I'm yours.

 僕ら刀剣男士が戦のために呼ばれたといっても、四六時中歴史遡行軍の相手をするわけではない。任されていた雑事を片付けてしまえば、残りの時間は稽古に使うもよし、趣味に使うもよし、それなりの自由を許されている。とはいえ今日はこれと言ってやりたいことは無いし、何をして過ごそうか。そう考えながら本丸の中を当て所もなく歩いていると、庭で談笑する主と貞ちゃんの姿が目に入った。肩を揺らしながら笑う主の姿に、僕の胸も少しだけ弾む。ああ、そうだ――主の笑顔を見ること。それが、ここに来てからの僕の趣味、というのはおかしいだろうか。あの笑顔なら、僕はいつまでだって見ていられるような気がするんだ。
 このまま二人を見ていたい。そう思ったから、僕は渡り廊下の手すりに手を置き、気付けば口元に笑みを浮かべて二人の様子を眺めていた。今の自分を誰かに見られたら、もしかすると不審な輩と思われるかもしれないな、と少し考えたけど、二人があまりにも楽しそうに話しているからか、今の僕が周りからどう見られるかなんて気にもならなくなっていた。
 そうして三分ほど経った頃だろうか。貞ちゃんと視線がぶつかった。僕に気付いた貞ちゃんが、大きく手を振っている。それに続いて振り向いた主が控えめに手を振った。僕も二人に応えて手を振り返すと、貞ちゃんは青い外套をひらひらとなびかせながら駆け寄ってきた。

「よう、みっちゃん! 居るなら声かけてくれりゃよかったのに」

 そうだよ、という同意の声は、少し遅れてやってきた主の物だ。

「二人が楽しそうに話していたから、嬉しくなってね」
「それなら尚更みっちゃんも入って来ればよかったろ? その方が、盛り上がるしな!」

 貞ちゃんは白い歯を見せて笑う。見ている方まで笑顔にする、そんな魅力がある笑みに、やはり僕もつられて笑った。

「光忠」

 ――と、呼び掛けられて主に視線を移す。やわらかく微笑む姿に、胸がじんわりと熱くなっていくのを感じた。そうやって笑いかけられると、君のその笑顔が好きだと思わずにはいられなくなる。

「なんだい、主」
「そんな高いところに居ないで、庭に下りて来ればいいのにと思って」
「そうそう。みっちゃんはただでさえデカいんだから」

 渡り廊下に居る僕は、屋外に居る二人より数段高いところから見下ろす形で会話を続けていた。貞ちゃんは「首が痛いぜ」と大袈裟に首元を触って見せ、主は「おいで」と僕に手を伸ばす。その様子に、僕はまた笑ってしまった。ここは今すぐ豪快に飛び下りるべきなのかもしれない。しかし、いくら貞ちゃんと主が待っているとはいえ、流石に裸足で外に出る気にはなれなかった。

「じゃあ、玄関から回ってくるよ」
「おう! みっちゃん、急ぎすぎて転ぶなよ?」
「転ばないよ!」

 気を付けてね、と言いながらくすくすと笑う主の声が聞こえる。それだけで、心が満たされるような気がした。

***


 玄関から庭に回ってくると、そこに主の姿は無かった。貞ちゃん一人だけが、柱にもたれかかっている。

「あれ。主はどうしたの?」
「ああ、ちょっと前に厚に呼ばれて部屋に戻ったんだよ」
「すれ違わなかったけど……」
「縁側から戻ったからな」

 厚くんといえば、今の近侍を務めているのが彼のはずだ。その彼に呼ばれたということは、遠征部隊が帰還したか、それとも、政府から火急の報せがあったか。前者であればいいけれど、後者ならば直に戦が始まるだろう。

「そんな怖い顔しなくても、大丈夫だって。あの様子じゃあ戦ではなさそうだし、大方食事当番の三日月が鍋でも爆発させたんだろうよ」
「それはそれで不安になってくるなあ……」

