グッバイ・ダーリン


 もしも、拾ったランプを擦って、その中から現れた魔神が、願い事をなんでも叶えてくれるとしたら。
 今の彼氏を俳優みたいに格好良くって金持ちで優しい最高の男に変えて欲しいと言った友達に、それなら世界中で起こってる問題を解決する方が早い、なんてジョークで笑いあったことがある。
 それでも、出て来た魔神がろくに呂律も回らないようなアルコール中毒でジャンキーだったというオチよりは、よっぽど笑える話だろう。何より、どこにでもあるような安物のプラスチック製のコーヒーカップから現れたその魔神は、人の願い事を満足に叶えることも出来ないのだった。


 きっかけは、誕生日でもないのに友人から貰ったプレゼントのコーヒーカップだった。
 絶対に家に帰ってから開けてと言われ、袋を開ければどこにでもあるような安物のコーヒーカップで、ベタないたずらをされたのだとがっかりしたが、気紛れにそのカップでコーヒーを飲んでみることにした。ご丁寧に小分けのインスタントコーヒーとクリームまで付いていたので。
 プラスチックのコーヒーカップに粉末のコーヒーを入れ、沸かしたお湯をポットから注ごうとした時、初めて、いつの間にか忽然と足元に突っ伏して横たわっていた人物が目に入った。
 あまりにも突然に現れたものだから、思わず声も出せずにただただ目を見開いて、動けなくなる。カップに注いでいたお湯が溢れて手にかかった熱さと痛みで、ようやく我に返った。
 慌てて指を冷水に当てながらも、いまだに床にうつ伏せているその人から目を離すことが出来ない。
 一体彼はどこから入って来たのか。お世辞にも綺麗とは言えない継ぎ接ぎだらけのコートに、ぼろぼろの靴。そんな身なりを好む知り合いに心当たりは無いが、彼は間違いなくそこに現れたのだ。
 水を止めて手を拭きつつ、小声でこんにちはと声を掛けてみるも、反応は無い。
「あの、大丈夫ですか?」
 かがみ気味に近付いて声を掛けてみる。すると彼は伏せていた顔を思ったよりも機敏に上げたので、思わず後退った。
 じっと視線を向けてくる彼の顔色は、圧倒的に悪いとしか言いようがなく、無精髭が泥のようなもので汚れたりしていたが、濃い隈で囲まれた瞳は、はっきりと何かしらの意志を持ってこちらを見ているようだった。
 しかしいつまで経っても彼は何を言うわけでもなく、ただただ見つめてくるばかりで、困り果てて出た言葉は、なぜか、「手を貸しましょうか?」だった。そのついでに、手も差し出してみる。
 すると彼は急に、壊れた玩具が鳴りだしたかのようにげらげらと声を上げてヒステリックに笑いだした。驚いて手を引っ込めてしまったが、彼は気にした素振りも見せずにふと笑うのを止め、おもむろに首を傾げる。
「そ、それがお嬢ちゃんの、ひひ、ひとつ目の願い事か?」
 どもり気味にそう言った彼は今度はなぜか、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし、また床にうずくまるようにしてむせび泣き始めてしまうのだった。


 ようやく泣き止んだ彼は、ヒステリックに笑ったり口汚い文句を混じえたりしながら、自分はかの魔法のランプに住まう偉大なる魔神なのだと自己紹介をした。
 もちろん最初はこんなにもボロボロの服を纏った吃音症らしい年齢不詳の男性が、あの魔神だとは信じ難かった。それも、プラスチック製のどこにでも置いてあるようなコーヒーカップから出て来たなんて。
 私が反応に困っていると、彼は不意に片方の瞼が痙攣している目をじっと私の手に向け、持ったままだったタオルを取り上げた。そして比較的まともな口調で、「この傷、治してやろうか」と言ってきた。
 確かに火傷をした指は赤く腫れ、思い出してみればひりひりと痛みを感じる。未だ半信半疑ながらも、それなら傷を治してくださいとお願いをしてみた。
 男は傷に、一瞬だけ撫でるようにして手で触れる。すると本当に、ひりひりとした痛みだけは和らいだのだ。比較的ながらも。まだ皮膚は赤く腫れていたので、氷を出してきて冷やさなければいけないだろうけれど、それでもずっとましになっていた。
「ありがとう」
 感動と驚きのまま素直に礼を告げれば、結果に不満だったのか舌打ちをしてぶつぶつと何やら口内で呟いていた彼が、まじまじと顔を見つめてきた。顔も痙攣しておらず、無精髭と顔色の悪さを除けば、その時ばかりは正気のようにも見える。
 しかしそれも一時のことで、瞬きをした彼はすぐに視線を落とし、急にひどく苦しげに眉を顰め、食い縛った歯の奥から獣のような低い唸り声をあげた。
 そして爪を立ててひどく乱暴に自分の頭を掻き毟り、クソっと大声で吐き捨て、彼はまたしても突然、霧のごとく消えていってしまったのだった。
 翌日になって、恐る恐るながらもコーヒーカップに触れてみた。すると彼は何食わぬ顔で現れ、声を掛けるまでずっと壁を睨みつけていた。
 その後、開口一番に酒と薬を求めてきたのには愕然としたし、人が願った朝食も勝手に食べてしまう始末だったけれど、今では酒と薬の中毒者のコーヒーカップに住む魔神と私は、それなりに上手く暮らしていると思う。


