいつまで経っても江の国どころか自身の屋敷すら離れることができないのだ。

「玄白と一緒なら、何処か遠出することができるかもね」

自分で言ってまたズキリと胸が痛んだ。彼女に対して大丈夫とか行く日が来るなんて言葉を軽々しく言ってはいけないが、玄白が付き添いなら望みがある。万が一患者に何かあれば医者が同行さえすれば多少の心配事はなくなるのだから。だから彼女を元気づけたくてそう言っただけなのに、やっぱり胸が苦しい。

「確かに、源内の言う通りですわ」

それ以上彼女はこの話に触れず、そしてその日は軽く雑談してから僕は屋敷を後にしたのだった。


相変わらず今日もまた僕は屋敷の門を潜り抜けて庭の奥へ進んだ。すると、僕の姿を見つけたお饅頭が大きな声で吠えてから走ってくる。僕の膝に顔をぐりぐりと押しつけるお饅頭の顎を撫で、それからお饅頭と一緒に彼女の部屋に足を運ぶ。そこにはいつものように見慣れた顔が僕を出迎えた。

「源内、来てくれましたのね」

「実験には息抜きも必要だから」

着物の袂を直しながら朗らかに笑う彼女の側には玄白の姿もある。どうやらたった今診察を終えたところらしい。

「それでしたら、息抜きがてらお饅頭と遊んであげてくださらない?わたくしもこれからお饅頭と一緒に庭を散策しようと思っていましたの」

「あんまり無茶はしないでくれよ」

朗らかに笑う彼女に対し、玄白が呆れたように口を挟む。適度に身体を動かすことは結構だが、最初に言った通り自由を好む彼女は些か他の病人に比べると元気すぎる。例えば、薬を飲んで絶対安静しなければならないにもかかわらず流星群が見たいとか言って真夜中にこっそり寝所を抜け出すなんてことも。その度に玄白が言うことを聞かない患者だと嘆いているのだが、残念ながら彼女に反省する素振りは全くない。

「さて、私はもう戻るぞ。いいか源内、くれぐれも名前さんに無茶はさせるなよ」

「分かってるって」

疑心暗鬼になっている玄白を彼女と一緒に見送る。それから彼女は下駄を履き僕に振り向いた。お饅頭も今か今かと待ちきれない様子でぶんぶん尻尾を振っている。

「源内、置いていきますわよ」

「そんなに急がなくても大丈夫だってば」

一足先に庭の片隅へ歩いていってしまう彼女の背中を追いかける。華奢な背中は変わらないままいつのまにか彼女の背が僕より高くなっていた。勿論僕も彼女と初めて出会った時より成長している。その証拠に子供の頃に大きいと感じていたお饅頭は僕が成長するに連れて小さく感じるようになった。と言っても、実際お饅頭は大型犬なので他の犬と比べるとずいぶん大きいけど。

「お花の蕾が膨らんでいますわ。開花まで、もう少しですわね」

花壇の前でしゃがんだ彼女と彼女の隣に寄り添うお饅頭は如何にもお金持ちのお嬢様とお金持ちが飼う犬という印象にぴったりだ。ふと、蝶々がお饅頭の目の前を横切り、ふわふわと何処かへ向かって飛んでいく。お饅頭は蝶々に気が取られたようで追いかけるように走っていった。

「まぁ、お饅頭ったら」

口に手を当ててクスクス笑う彼女の姿に体温が上がっていく。きっと、今日は春のようにあたたかいからだろう。

「あ、そうですわ」

ふと、彼女の視線が僕に向けられる。何を思ったのか彼女はまっすぐ僕の頬に手を伸ばして優しく撫でた。

「お饅頭もそうですが、源内も大きくなりましたわね。そして、わたくしも」

彼女の手がすっと離れていくので僕の頬から温もりが消えた。彼女は瞼を伏せ、またすぐに目を開ける。それからいつものように朗らかに笑ってみせた。

「わたくしも源内も、もう少しだけ大きくなったら、一緒に遠くへお出かけしましょうね。例えば現の国へお花見だなんて、とても素敵ですわ」

「え、それって、」

僕が意味を問おうとする前に彼女は僕に背を向けて走ってお饅頭を追いかけてしまった。その場に残された僕は彼女の言葉を頭の中で復唱する。やがて、一つの結論に辿り着き、また胸が苦しくなった。

「やめてよね。人に変に期待させるの」

胸が苦しいがいつもと違う。僕の身体全体が喜びに満ちていた。彼女の体調が良くなる未来がいつになるのか分からない。もしかしたら、期待するだけ無駄に終わるかもしれない。それでも僕は彼女の夢のような言葉に縋ることにした。

「ちょっと!無理するとまた玄白に怒られるよ!」

僕が彼女の背中に大声で呼びかけるのと同時に彼女の身体が庭の一角に沈む。僕は慌てて彼女に駆け寄り、その場にしゃがみ込む彼女の背中を摩り続けた。まったく、これじゃあ無茶ばかりする彼女からいつまで経っても目が離せない。


***
我輩は犬である。名前はお饅頭だ。病弱であるお嬢様が寂しくならないようにとお嬢様のご両親により我輩はこの屋敷にやって来た。名前は幼いお嬢様がつけてくださったのだが、はっきり申し上げるとセンスがない。ちなみに我輩は現の国の生まれなので横文字には強いのだ。そんなこんなでお嬢様はすくすくとは無縁であるが成長されたのである。

「ふぅ、やっぱり医学とは難しいですわ」

ある日のこと、お嬢様は自室で医学について勉学に励んでいた。一息ついたお嬢様はお嬢様の隣で寛いでいる我輩の頭を撫でながらおもむろに口にしたのだ。

「わたくしも玄白先生のような医者になれたなら、そうすればきっと病弱のままでも源内の隣でずっと笑いあえますわ」

勿論我輩は片耳をぴくりと反応させた。それもそうだろう。我輩はお嬢様に会うために屋敷に出入りしているあの若者がお嬢様を好いていることを知っているのだから。つまり、我輩はこの瞬間二人が相思相愛だと理解したわけだ。

「源内とは幼い頃より一緒でしたので、わたくしは源内のことをまるで家族みたいに思っておりましたの。勿論、お饅頭もずっと一緒ですわ」

我輩は内心呆れながらお嬢様を見上げる。青白い顔で穏やかに微笑むお嬢様はどうやら自らの恋心に気づいていないらしい。そういえば、あの若者も医者に嫉妬する素振りを何度も見せているが、それがお嬢様に対する恋心ゆえだとまったく気づいていないみたいだ。

「あら?お饅頭、元気がないようですけど、何かありましたの?」

たった今あったわ、と言ってやりたい。我輩は深々と溜息を吐いてからお嬢様の手から離れて縁側に向かう。すると、ちょうど往診に来た医者が我輩に声をかけた。

「どうしたお饅頭?元気がないようだが、何かあったのか?」

我輩はちらりとお嬢様に顔を向ける。お嬢様は医者に気づいたようでその場に立ち上がり、こちらに向かってくる素振りをみせていた。

「分かったぞ。さては、」

ふと、医者は悪い顔でにやりと笑ってからその場にしゃがみ、我輩にだけ聞こえるように耳打ちする。

「名前さんと源内の鈍感っぷりに辟易していたんだろう?」

医者の言葉に我輩はすぐに顔をあげて鳴き声を一つしてみせる。この男、どうやら我輩と気が合いそうだ。