 今すぐに戦が始まるわけでなくとも、気を引き締めるに越したことはない。歴史遡行軍も力をつけてきている。貞ちゃんをはじめとして、修行に出た刀剣たちが戦闘を引っ張って行ってくれているお陰で勝ち戦が続いているけれど、それでも重傷を負うことが増えているのは、僕の気のせいじゃないだろう。僕たちの身体が傷付いた分だけ、主の心も傷付いているに違いない。
 ――修行に出たいな。
 ぽつりと胸の内で呟いた言葉は、間違いなく僕の本心だった。

「ほーらみっちゃん。みっちゃんが笑ってないと、主まで暗い表情になっちまうだろ? だからそんなショック受けた表情してないで元気出せって!」

 背中を強く叩かれてハッとした。貞ちゃんは相変わらず眩しいくらいの笑顔を僕に見せてくれる。いつだって、欲しい言葉をかけてくれる。その明るさに、僕はいつも励まされているんだ。

「そうだね。ありがとう、貞ちゃん」
「いいってことよ! 俺とみっちゃんの仲じゃねえか! ……それより、この後ってどうするよ。主が居ないんじゃあ、俺達二人がここで突っ立って話す意味もないよな」

 たしかに貞ちゃんの言う通りだ。僕と貞ちゃんは同室だし、話すなら部屋で、ちょっとした間食なんかを挟みながらの方がいいだろう。そういえば今朝は胡瓜が獲れたから、それを使って簡単な料理をするのもいいかもしれない。ついさっきまで暇を持て余していたのが嘘のように、やりたいことが浮かんでいく。

「それじゃあ、厨にあるもので何か作ってから部屋に戻ろうか。そろそろ小腹が空いてくる時間だしね」
「なんと言っても、今日の食事当番は三日月たちだからな。まともな飯にありつける保障はないし、今のうちに食っておいた方がよさそうだぜ」
「……腹を満たす前に、夕飯の仕込みを手伝ってあげた方がよさそうだね」

 食事の支度は当番制になっていた。今日は三日月さんを筆頭に、あまり料理慣れしていない刀が集まっている。くじ引きで決められるこの当番、今日の割り当てについて主は「しっかり者の膝丸がいるから何とかなる」と言っていたけれど、彼は彼で刀剣と料理が結びつかないでいるらしいから、何かと心配だ。

「それに、厨には主が居るかもしれねぇからなあ?」

 貞ちゃんは何やら怪しげな笑いを浮かべて僕を見る。貞ちゃんが何を言いたいのかがなんとなく分かってしまって、苦笑を浮かべるしかなくなった。

「あんな熱い視線を交わされちゃ、俺の目どころか誰の目も誤魔化せないぜ。うんうん、伽羅ですら分かる」

 別に、そんな風に見つめ合ったつもりはなかったんだけどな。――言いたかった言葉はなぜか喉元で詰まって、曖昧な笑いとなって口からこぼれた。
 要は、貞ちゃんは僕と主が想い合っているように見えると言いたいのだろう。確かに、僕が今代の主に対してある種の特別な想いを抱いていることに間違いはない。しかしそれが、貞ちゃんの期待しているような、人間が人間に抱く尊い想いであるかと言われれば、それは違うと否定しなければならない。僕は人の形をしていても、人ではないのだからそういったものを抱けるわけがない。それを理解していない貞ちゃんではないだろうけれど。

「まぁみっちゃんがそういうふうに難しい顔をする理由も分かるけどな。俺だって刀だし」

 貞ちゃんは両手を頭の後ろで組み、歩き出した。 僕もそれに続く 。向かう先は厨だろう。

「でも主はきっと、みっちゃんが思っている以上に、みっちゃんのことが好きだぜ。俺に向けるものとは瞳も、声色も変わる。何より、みっちゃんの前だとよく笑う」
「そう、かな」

 そう言われても、自分ではよく分からない。なんて言えば贅沢だと怒られてしまうだろうか。
 刀剣として、大切にされることに喜びを覚えないわけがない。外聞も何も気にせずに正直になってしまえば、優越感だってある。けれど、貞ちゃんが言いたいのは主が刀剣としての僕を特別視しているという話ではなく、人間の男の姿を取った僕を特別視しているということだ。嬉しくないわけじゃない。本音を言えばきっと――でも、僕の中にある刀剣としての自負が、それを言うのを許さない。