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「コーヒー飲みます?」
「俺の家は勝手に使うんじゃねぇ」
 朝から日常茶飯事のように口にする文句を言いつつ、彼は俺の家と称した魔法のコーヒーカップをテーブルの端に寄せた。
 別にちゃんと用意しておいた陶器のマグカップふたつにコーヒーを注ぐ。やはり家をコップ代わりに使われるのは嫌なのだろうか。直接そう訊いたことはないけれど。
「ちょっと、朝からブランデーは駄目ですって」
「お前のには入れてねぇよ」
 彼が内ポケットから取り出したスキットルからカップに乱雑に酒を注ぐものだから、テーブルに撥ねたコーヒーで水溜りが出来そうだった。アルコール中毒にはよく見られる光景だそうだ。
 もう慣れきってしまったやり取りに、テーブルをさっと布巾で拭いて、取り違えられる前にたっぷりブランデーの注がれたカップを彼の方に寄せた。一方、自分の方にはミルクを注ぐ。
 ふたりの間に置いた皿から温めたばかりのパンを手に取り、一口に千切ってからバターを塗って食べる。彼はブランデー入りのコーヒーを呷るように飲んでから、パンを鷲掴みにして喰い千切るようにして咀嚼した。
 これでも、無精髭を剃らせて、顔も洗わせ、髪まで切らせて、彼の見た目はだいぶ若返ったけれど、その行動は相変わらず粗野なままだ。慣れてしまうとその方がずっと楽ならしい。
「俺の血液はブランデーで出来てんだ」
「あなたにも血が流れてるの?」
「当たり前だ、アル中でジャンキーになれるくらいなんだ。脳味噌だってあるぞ。そうでないなら、俺はなんでこんなに苦しめられる?」
 酒を飲んでいる時の彼は、かなりのおしゃべりになる。今ではどもりも減ったし、錯乱したりすることも少なくなった。相変わらず、シュガーが欲しいと口に出すことはあるけれど、今はそれも冗談混じりなのだと分かる。
「それじゃあ、心臓があって鼓動もちゃんとしてるの?」
 狭いカウンターで隣り合って座っていた彼の方に、気紛れに手を伸ばす。意図に気が付いた彼は冗談ぽく胸を張り、着古されたコートの襟を両手で開いてみせた。
 誘われるがままに彼の胸元へと手を伸ばす。しかしその手は触れるはずの布をすり抜け、そこにあるはずの体や温度などは無く、ただ冷んやりとした空気の感触だけがしていた。
 彼が声を上げて短く笑う。
「心臓に触るなよ、くすぐってえ」
 悪戯のようにそう言った彼につられて、少しだけ私も笑ってしまった。
 彼は私の手を軽く払い、温かくも冷たくもない手のひらで包み込むようにして捕まえられる。どうやら今日の彼は調子が良いらしい。
 私から彼に触れることは出来ないが、彼から私になら触れられることがあった。それも願いを叶える魔神の不思議な力のひとつなのかもしれない。
「それで? 今日のお願いは? 何だか言ってみろよ、ご主人様」
 歌うように言った彼は、握る手に徐々に力を込めていく。きっと無意識なのだろう。
 私は笑みを浮かべたまま、冷静にお願い事を選ぶ。
「まず、手を離してくださると嬉しいのですが」
「ああ、クソ。忘れてた……」
 ぱっと手を離した彼は、バツが悪そうに顔を歪める。
 すかさず“ありがとう”と笑顔で伝えれば、彼は俯けた表情を少しだけ和らがせて、弱々しくも笑みを返してくれた。


