I can't live without you.

 彼はいつでも私を置いていく。誰よりも喧嘩っ早いし足も早いので気がつけば彼の背中は常に私の目の前にあった。草履がぼろぼろになっても気にせず彼は振り向くことなく走り続ける。そうして彼が辿り着いた先にあるのは施設の子供達をいじめたり陰口を叩く奴等だ。彼は悪鬼のような表情を浮かべながら正義の拳を振るう。彼を知る人々からは鬼の晋作と呼ばれてしまっているが、あの頃の私は誰かのために勇敢に戦う彼が好きだった。

「晋作、もう帰ろうよ」

大の大人が死屍累々の如く折り重なるよう倒れている中、彼は表情を変えないまま私に振り向いた。彼の鋭い目はいくらか和らいでいるので彼の怒りも少しは治まったのだろう。

「名前、怪我はねえか?」

彼は軽々と人の山を飛び越えて私の元へ来ると必ず私の無事を確認してくれる。私は泣き腫らした重い瞼を必死に開いて頷いた。

「大丈夫だよ。晋作が守ってくれたから」

「でも、怖かっただろ」

彼の長い指が私の瞼をなぞる。彼の指は微かに震えていた。彼は喧嘩するたびに私や施設の子供達に仕返しが来ないがいつも心配している。私が彼のように強ければ彼の不安を取り除いてあげられるのだろうか。

「怖いよ。だから、帰ろう」

幼い私は本心を隠すことができなくて彼が喧嘩するところをついてきては早く帰ろうと急かすばかりだ。彼は優しい人だから結局私の身を案じて一緒に早く帰ってくれる。その時私はようやく恐怖心から解放されるのだ。

「ああ。そうだな」

彼は先に施設へ向かって歩みを進める。私が後ろから早足でついてくるのを確認しながらも彼の歩みが止まることはない。

「喧嘩が怖いならついて来るな」

「でも、晋作が心配だから」

「そのたびに泣きべそかかれるこっちの身にもなれよ」

さっさと歩く彼の背中を必死に追いかける。なんだか彼に怒られているような気がして涙が溢れた。

「まったく。だから嫌なんだ」

ぴたっと歩みを止めた彼はぐるりと振り向いて私の行く先を遮る。彼のせいで私もその場に立ち止まると彼は自らの着物の袖で私の涙を乱暴に拭った。

「おまえが泣くところ、見たくねえんだよ」

「泣いてなんかいないもん」

「それに、万が一あいつらがおまえに怪我させたらどうするんだ。おまえは女だろ」

彼の着物が退かされてから私は口を噤んだまま彼の目を見つめる。彼は私のこと、足手纏いと思っているに違いない。

「ごめんなさい」

小さく呟いてから項垂れると彼は変な奇声を発しながら髪の毛を掻き毟る。それから顔を耳まで真っ赤に染めながら叫ぶように言ったのだった。

「おまえのことは俺が守ってやるからこれからも俺の背中に隠れてろよ!だから、泣くな!」

突然の大声に驚いて涙が止まる私に構わず彼は再び先へズンズン歩いていく。ただ、先程と違うのは彼が私の手を乱暴に取っていることだった。

「あのね、晋作。私、喧嘩は怖いけど、晋作が施設のみんなや私のために戦ってくれることが嬉しいの」

その瞬間、彼が何かに躓いて身体が地面に向かって傾くがすぐに元の位置に戻る。

「変なこと言うなよ」

「変なことじゃないもん。私、強くてかっこいい晋作が大好きだから」

再び彼が立ち止まって私に振り向く。彼は顔を茹で蛸みたいに真っ赤に染める。彼の身体が小刻みに震えていた。

「お、俺は、」

繋がれた手は離れて彼は私の両方の肩を握りしめるように掴む。私の肩にぎりぎりと力を加えながら彼は真剣に言葉を述べた。

「いつか、俺が本当の意味でおまえを守れるようになったら伝えたいことがある。それまで、待っててほしい」

必死に何かの言葉を飲み込もうとする彼の姿に幼い私でも彼が言いたいことを理解した。同時に、私の顔も真っ赤に染まる。私は将来のための口約束に期待を込めて頷いたのだった。彼がいなくなると思いもしないまま、純粋に彼のことを信じて。