「でも、彼女が笑ってくれるのは、嬉しいよ」
「ふーん?」

 前を歩いていた貞ちゃんが踵を返す。

「みっちゃんよぉ、罪作りな男になりたくなければ、そういうの主の前では言うなよ」

 そう言った貞ちゃんは、口調こそ茶化すようではあったが、いつになく真面目な目をしていた。意志の強い金の瞳に、僕も怯んでしまう。それは、貞ちゃんも同じように主を大切に思っている証拠でもあったからだ。

「……うん、分かってるよ」
「ならいいけど!」

 いつも通りの明るい笑顔に戻ったのを見て、ほっと胸をなでおろす。

「そういえば、主って昔はあまり笑わなかったって和泉守から聞いたぜ。いっつもムッとした表情してたーって」

 普段の調子で話しながら、貞ちゃんは再び厨に向かって歩き出した。

「んで、そんな主を今みたいに笑うようにさせたのがみっちゃんだって話も、その隣にいた堀川から聞いた。俺は新参の部類だからそん時の話はよく知らねえし、いい機会だから教えてくれよ」

 そうだ、貞ちゃんはここに来たばかりの主のことをよく知らないんだ。この本丸で起きた話は、刀剣男士全員に知る権利がある。僕がまだ顕現したばかりの頃に聞いた言葉だ。厨までの道のりは長い。「それじゃあ、僕がこの本丸に顕現した日の話からしようかな」――ゆっくりと話し始めると、貞ちゃんもそれに耳を傾けてくれているようだった。





「あなた達は本来刀剣なのだから、わたしのような人間と必要以上の接触は控えるべきです。余計な干渉は控えましょう」

 そう主から告げられたのは刀剣男士として顕現して間もなくだった。
 彼女の顔には何の色も浮かんでおらず、瞳も、僕を映しているようで映していない。興味も、関心も、何もない。僕はこの瞳を知っている。ただの無機物に向けられる、無機質な瞳。このときの僕らは、審神者と刀剣男士ですらなく、主従関係である前に、人と物だったように思える。

「本丸を案内させます」

 抑揚のない声が部屋に響いた。
 主の後ろに控えていた厚くんが、ひょいと顔をのぞかせる。「オレは厚藤四郎。今日はオレが案内するから、よろしくな!」と、笑った。僕は本丸に来て初めて人らしい感情を見た。人間である主の前に、刀剣から生まれた厚くんに人間らしさを感じるなんて、これ以上の皮肉があるだろうか。

「よろしくね、厚くん」

 僕らがあいさつを交わすのに目もくれず、主は部屋から出ていった。厚くんは何も気にしていないように笑っていたから、ああ、ここではこれが普通なんだと分かった。

「大将のこと、悪く思わないでやってくれないか?」

 だから、厚くんの口からそう言われたときの驚きを、今でも覚えている。
 それは、これから生活していくにあたって利用する大広間や、手入れ部屋、浴場なんかを案内してもらった後のことだった。広い本丸の中の隅の方、審神者の執務室から最も離れた場所に位置すると言ってもいいくらいの、人気のない廊下で、厚くんはゆっくりと話し始めた。

「俺はこの本丸で起きたことは、これから顕現する全員に知る権利があると思ってるぜ。だから俺が見て来たことは全部話す」

 灰色の瞳は真っ直ぐと僕を見据えていた。
 主は、僕が顕現するちょうど二ヶ月前に本丸に着任した。厚くんは彼女が顕現させた二振り目の刀剣で、本丸発足当初からずっと彼女を見守っていたという。ここに来たばかりの頃、彼女も少しは感情を見せてくれていたらしい。「それが変わってしまったのは、俺が重傷を負って帰って来たのを見てからだ」と、俯く厚くんの声は、暗く、重い。

「俺があのとき下手打ってなかったら、大将だって俺達と距離を取ろうとしていなかったんだろうな」

 厚くんの表情が歪むのが見えた。後悔の色が滲んでいる。彼が浮かべた苦悶の表情は、人間のそれと何も変わらない。命ある、血の通ったものだ。僕は刀剣男士というものはここまで人間に近づけるものなのだと、このとき初めて知った。