 長く一緒にいれば何事も慣れてくるもので、彼が時にはヘソを曲げて絶対に姿を現さない時もあれば、ある日ふと現れて人のご飯を横取りしてがっついたり、思いつきで季節外れの花が見たいという願い事に、偶然にもサボテンの花を出してみた直後には急に泣きじゃくったりしても、大抵のことには驚かなくなっていた。
 それだけ一緒にいれば叶えられることと叶えられないことも大体分かってくるし、殆どの簡単な願いは言い尽くしてしまったと思っていたのだけれど、相変わらず彼は度々、願い事はあるかと毎日のように私に尋ねた。
 そしてどんなに些細な願い事でも、それを叶えることが出来て私がお礼を言った時、彼は私以上に喜んだ表情を見せるのだ。目が覚めてからおはようと挨拶をするとか、朝出かける時に見送るだとか、そんなとても単純なことでも。
 最近はよく眠る前なんかに、遥か遠く昔の、彼の色々な物語を聞く。本当か嘘かも分からないような不思議な話ばかり。けれどそれを聞いている時は、どんな現実も忘れられた。
 貧しい青年をお姫様と結婚させて本物の王様にしただとか、何千年もの未来の予言を教えたりだとか、過酷な戦場を生き延びさせたり、砂漠で一人夢を信じ石油を掘っていた男の、たったひとつの願いだった家族を取り戻させ、平凡でも確かに幸せな生涯を見送ったことなど。
 そしてある日なんの前触れもなく、自分がクソみたいなアル中の薬中になり、その願いが二度と取り消されないことを願われたのだと、教えてくれた。
「じゃあ、叶えられない願い事は無いの?」
「一国だろうが、人の命、心だろうが、何でも自由だ。ただこの世には、叶わない方が良い願い事も山程あるな」
 珍しく真面目な顔をした彼だったが、今じゃそんな心配も必要無ぇけどよと、皮肉げに笑って付け加えるのだ。
「永遠の命とかも?」
「それを願うなら、永遠に年老いない体も必要だろ」
「永遠に世界に飽きない精神もね」
「願い事が3つまでならそれで終わりだ。もうその願いは取り消せなくなるな」
 鼻で笑いながらスキットルのキャップを開けて酒を呷った彼は、一体誰のことを思い出していたのだろう。どことなく寂しそうな横顔に、いつの間にか私の胸まで塞ぐように感じていた。
 いつかその話も、彼は教えてくれるだろうか。けれど彼の全てを知るのに必要な時間に、私はいつになったら追いつけるのだろう。
「さあ、お話は終いだ。もう寝ろよ」
「……もうひとつ、お願いをしても?」
「ああ、なんだ?」
「電気、消してくれる?」
 それくらい自分でやれよと憎まれ口を叩きつつも、彼は指の一振りで灯りを消しながら、良い夢をと囁いた。
 手に持っていた空のコーヒーカップをサイドテーブルに置き、ベッドに潜り込んで目を瞑る。その瞼の裏に浮かぶのは、灯りが消える前に彼の見せた、穏やかな微笑みだった。
 明日も、彼はあんなに穏やかな表情を見せてくれるだろうか。変わらずにこんな日々が、明日もその先も、永遠に続いてくれないだろうか。
 そんな夢見たいな願い事は、言葉には出せない。言ったところで、きっと彼を困らせて、泣かせてしまうだけだろうから。
 それでも、ただ胸の中で願っていることだけでも、許されるとしたのなら……。
「……なあ、お前は俺を置いていかないでくれよ」
 暗がりからのその小さな囁き声は、夢か幻か。
 うっすらとただようアルコールの匂いと、微かに髪に触れたような、冷たくも温かくもない感触。
 私はじっと目を瞑ったまま、息をひそめる。彼の手が離れていくまでずっと、気付かないふりをしながら、溢れてきてしまいそうになる涙を堪えていた。
 お互いにまったく同じことを願いながらも、この願いが叶うことはないのだろう。それが例え、人の願いを叶え続けてきた魔神の、ほんの細やかな願いだったとしても。
 ならばせめて、彼の未来が少しでも寂しくはないようにと、私は願おう。そして、どんなに長い時間をかけてでもまたきっと、あなたに逢いに来るという約束を、彼が喜んでくれるようにと願うのは、ずるい事だろうか。
 そんな風に込み上げた感情が胸から溢れてきてしまえば、眠気なんて飛んで行ってしまった。
 目を開けた私は、さっきまでそこにいたはずの彼を呼び止めるようにして声をあげる。そうしてかけた布団をはねのけて起き上がり、まっすぐに伸ばした手で、魔法のカップを掴んで触れた。



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