 水路が張り巡る見慣れた通りをひたすら駆け抜けて目に飛び込んできた狭苦しい路地裏へ行き先を変える。砂利道を草履で蹴り最小限音を立てないよう進み続けると人の気配がした。ゴクリと唾を飲み握り締めた刀の切っ先を何者かに向かって突きつける。その瞬間、薄暗い路地に月明かりが照らされていく。明らかになった人物の姿に私は思わず目を見開いた。

「おまえ、なんで、」

正体が明らかになって驚いているのは相手も同じだった。彼は途切れ途切れに言葉を口にするがほとんど声にもならない音だけで終わる。こんな所で彼に出会すとは思わなかったが、今の私にはもう関係がなかった。

「久しぶりだね、晋作」

一言告げてから私はもう一度刀を構え直す。私の殺気を感じ取ったらしい彼は後退りした。

「なぁ、悪い冗談だろ?」

彼は両手をあげて苦笑いを浮かべる。砂利の感触を草履の裏にしっかりと感じ取ってから私は大きく一歩を踏み込んだ。風を切る音が聞こえた時には刀の切っ先が彼の喉の手前で止まる。月明かりが再び雲に隠れたせいで彼の表情が見えなくなった。

「本気よ」

私が答えるのと同時に近くの通りから仲間の声が聞こえる。奴等、うまいこと逃げ延びたらしい。私は構えた刀を鞘に戻してからその場から去る。彼は呆然としたように私を呼んだ。

「なんでだよ、名前」

「私が知るあなたが十年前に死んだように、あなたの知る私も十年前に死んだの。あなたの知る私はもう、いない」

路地裏を抜けると見慣れた仲間がそこにいた。お揃いの羽織を翻しながら沖田さんはつまらなそうな表情を浮かべて私のところへ近づいてくる。

「革新派の奴等、こっちの気配に気づいて先手を打って逃げたみたい。これじゃあ帰ったら土方さんに大目玉食らいそうだね。名前ちゃんは何か見つけた?」

「迷子になったネズミが一匹」

「へぇー、ネズミね。それで、殺したの?」

「今回の一件とは関係ないネズミだから放っておいたよ。だけど、あの方に牙を向けるようなら次は殺す」

沖田さんは怖いと戯けながら首を竦めてみせる。そこに突然音もなく山崎さんが現れた。

「副長より、一度撤退せよとの命令だ」

その場にいた隊士達が全員返事したのを確認してから屯所へ足を向ける。一度だけ振り向くと物陰から怯えたようにこちらの様子を伺う女性がいた。知ってる。あれが例の巫女様だ。私は巫女様の後ろに寄り添うかつての初恋の人の影から目を逸らしたのだった。


 自惚れではないと思うがあの頃の私達は相思相愛だったと思う。あの鋭い眼差しが私に向けられる時は何処となく柔らかいものに変わっていたし、時折見せる笑みには優しさが滲んでいた。でも、彼の優しさは本来私だけに向けられていたわけではない。

「お願い助けて!晋作兄ちゃんが!」

十年前のあの日、私は施設で昼食の準備をしていた。面倒見の良い彼は施設の子供達を連れて浜辺へ遊びに行っている。その彼と共に出かけたはずの子供は血相を変えて施設へ戻って来るなり私の着物の袖を千切らんばかりに引っ張っては声を張り上げた。

「晋作がどうしたんだい!?」

施設の管理者であるおばあちゃんも只事ではないと悟り子供に状況を尋ねる。冷静を欠いているおばあちゃんの表情を私がぼんやりと見つめていると子供は私の着物の袖を引っ張ったままその場にしゃがんで泣き喚いた。

「し、晋作兄ちゃんが、海に、」

思わず子供を突き飛ばすように距離を取り、私は最後まで話を聞かないまま浜辺へ向かって走る。遠くから私の名前を呼ぶおばあちゃんの声が聞こえてくるが今はそれどころではなかった。いつも彼の背中を追って走る道のりを一人で走る。そのせいか分からないが私の心には虚無感だけが残っていた。
 やがて、浜辺に辿り着くと子供達が泣きながら海の向こうへ叫んでいた。息を切らせたままやって来た私に気付いた子供達が口々に何かを言いながら私に飛びついてくる。それぞれの話を要約すると、施設の子供の一人が海で泳いでいるといつしか沖の方まで流されてしまっていたらしい。すっかり足がつかなくなったせいで溺れた子供に気がついた彼は海へ飛び込み泳いで助けに行ったようだ。彼が子供を助けてくれると安心した子供達の目の前で大きな波が二人に襲いかかり、そして二人の姿はその場から忽然と消えた。