「大将は、人間が命をかけて戦うのを見るのが怖いんだ。自分が出した出陣命令で、誰かが大怪我して帰ってくる。それが歴史遡行軍に付けられた傷であっても、まるで自分が付けた傷のように思って心を痛める。だから俺は『俺達は刀剣男士であって人間じゃない。あんな傷、もうすっかり癒えたし心配するな』って言ったんだ。けど、上手く伝わらなかった。俺達は物であって人じゃないからと、距離を置かれるようになってしまった。大将は、笑わなくなった」






 あの日を思い出しながら、初めて出会ったときの主の様子、そして厚くんから教えてもらった出来事を少しずつ貞ちゃんに話している間中、貞ちゃんはうんうんと頷きながら聞いてくれていた。 その様子は、至って真剣そのものだった。
 どうやって話したら誤解なく伝わるかを考えながら歩いていたせいか、気が付けば僕らは厨のすぐそばまで来ていたようだ。出汁の香りが鼻孔をくすぐる。

「なるほど。要は、人じゃなくて戦いの道具なら傷ついても平気だって割り切らなきゃ主はやっていけなかった、と」
「そういうことだね」
「ふんふん。まぁ、審神者になるまで戦とは無縁だった女が、いきなり俺たち短刀みたいな、主から見れば子供を戦場に送り出す、ましてやそれが大怪我して帰ってきたんじゃ、そりゃショックを受けるよなあ」

 貞ちゃんは空を仰ぎ、何かを考えているようだ。

「それで? 主が笑えなかった理由は分かったけど、それじゃあみっちゃんはそこからどうやって――」

 貞ちゃんの言葉を遮って、「燭台切と太鼓鐘か。ここで何をしている?」 と、背後から声をかけられた。この何とも穏やかな、しかし深みのある声は三日月さんの物だろう。今日の食事を任されている三日月さんが厨にいるのも不思議なことではない。

「よう、三日月」
「小腹でも空いたのか?」
「いーや。今日の晩飯に一抹の不安を覚えたみっちゃんが手を貸すって言うんで、俺はそのお供として来たってわけだ」

 な? と、貞ちゃんは僕に同意を求めるけれど一抹の不安、という言葉にそう易々と頷けるはずもなく、僕は「何か手伝えることがあればと思って」とぼかすことにした。とはいえ、どこかぼんやりしているようで、しっかりと物事の本質を見据えているのが三日月さんだ。曖昧にした方が失礼な話だったかもしれない。

「そうかそうか。今日の食事当番は俺含め、不慣れな連中が多くてな。燭台切と太鼓鐘が手を貸してくれるのならばありがたい」

 三日月さんが厨の扉を開くと、出汁の良い匂いがより一層強く漂ってきた。

「三日月殿! 勝手に居なくなられては困ると何度言ったら――」

 厨に居た膝丸さんは、三日月さんを見るやいなや、ぐいっと詰め寄った。ああ、これは相当怒っているな。あまりの剣幕に苦笑していると、膝丸さんと目が遭った。きりっとした瞳が数回瞬く。

「ん? 燭台切と太鼓鐘ではないか。まさか、三日月殿は二人を呼びに行ってたのか?」
「ああそうだ、と言いたいところだが、俺が呼ぶまでもなく手を貸そうとしてくれていたようでな」

 三日月さんはちらりとこちらに目を遣りながら微笑んだ。

「そうか、そうか! 燭台切に、太鼓鐘……! 二人が居ればなんとか刻限までに支度を終えられそうだ!」
「おおっ。みっちゃんが熱烈歓迎を受けている……」

 膝丸さんは僕の手を掴まんとする勢いで迫ってきた。何とも嬉しそうな表情をしているものだから、僕らが来るまでの苦労が伺い知れる。

「おお、燭台切が来たかあ」

 どこか間延びした調子の声の主――大般若くんは、膝丸さんの背後から顔を覗かせた。

「大般若、大根は切り終えたのか」
「まあ、その辺は俺も刀だからなあ。なんとかやってみたよ」
「やればできるじゃないか!」
「はは、膝丸殿が俺のことをどう見ているのかがよく分かるね」

 そう言って、彼はまた持ち場に戻っていった。一連の様子が掴みどころのない彼らしい。同じ長船の刀として言うなら、もう少し凛然とした態度でいてほしい気もするけれど。

「燭台切。この厨の指揮権を君に渡そう」

 膝丸さんは僕の肩に手を置くと、安心しきった笑顔を向けてくれた。「膝丸には苦労をかけたな」という三日月さんの一言によって、その笑顔は怒号にかき消されてしまったけれど。

