この仕事についてからずっと側にいてくれた彼はもういない。
ずっと一緒だったのに。一瞬の、私の判断ミスのせいで失ってしまった。
いつも並んで座ったこの縁側も、右隣ががらんとしている。
頭ではわかっているけど、ついつい彼の分までお茶の準備をしてしまうなんて、いやはや習慣とは恐ろしい。
……なんて、言える余裕は私にはない。みんなに心配をかけてるのも分かっているし、私の仕事が滞ることは許されないこともわかってる。それでも、何も手につかないのだ。

「山姥切くん、ごめんね……」

ぽつりとこぼれ出た言葉は誰の耳に届くこともなく虚空に消えていった。


隣の空白


私たち審神者は各自の本丸に赴任する際、政府から1振の打刀を賜る。それを私たちの間では初期刀と呼んでいるのだけど、私が選んだのは山姥切国広という刀だった。霊刀・山姥切の写しではあるが、この刀匠の第一の傑作だと言われている。
どんな子なのかと楽しみにしていたら、顕現した彼を見て驚いた。薄汚れた白布の中から自信なさげに、けれどしっかりと私を見る美しい顔が覗いていた。

「山姥切国広だ。写しの俺でよかったのか?真作の蜂須賀虎徹もいただろうに」
「はじめまして山姥切くん。名前です、よろしくお願いしますね。私は貴方がよかったので、蜂須賀さんには悪いですがまたの機会にということで」
「写しなんて見せびらかしてどうするんだか……」
「山姥切くん、その布邪魔なので外しましょう。綺麗なお顔が見えないですし」
「綺麗なんて言うな。それにこれは外すわけにはいかない」
「えー、せっかく綺麗なお顔なのにもったいないじゃないですか」
「だから……もういい」

これがはじめて交わした会話だった。
私はもちろん緊張していたし、山姥切くんも緊張していたんだと思う。いや、ひょっとしたら警戒されていたのかもしれない。
だからその日から毎日縁側に彼を呼んでお茶を一緒に飲むことにした。少しずつでいいから彼と打ち解けたいと願った私のわがままに彼は最初拒絶を示したけれど、徐々に折れる形で何も言わなくても隣に座ってくれるようになった。
2人きりだった本丸も少しずつ賑わっていった。
はじめは何も考えなくても彼が近侍だったけれど、太刀の人や大太刀の人が増える度に彼は不安を窺わせた。

「名前、写しの俺がこのまま近侍でいいのか?」
「私は構いませんが、山姥切くんは嫌ですか?」
「嫌というか……俺なんかよりも優れたやつらがもうこの本丸にはいるだろう。いつまでも俺を近侍にしておく必要はない」
「そうかもしれませんね。でも私は貴方がいいのです。他の誰でもなく、山姥切国広。貴方だけに側にいてほしいのです」
「名前……」

小さくありがとうと聴こえた気がしたけど、何も聴こえなかったフリをした。きっと彼は望まないだろうから。
彼と共に過ごすこの時間が私はとても居心地がよくて。だから近侍から外せないのだと思っていた。こんな簡単なことに気づけないなんて私は彼よりもずっと人間らしくなかった。
気づいたのは彼の最期の言葉を聞いたときだった。
その日もいつものように彼を隊長として出陣してもらった。ただ、その日はいつも主力としているメンバーが彼以外は疲労が溜まっていたのでお休みしてもらって、代わりに最近来たばかりの蛍丸くんと短刀くんたちと一緒に出てもらっていた。
いつもどおり、みんな無事に帰ってくると思っていた。でも、考えの甘さを思い知った。
玄関から響く短刀くんたちの声にただならぬ様子を感じた私は自室から転がりでるように玄関まで走った。
そこには騒ぎを聞きつけた刀剣たちが集まってきていて、それでも私の姿を見るとすっと道を開けた。
その先には血まみれの彼がいた。一緒に出陣していた五虎退ちゃんと今剣ちゃんは泣きべそをかいていたし、乱ちゃんと薬研くん、蛍丸くんはここまで彼をかついできてくれたようで、血に汚れていた。
慌てて駆け寄って、横たわっている彼を抱き寄せた。

「山姥切くん……!」
「名前……すまない」
「どうしてこんなことに……!急いで手入れ部屋へ!」
「もう、手遅れだ……わかっているんだろう?」
「でも、でも!私山姥切くんがいなきゃ……」
「名前、聞いてくれ」
「そんな、やだよ……私、山姥切くんいなきゃだめだよ」
「こんな、写しの俺を側に置いてくれたこと、ずっと感謝してたんだ。俺なんかより、近侍に相応しいやつはいっぱいいるだろうに俺を選んでくれたこと、嬉しかった」
「山姥切くん……」
「写しの俺なんかが言っていい言葉じゃないのは分かってる……でも、最期だから言わせてくれ。名前、ずっと好きだった」
「えっ……?」
「はじめは、疎ましかった。でも、いつも俺に向けてくれる笑顔が徐々に嬉しくなっていって、お前を見ると気づいたら胸の真ん中が温かくなっていて、これが好きという感情なのかと思った」
「そんな、」
「写しの俺が、いや、刀の俺が主であるお前を好きになるなんて許されないことはわかっていた。でも、どうしても伝えたかった……最期に名前に触れられてよかった……」

そっと私の頬に触れていた手がぱっと光となって弾け散った。私の腕の中にはぴしっとヒビが入り、ぼろぼろになった刀だけが残った。
ぽろぽろぼたぼた。涙が頬を伝って山姥切国広に落ちた。鈍くきらりと輝くだけで、愛しい彼の声はもう聞こえない。
この時ようやく気づくことができたのだ。私はいつの間にか彼を恋い慕っていたことに。

その後薬研くんから聞いた話によると、彼は短刀の子たちを守ったことで致命傷を負ったそうだ。
いつものように歴史修正主義者たちを殲滅後、本丸に帰ろうとした時に奇襲があったらしい。当然背後を取られ満足に陣形を整えることもできないまま戦うこととなり、戦場に慣れていない五虎退ちゃんや今剣ちゃんはパニックを起こして危ない状況に追い込まれていった。そんな時に彼は自分の身を呈して2人を守ったのだ。自分だって傷つき疲弊しているはずなのに、迷いなく彼は飛び込んでいった。
五虎退ちゃんと今剣ちゃんは幾度となく私にごめんなさい、と泣いた。私も2人は悪くないよと言いながら泣いた。
山姥切国広は、私が知らず知らず愛していた彼はとても仲間想いの優しい人だった。

「主殿、どうか、五虎退と今剣のことを許してやってはもらえませんか?」
「俺っちからも頼むぜ大将!」
「名前ちゃん、僕からもお願い!」
「もちろん、許しますよ。2人は悪くありませんから。ただ、しばらくは1人にしてください」

一期一振や薬研くん、乱ちゃんにそう告げてからもう1週間は経過し、今に至る。
何も手につかなくて、彼のいない世界は色褪せて見える。お茶も美味しくない。ただ、無機質な世界だった。

「名前ちゃん!早く、鍛刀部屋に来て!」
「乱ちゃん?」
「いいから早く!ほらほら!」

突然ばたばたと走ってきた乱ちゃんに手を引かれ鍛刀部屋に向かう。
そこには愛しい彼の姿があった。

「山姥切国広だ……写しの俺がまたここに帰ってこれるとは思わなかった」
「山姥切くんっ!」
「ただいま、名前」

ぎゅうっと勢いよく抱きついた私を彼は難なく受け止めてくれた。
今度こそ、失うまいときつくきつく抱きしめた。

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