「大丈夫、二人とも無事だよ。だから、みんなで信じて待っていよう」

泣きじゃくる子供達を宥めはしたが平静を装うほど私は大人びた性格ではない。私は子供達をその場に残し何の策もないまま海の中へ入って行く。足の感覚も視界が濁るのも分からないまま沖を目指して行く私を止めたのは地元の大人達を連れてきたおばあちゃんだった。早速おばあちゃんの号令で二人の捜索が始まるが二人が海にいた形跡は何も発見できないまま夕刻を迎える。

「残念だけど、二人はもう、」

陽が沈む頃、大人達が口々にそう言っているのが聞こえた。おばあちゃんは涙を堪えながら捜索に協力してくれた大人達に頭を下げている。私は呆然としたまま海を見渡すが二人の姿は何処にもない。それぞれ涙を流す子供達が目に映るたびに私に現実を突きつけた。
 彼を失ったと信じたくない私は翌日から毎日のように浜辺に向かった。ただ何をするわけでもなく砂浜に座りひたすら海を眺めては彼の帰りを待つ。頭の隅っこではそんなことをしても意味がないのを分かっているのにきっと私なりの意地がこの行動をさせたのだろう。彼がいなくなってから数日後、この世界から突如として太陽が消え世間では騒ぎになっているが私にはどうでもよかった。彼が私の隣にいないのならば、私自身神隠しにあっても構わないと思っているのだから。そして、一月が経った頃、私の元へあの方がやって来た。

「君は、誰かを待っているのかな?」

相変わらず浜辺で膝を抱えて座る私の隣に腰を下ろしながら近藤さんが声をかけてきた。私は海を睨むように見つめたまま小さく頷く。すると近藤さんは大きな手で私の頭を数回撫でてから再び口を開いた。

「君の力を貸してほしいんだ。その代わり、私も君と一緒に待ち人の帰りを待つよ」

近藤からの言葉を受けて私は初めて近藤さんの顔を見た。穏やかな笑顔を携えた優しそうな人。何となくだけど近藤さんは周りの大人達と違うと感じた。最初から海に消えた彼と子供の生を諦めているような近所の大人達と瞳の輝きが違う。何か強い志しを持った雰囲気に子供ながらに惹かれた。
 近藤さんに出会った日から私は浜辺へ行くのをやめた。施設の誰よりも早く起き朝餉を済ませてから近藤さんが営む道場へ向かい稽古を積む。初めて握った竹刀や木刀のおかげで私の掌は豆だらけになった。だけど、豆が潰れて皮膚が硬くなり自分の掌から子供らしさがなくなるのを実感するにつれて自分自身が強くなっていると分かり嬉しくて仕方ないのだ。男所帯に混じって稽古する私を土方さんや沖田さんは始めこそ良く思っていなかったが、今では私の実力を認めてくれている。いつしか私は、あの頃と違って誰にも守ってもらう必要がなくなったのだった。


 外に出ると夜空は雲に覆われているせいで星も月もない。どんちゃん騒ぎをする隊士達を置いて私は一足先に屯所へ戻ることにした。遊廓のお姉様達を肴に酒を飲む男達にはついていけない。近藤さんも私の内心を分かっているので無理に引き止めることなく先に帰ることを許してくれていた。
 数日前に革新派の人間を見逃してしまったが頭の切れる土方さんの策のおかげで翌日には革新派の中でも過激派と呼ばれる人間達を捕縛することに成功した。今日はその慰労会だ。
 あまり酒に強くないため私の足元が覚束ない。今ここで誰かに斬りかかられたらお終いだと思わず苦笑いを浮かべた時だった。暗闇の路地裏からスッと音もなく人の気配を察する。私は腰にさした刀に左手を添えカチャリと静かに鞘から刃を僅かに滑らせた。いくら今の時刻が夜遅いとしても私がいる場所はまだ疎らに人が行き来する大通り、おそらく相手も表立って斬りかかれないだろう。