「いやぁそれにしても、こうして燭台切の下で料理をするのを見ていると色々と思い出すな」
「頼むから見ているだけでなく、手も動かしてくれ」

 はあ、とため息を吐く膝丸さんに「すまんすまん」と軽く謝った後、人参を洗いながら話を続けた。

「燭台切が来てからだったな。本丸の食事を、我々も作るようになったのは」

 それは先程僕が話したものに続く、主の話でもあった。三日月さんは、僕より先に顕現した刀剣男士だ。もちろん、貞ちゃんに話したような主の過去についても知っている。
 そうだったね、と相槌を打ちながら僕はその時のことを思い出す。





 この本丸に来て一週間ほど経ってからのことだったと思う。ようやく人の身の扱いにもなれてきて、今までやってみたくても出来なかった料理というものに挑戦しようと、厨に立った。本丸の畑で獲れた野菜を切る。手に持った包丁は、刀を握るのとはまた勝手が違っていて、すぐに上手く扱えたわけではなかった。

「ここで何をしているんですか」

 冷やかな声。本丸でこんな声を出すのは、主しかいないことを僕はもう知っていた。ここにいる刀剣男士は、みんな人のあたたかさを持っていたから。とはいえ主だって、冷淡なふりをしていたけれど、密かに僕らを想ってくれているのだろうということを、薄々は気付いていた。このときまで、本丸の食事はすべて主が作っていた。誰かが「塩辛いものが食べたい」と言えば、翌日にはそういったものが食卓に並んでいたし、「もっと食べたかった」とこぼせば、量が増えてみんなが満腹になって部屋に戻ることができた。距離を取っているようで、しっかりと僕たちのことを見ていてくれる。主の優しさは、今も、このときも、何も変わっていないように思う。

「せっかくこうして体を得たわけだから、料理をしてみようと思ってね」
「刀なのに?」
「そうだね。でも今はただの刀じゃない。刀剣男士だ」

 その言葉に、主からの返答はなかった。何か間違ったことを言ってしまったんじゃないか、と焦る気持ちを必死で隠す。彼女が冷淡な人じゃないことを、あのときの僕はもう知っていたけれど、それでも何を考えているのか分からなかったし、どう接すればいいのかという迷いがあった。

「包丁の持ち方、それだと危ないですよ」
「え?」
「それだと、怪我しちゃう。こうやって持つの」

 主の手が、僕の手と重なった。その手は、驚くほどあたたかい。本来人に握られるのが僕らの役目だからか、主の手のぬくもりが心地よくて、まるでここが僕の居場所だと言われているような、そんな気すらした。

「あ、はは。これじゃ、格好つかないな」
「みんな、最初はそうですから。失敗があって、成長するものだ、と……」

 主の口角が少し上がったような気がしたのは、きっと気のせいじゃなかったはずだ。すぐに元の無表情に戻ってしまったものの、僕は、あの瞬間、ようやく主の感情に触れることができたんだ。

「そうだね。最初のうちは、失敗が付き物だ」

 だから、きっと、今なら厚くんが伝えたかったことの意味を分かってもらえるような、そんな気がして、あの日の僕は料理のことなんて頭からすっかり抜け出すくらい夢中になって、言葉を紡いでいた。

「それは料理だけじゃない。戦だって同じことだ。僕らはきっと、これからも多くの失敗を重ねるだろうね。でも、それ以上に大きな成功を君のところに持ち帰ってくるよ。だから、信じてくれないかな。僕のことを、そして僕たちのことを」

 何の感情も宿さなかった表情が歪む。僕を映していなかった瞳が、僕の姿をしっかりと捉えていた。
 いつの間にか主の目にたまった涙が、彼女が瞬きをする度にぽろぽろと零れ落ちていくのを見て、僕はこの本丸に来て初めて焦ることになる。涙を見るのは、この日が初めてだったからだ。

