星が落ちてきそうだと思う事があるなんて予想すらしていなかった。微かに空が白みはじめるより少し前に目を覚ました私は凍えるような寒さの外に繰り出し、階段に腰を掛けてただ空を見上げていた。まぶたが熱くなってくる。なんて、なんて大きくて美しいのだろう。
 北海道の空は稲妻町の空とは比べ物にならない程に澄んでいて、肌を刺すような冷たさは不浄な物など知らないようだ。空が明るんでいく。照らし出される真っ白な雪には足跡一つない。昨日の夜も雪が降ったのだろう。
「寒くないのかい」
 私が吐き出す息と、朝日に照らされた雪の反射だけだった世界は直ぐに終わりを告げた。
 振り返ると見た事もない赤い髪が印象的な男の子が微笑んでいた。寒くないのかと問いたいのは此方だ。とても顔色が悪い。雪よりも白い、というか暗い。
「寒いに決まってるでしょ」
「それもそうだ」
 見知らぬ少年が寒そうに肩をすくめた。思わず腕を寄せそうになっているのに気がついて止める。寒さは増してなんかいない。もう朝日は顔にかかる程にのぼってきている。
「君はこんな朝早くから一人で何を?」
 それも此方の台詞だ。わざとなのだろうか。
「別に……、ただ、ただ綺麗だから……」
「うん」
 続きを促すような相槌に従って言葉の続きを探す。綺麗だから……、綺麗だから、……そもそもこれで理由になっているのでは?
「綺麗だから、見てただけ」
「それなら外じゃなくても良いじゃないか」
 ……。何だ此奴。何でさっき会ったばかりの人間にそこまで理由を問い詰められなくちゃいけないんだ。流石にムッとしたので目を細めて少年を見れば、視線に込めた怒りに気がついたのかまた肩をすくめた。
「ごめんって。もしかしたら俺と同じなんじゃないかと思っただけなんだ」
 立ったままの彼の顔ももう日に照らされている。暖かな色に包まれても相変わらず来た時と同じくらい顔色が悪い。目があうと彼は目を細めた。泣いているようだ。
「ちっぽけなんだよ、私達。明日も明後日も朝は来るけど、それに私は関係ない。でも私はいっぱいいっぱいで……なのにもう朝だよ、遠い……遥か遠くって言うのかな……」
 広い雪原を穢すことも、太陽がのぼることも私には出来やしない。全部全部、私の事なんか知りやしなくてとても大きくて遠い存在なのに、この星の命運は私達の、みんなの肩に突然のせられた。
「そりゃ地球からすれば、俺たちなんて何でもないだろうからね」
 そう、そうだ。私なんか小さい。そんな事は分かっているけど、そんな小さい私には大きすぎる悩みだ。
「じゃあ君も感傷に浸りに来たの?」
「嫌だな、君と一緒にしないでくれ」
 言葉こそ否定だが、彼も大して変わらないだろう。あんな表情をしていたんだ。きっと彼もただひたすらに美しくそして無情な星の下で泣きたくなるタイプの人間に違いない。と言う事は、彼も何かしらのストレスを感じているのだろうか。当たり前か。この北海道の白恋中学にもエイリアからの破壊予告が来ているのだ。
「ねぇ……、宇宙人もさ、こんな気持ちになったりすると思う?」
「……どうだろうね。なるんじゃないかな」
 さっき君も同じだろうと尋ねた時は否定した癖にツメが甘いものだ。にしても彼は宇宙人にかなり寛大らしい。同じように美しいと感じ、同じように寂しくなるような心があるのなら、どうしてあんな事が出来ようか。彼らはきっと、この景色と同じだ。
「私はそうは思えないな……、君は優しいんだね」
「そんな事、ないよ」
 消え入りそうな声。振り返るとそこには、片道の足跡だけが残されていた。


 終わらない宇宙人との戦いは続き、北から南へ私たちは九州まで来ていた。訪れた福岡に現れた宇宙人の中に、あの日と同じ顔色で、けれどあの日よりも何倍も辛そうな彼がいた。圧倒的な力で雷門サッカー部のみんなを痛めつけているくせに、力を持っていてそれをおおいに発揮しているくせに。
 救急車のサイレンの音が聞こえる。ああ、また負けた。まだ、続く。宇宙人たちは満足したのかもう宇宙へと帰るつもりらしい。
「宇宙人ならもっと、ちゃんと、宇宙人らしくしてよ!」
 もう二度と会えないであろう事を少し寂しく思っていたのに。このように会わなければいけないのなら、あの日彼は私に声をかけるべきじゃなかった。私の叫びも虚しく、宇宙人達は瞬き一つする間にいなくなった。


 何と馬鹿馬鹿しい事か。宇宙人達は、利用されていた人間だった。彼らは私達と同じ力がない筈の子供に過ぎなかった。悩みの種だった宇宙人は人間で、ただの人間の彼らにようやく勝った私たちはもう手放しにそれを喜べる自由を手に入れた筈なのに。
 崩れ行く宇宙人達の拠点から脱けだすバスの大きな揺れに揺られる私達と、元宇宙人。その弱り切った表情の何て人間くさい……。
 ああ、最初から人間だったんだっけ。
 赤い髪の彼は調子が悪そうに監督に支えられている。この気持ちは何なのだろう。どうして苦しいのだろう。もう、帰るだけなのに。




 本当にもう二度と出会う事はないのだろうと思っていたのに。
「やあ」
 こんなに軽々しく声をかけられるものなのかと驚いたが声音ほど軽い気持ちではないらしい。情けなく眉を下げて、でも微笑んでいる。顔色は少しだけ良くなっているように思えた。そう、良くなっているんだ。そうなんだ。
「怒ってるかな、」
「別に。……私は苗字名前」
 今の彼が身につけている日本代表のジャージは夏の空のようで眩しい。今まで見てきた中じゃ、多分一番似合ってる、と思う。
「俺は基山ヒロト……、よろしく苗字さん」
 差し出された手を握る。想像していたよりも、あたたかい。人間だ、生きている、当たり前だけど彼は生きている。ずっと生きていた。
「君の悩みはまだ晴れないのかい」
「はぁ?」
「分かっているんだろう?北海道で見た時と同じに見えるよ」
 そう言って笑う様は悪戯っ子のようで、それでいて晴れやかだ。誰のせいか分かっているのだろうか。少なくともこの町に帰ってきてから、彼を雷門のグラウンドで見つけるまでは今の彼と同じくらい晴れやかな表情をしていた自信がある。
「……もう大丈夫かも知れない」
「へぇ?どうして?」
「言わないよ。君……、基山くんは練習があるでしょ。早く支度行きなよ」
 そう言って彼の背中を軽く押すとはい、はいと肩をすくめるので思わず笑ってしまった。
 それに反応して少し不機嫌そうに眉を寄せている基山くんの事を、今の私はちゃんと人間だと受け止められている。空よりもずっと近くて、星よりもちっぽけで、必ずやってくる朝よりも不確か。多分、北海道の夜空を見上げれば心を動かされるような、そんな人。



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