「待て。俺だ」

両手を上げながら私の目の前に現れたのは彼だった。私は警戒心を解かないまま瞬時に周りの様子を伺うが彼の他に仲間がいる様子はない。再度彼に視線を向けると彼は僅かに息を吐く。どうやら、戦う意思はないようだ。

「何?」

私は刀から手を離し彼に用件を尋ねる。彼は私の警戒を解いたことを察したようでホッとした表情を隠しもしないまま言ってのけた。

「少し、いいか?」

あからさまに怪訝な表情を浮かべる私に彼は申し訳なさそうな顔をしてみせる。鬼の晋作と呼ばれたあの頃に比べるとずいぶんと雰囲気が丸くなった気がした。

「私が今、何処の組織に属しているか知らないわけではないでしょう?」

「ああ。ばあさんから聞いたよ。だから、時間は取らせない」

私は思わず太い息を吐く。それから首を縦に振った。
 彼は相変わらず私より先に歩く。しかし、以前と違うのは歩幅を私に合わせるようにゆっくりと進むため私がついてくるのを確認するように振り向くことがなくなった。黙って歩き続ける彼の背中を私も黙ったまま追いかける。あの頃より歩く歩幅は近づいたのに心の距離はずいぶんと離れたと思う。やがて、彼がようやく足を止めたのは私と彼の道が違えるきっかけになった町から少し外れた浜辺だった。

「あの日、俺がおまえを残した場所がここだったな」

海に攫われてしまいそうなほど小さな声で呟いてから彼は浜辺に腰を下ろす。一方私は立ったまま彼の隣で海を見つめた。

「あなたを失った私は、ここであの方と出会ったの。そして、救ってもらった」

ゆっくりと瞼を閉じると波の音だけが私の耳に入ってくる。同時に脳裏に過ぎるのはいなくなった彼を求めて海を嫌った幼い頃の私。それともう一つ思い出すのは幼い子供同士が交わした口約束だ。

「ねぇ、晋作」

私は瞼を開ける。暗い夜に広がる海を見つめながら私は彼を呼んだ。

「あなたを待てなくて、ごめんね」

私は確かに彼の帰りを待ちながら近藤さんの元で稽古に励んでいた。しかし、待てど暮らせど帰ってこない彼よりいつしか私は常に私の周りにいてくれる道場の仲間達を誰よりも好きになってしまったのだ。私が新選組に入隊したのも私を救ってくれた近藤さんに恩を返すため。私は、近藤さんを守りたかった。彼以上に近藤さんを失いたくないのだ。

「悪いのは、俺の方だ」

私の隣で彼が奥歯を噛みしめる。彼は簡単に口約束したことを後悔しているのだろう。彼もまた、私ではなく別の女性を選んだのだから。

「あの子から聞いたよ。晋作も、守りたい人ができたんだね」

私が元服を済ませた頃、海に流されたはずの子供が帰ってきた。子供曰く、彼と共に流れついた場所が幕の国から遠く離れた雅の国だったとか。そこで二人はある師に拾われ長いこと世話になったらしい。それから紆余曲折あり子供は幕の国に戻ることができ、彼の方は色々あって日ノ許に太陽を取り戻す旅を巫女様を始めとする仲間と共に出かけるようになったと聞いた。その巫女様が、彼の大切な人であることも子供から教えてもらっている。

「あの子が立派になって帰ってきたから驚いちゃったし、ホッとした。晋作もたまにはあの子に顔を見せてあげたら?」

「今朝、会ってきた」

「ああ、なんだ。もう会っているのね」

「名前、」

不意に名前を呼ばれて振り向くと彼が立ち上がって私に身体ごと向ける。そのままゆっくりと腰を折って頭を下げた。

「すまなかった」

胸に何かが込み上げてくる。視界が濁り彼の姿が見えない。どうして私じゃないの、どうして私を置いて行ったのと積年の疑問を彼にぶつけてやりたくなる。だけど、私だって彼を裏切った身。幼い頃、いつかは恋仲になると口約束した私達なのに、時が経ってからの私達はお互いに刃を向ける間柄になってしまった。