 それから、僕は予定が無い日はすすんで厨に立つようになった。いつの間にか、主が隣にいることが多くなった。そうしているうちに主はよく笑うようになってくれたし、口調もくだけたものになっていった。本丸に刀剣男士が増えていって、料理が当番制になって、僕たちが厨に並んで立つことは少なくなってしまったけれど、代わりに厨の外でも話すことが多くなった。主が、僕を見る度に笑うようになってくれた。「光忠」と呼ぶ声のやさしさに、あの日触れ合った手と同じ安心感を覚えるのに、そう時間はかからなかった。やっぱり、このときから、僕は――ここから先は、考えないことにした。これは、僕が刀剣男士であるために守らなくちゃいけない一線だ。





 食事の支度は滞りなく終わり、無事に夕飯の時間を迎えられた。大広間にやって来た主の様子に異変はなく、ホッと胸を撫で下ろす。

「さっきはごめんね。こんのすけが油揚げの食べ過ぎで体調崩しちゃって……」

 主は眉根を寄せて言った。「ああ、そうだったんだ。いいよ、気にしないで」僕がそう言うと、今度は安心しきった表情を浮かべて、食卓に並べられた料理に視線を移した。

「美味しそう。みんな頑張ったんだね」
「今日の誉は燭台切のものだな」
「光忠の?」

 三日月さんの言葉に、主は首を傾げた。本来、僕は今日の食事を任されていないから、不思議に思うのは当たり前だ。「俺とみっちゃんが、臨時で助っ人として入ったんだ」と、主の疑問に答えたのは貞ちゃんだった。

「ああ、それで誉ね。うん、光忠は本当に料理が好きなんだね」

 主が微笑む。優しい笑みだ。この笑顔は、他の何物よりも僕に安らぎを与えてくれた。

「光忠の料理好きには、いつも助けられるな」

 三日月さんはそれだけ言って自分の席に戻って行った。彼の一言が妙に重く感じるのは、きっと気のせいじゃないだろう。厚くんほどではないけれど、三日月さんもこの本丸に来て長い。僕と主の距離が縮まったきっかけだって知っている。

「ぃよっ! みっちゃん、誉男!」
「いや、貞ちゃん、その言い方は、あんまり……」

 誉という響きは良いけれど、誉男という称号はちょっと格好がつかないな。でも「いいじゃない、誉男」なんて主に言われてしまったら、これ以上否定の言葉を連ねることはできなくなる。主に甘い今の僕が一番情けない。思えば、包丁の持ち方から始まって、主の前で格好良くきめられたことなんて一度も無いんじゃないだろうか。

「ねえ貞ちゃん、今日はわたしが光忠の隣に座っていい?」
「もちろん! どうぞどうぞ」

 席に着こうとした貞ちゃんが、うやうやしく頭を下げながら身を引いた。主も「ありがとう」と一礼してから僕の隣に座る。ふんわりと彼女の香りが漂ってきたと思えば、彼女の顔が一気に近づく。頬に、耳に、息が吹きかかってくすぐったい。

「ね、光忠。さっき三日月が言ってたこと、わたしも同じこと考えてたよ」

 誰にも聞こえないほどの小さな声が、僕の耳をくすぐった。たったそれだけのことで、頭の中が甘い感覚で満たされていく。これは、クセになってしまいそうだ。

「でも料理だけじゃない。わたし、きっと光忠の全部に助けられてるよ。これからもよろしくね。わたしのことを支えてね」

 照れ臭そうに笑う姿から目が離せないし、頭はまともに動かず、気の利いた言葉の一つも浮かばなかった。こういうのを、惚けるというのだろう。罪作りなのって、いったいどっちの方なんだろう。頭の中で貞ちゃんに問いかけてみても、答えが返ってくるわけがない。
 ――ねえ、主。あの日僕は、刀剣男士として君に言葉をかけた。だけど、今から僕が言う言葉は、もしかすると刀剣男士としては相応しくない想いを孕んでいるかもしれない。それでも、僕は君を傍で見守り、支える刀剣男士でありたいんだ。だから、どうか、こんな僕の情けない一面には気付かないふりをしてくれないかな。

「ああ、もちろんそうするよ。僕は君の物、だからね」

 君の瞳に映る僕の表情に、僕が求める“物らしさ”なんて欠片もない。そんな事実に、今だけは目を瞑らせてくれないか。