海の唄
「舵を切れ! 早く!!」
「そっち! 第一マスト引け! さっさとしろ!!」
船上に怒号が満ちる。だが、それをも掻き消す勢いで風が吹き荒れている。痛いほどの勢いで雨粒が降り、常人なら目が回るほど船は上下に揺さぶられる。
大嵐だった。突如現れ船を飲み込んだその嵐は、まるで伝承の「海の魔女」による物のようで。
人がどたばたと走り回るその最中に、イドルフリートは一人佇んでいた。頭のてっぺんからびっしょりと濡れそぼり、それでもそこから動かないまま突っ立っている。
航海士の中でも末端として雇われた彼は、元から力仕事など求められていない。腕も細く満足に仕事もできそうではなかった彼を乗せたのは、一重に一等航海士に才能を見初められてのことだった。
それでも下っ端など仕事を覚えるのが仕事の様な物で、船の上で役に立つことなどほとんどない。船の進路に口を出すことすらできぬ、それなりに肩身の狭い地位ではあるもののイドルフリートが気にしていないのならなんのことはなかった。
それに結局、嵐に見舞われてしまえば航海士ができることなどほとんどない。精々どの方向に船を奔らせれば一刻も早く嵐を抜け出せるのか、その算段くらいなものだ。その判断に、まだ未熟なイドルフリートは必要とされていない。
それでもなお甲板に立っているイドルフリートに行き交う船員たちは苛立たしげな眼を向ける。直接「邪魔だ!」と怒鳴りつける声も聞こえる。今役に立たないひよっこは船室にこもって怯えていればいいとでも思われているのだろう。
その全てを意に介さず、イドルフリートは揺れる船から海を覗き込んだ。
普段とは違い黒々とした水を讃えた海面は酷く荒れている。飲み込まれそうなその深さを見下ろして、イドルフリートは耳を澄ませた。
波、風、叩きつける雨粒、そして船員たちの怒鳴り声を断ち切って、更に耳を澄ませる。そうすれば、本当に聞きたいものが聞こえるのだ。
“其れ”は、歌だった。
其れは悲鳴だった。其れは泣き声だった。それら全てを呑みこんで、歌が聞こえるのだ。
他の者には聞こえぬ声を聞き取るのは、イドルフリートの才能だった。風がこれから何処へ吹き渡るのか、潮が何処へ至るのか。一等航海士に目を掛けられたのも、その耳のおかげと言っていいだろう。
歌いたかった。それを聞いて欲しかった。そう唄う彼女の嘆きを、彼は聞き取った。
「聞こえているよ、お嬢さん」
海に向かってそう囁くと、さっと歌が止んだ。まだ嵐は続いているが、其処から一瞬歌が途切れた。それに気づいているのも彼ぐらいなものだろうが。
「そんなに大声で歌わなくても私には聞こえるよ。君の美しい歌声も、そんなに叫ばれては逆に聞き取れない。もう少し小さな声で歌ってくれないか」
数瞬の空白の後、歌と同じ透明な声が囁いた。
『……私の歌、聞こえてる?』
「聞こえているよ。辛かったね、家同士の権力争いに巻き込まれ、海に落ちてしまったフロイライン。私には君の憾みが聞こえているよ」
嗚呼、と彼女は泣きそうな声で呟いた。
『私の声、聞こえているのね。私が歌うと嵐を呼ぶの。でも歌いたかった。誰かが聞いてくれるだけでよかったの、貴方だけは、私の歌を聞いてくれたのね……』
嬉しい、と言う彼女の言葉に、イドルフリートもそっと微笑んだ。
背後の船員たちは、彼らに気づいてはいないようだ。依然、自然の猛威と闘い続けている。
「君の清んだ歌声はとても耳に心地よい。けれど、このまま嵐が続くのは困るんだ。皆君と同じように海に呑みこまれてしまう」
一際高い波に揺られ、イドルフリートが咄嗟に縁を掴む。困ったように押し黙った彼女に、彼は更に言葉をつづけた。
「だから、もっと明るい歌を唄ってくれないか。できるだろう? 君は至高の歌姫なのだから」
『――私は、至高の歌姫にはなれなかったのよ』
「至高の歌姫になった彼女だって、潮風の中で歌を唄ってなどくれないさ。船で生きる我々にとっては、君こそが最高の歌姫だ」
『……歌えるかしら』
「歌えるさ。天気のいい日に君の歌声が聞こえてきたら、なんてしあわせなことだろうね。航海にも箔が付くというものさ。いかがかな?」
イドルフリートの励ましに、彼女は一瞬口をつぐむ。一瞬だけ。渡された希望を吸いこむ様に。
『……ええ、やってみる。そうよ、私はもう歌う事しかできないけれど、呪いの歌を唄わなければいけないわけじゃないもの』
最初の哀しげな声色から一転して、嬉しそうに彼女は言う。そうさ、と彼は笑った。
ありがとう、また嵐が起こったらごめんなさいね、と言い残して、其れきり声は途絶えた。
しばらくして、船上がどよめく。
「晴れてきたぞ!」
さあっと雨がやみ、遠い雲間から日光が差し込んでいる。心なしか風も和らぎ、海は深い蒼を取り戻そうとしていた。
暗い船内に篭っていた航海士たちも外に出て目を細める。一等航海士はこんなに早くやむ様な嵐では無かったのに、とちらりとイドルフリートを見遣る。船員たちは互いの背中を叩いて健闘を讃えあっていた。
嵐を乗り越えた空を白鴉が飛んでいく。その翼を乗せるように、海上に歌が響く。朗らかな歌声が地平線を超えて遠くまで至る。
やがて船員の誰かが神に祈りはじめる。つられ、信心深い船乗りたちは揃って十字を切る。主の導きで、嵐は去ったのだと。神父が聖書を取りだした。
当のイドルフリートは、なんだ歌えるじゃないかとひとり呟いた後、濡れた身体を拭く為に船室へ踵を返した。
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