「仕方ないよ。それもまた運命だったのだから」

あの頃の私達にはお互いにほんのりとした恋愛感情が芽生えていた。しかし彼には巫女様に対する愛を抱き、私は近藤さんに忠誠を誓い新選組の仲間達を想うようになったのだ。それでも彼の隣で笑っているのが私だったらいいのにと妄想してしまうのだから私は本当に未練がましい女だと思う。

「晋作はさ、巫女様なしには生きていけないんでしょう?」

クスッと笑ってから言ってやると彼はゆっくりと顔を上げてから私を見つめる。柔和に目を細めてみせる彼に肯定を感じ取った。

「名前だって、新選組なしには生きていけないだろ?」

同じ質問を返してくるのだから彼は意地が悪い。私もまた頬を緩めることで返事してみせた。

「晋作が過激派ではないことが救いだよ。いくらなんでも、初恋の人を斬るのは嫌だからね」

「そりゃあ、どうも」

わだかまりがストンと心から落ちた気配がした。私は心穏やかに彼に背を向けて歩き出す。彼に対する愛が冷めたわけではないが、きっと私の中ではとっくに愛の種類が恋愛ではなく友愛に変わっていたのだろう。そうじゃなかったら、私が近藤さんや新選組のために生きようなどと思いはしないのだから。

「晋作の、バーカ」

浜辺から離れてから夜空を見上げる。雲は晴れて夜空は輝いているはずなのに、私の視界は歪んで何も見えなかった。今夜は苦手な酒もおいしく飲めるかもしれない。


 遊廓ではまだ隊士達が思い思いに話しながら酒を飲んでいる。時折戯れに遊女に手を出す不届者がいるが今夜は無礼講なので咎めないでおいた。土方は一人座敷を後にし厨に向かい、酔い冷ましに水を受け取り一気に飲み干す。すると、視界の端で同じように水を飲む友の姿を捉えた。

「何してるんだ?こんな所で」

土方に声をかけられた近藤は振り向くことなく一点を見つめている。長椅子に腰かけた近藤の視線の先には開けっ放しの格子戸の向こうに夜空が広がっていた。雲に覆われたせいで夜空はまた一段と暗い。

「あの子もまた、籠の中の鳥なのだろう」

近藤の言いたいことを土方は瞬時に察した。年若い彼女には革新派に身を置く想い人だった男がいる。しかし、男の存在から目を逸らさせて新選組だけに目を向けるように仕向けたのは紛れもなく自分達だ。今夜、例の男が彼女に接近する。それは数日前に彼女が男の存在を見逃したことを山崎からの報告で密かに耳にしていた土方には察しがついていた。

「あいつはもう、高杉のことなんざ何とも思ってねえよ」

十年前、鬼の晋作の噂は幕の国で知らない人間はいなかった。勿論、土方もその内の一人である。しかし、近藤は高杉よりもいつも隣にいる少女に目をつけていた。身体は女性特有の丸みを持ったものだが、一つ一つの丁寧な所作に男の走りについていけるだけの脚力、時間をかけて磨きあげられた少女は近藤の睨んだ通りいつしか男所帯の中でも光る才をみせたのだ。

「あの子なしでは、新選組に未来はないな」

そう言って微笑む近藤の姿に土方は複雑な思いを浮かべながら肯定した。現在幕の国では今の治世に不満を持つ革新派とそれに圧力をかけて現状維持に努めようとする新選組を始めとした勢力に分かれている。この均衡が破られれば幕の国は大きく荒れることになるだろう。そうなった場合、彼女もまた犠牲になるに違いない。彼女の人柄ではなく天性の武人として見込み本来彼女が足を踏み入れることのなかった世界へ身を投じるように仕向けた土方としては彼女を哀れに思う他なかった。

「つまり、一度籠の中に閉じ込めた鳥を逃してやるつもりはないというわけか」

溜息混じりに吐いた土方の言葉に近藤がようやく振り向いて土方を見る。優しげに目尻を下げる近藤の表情を見つめながら本物の鬼はどっちだと土方は内心悪態をついたのだった。