さよなら微笑み
冷たい、夜だった。
暗い森の中でついに後ろから怒り狂った追手たちに追いつかれ、仕方なく戦闘に突入した。
視界も悪ければ足場も悪いが、悪条件は向こうも一緒。微かな月明りを頼りに周りを見渡す限りでは味方に犠牲者が出た様子もなく、安心していた矢先だった。
辺りには剣を叩きつける金属音と怒号が満ちている。目の前の一人を切り倒してさっと辺りを見渡す間にもまた横から剣を振りかぶられ、そいつに向き直る。
彼らは怒りに満ちてこそいたが技量はそれほどでもなかった。勢いと人数に任せて向かってくる彼らをいなすのはそう難しくない。周りを囲まれたら危なかったかもしれないが、木々が生い茂る森の中だ、取り囲むのは難しい。
視界の隅で金髪が翻り、そっと口角を持ち上げた。麗しの航海士殿も奮迅しているようだ。戦場を駆け回る彼に敵だけではなくこちらまで翻弄されそうだ、とぐっと気を引き締め、目の前に集中する。
相手の剣を跳ね上げ袈裟懸けに切りつける。生憎、直ぐ近くに立っていた敵はそいつが最後だったようで、微かに剣を落とし周りを見渡した。次なる相手を探す為に。
その時だった。
突然、背後から悲鳴が響いた。蛮族の粗野な言葉ではない。仲間の、イスパニア語だ。
思わず血相を変えて振り返った。もし剣を切りつけ合っている最中だったら確実に切られていただろう。だが今はそんなことを気にしていられない。目の前を塞ぐように暴れ回る敵どもを押しのけ切り付けながらそちらに向かう。普段ならそんな愚行は犯さないが、今回ばかりは。
最初に聞こえた悲鳴の声で、誰かが必死に航海士の名を呼んでいるのでなければ。
敵の数が減ったことでさっきよりも視界が開けていた。だが肝心のイドの姿が見えない。煌めく金と、強かな笑顔が見つからない。
押しのけられよろめいた敵は周りに居た仲間に切り倒され、いつの間にか数えるほどになっていた。
まるで沼で泳いでいるかのように手足がのろのろとしか動いていないような気がする。
やっと、やっとのことで悲鳴の元にたどり着くと、まだ若い仲間が涙目でこちらを見上げてきた。
「将軍! 将軍、イドさんが……」
努めて平静を装って、俺は其処にしゃがみ込んだ。
一瞬だけぎゅっと目を瞑り、そしてまた開ける。目の前の光景が見間違いであることを祈って。
無論、そんなわけはなかった。
背後から冷たい刃に刺されたイドルフリートが横ざまに倒れていた。長い刃渡りは彼の腹を貫通して緋に塗れて突き出ている。イドルフリートはまだ意識があるのか、ゆっくりとこちらに目を向けた。それが善い事なのかはわからないけれど。
「将軍!」
背後から声がかかる。そっと目をやると、ベルナールが血濡れの剣を持って立っていた。
「全員掃討しました。軽傷の者が数名出ていますが、命に別状はありません。ですが……」
そこで言葉を切ると唇を噛む。見上げていたイドルフリートが弱々しく言葉を引き継いだ。
「私はもう……駄目だな」
「イド」
「油断していたよ。私としたことが」
「イドさんは、俺を助けて、それで」
泣いていた若い船員が絞り出すように訴える。それに頷いて、俺は言った。
「それでも背後に気を配らなかったイドの責任だ。お前が気に病む事は無い」
「そんな……!」
「彼の言う通りだよ。自分の面倒も見れないのに他人を助けようとした私のミスさ」
死に至る傷を負っているというのに、イドルフリートは至極冷静だった。ベルナールが酷く落ち込んだ様子の船員の肩を抱き、立ち上がらせて連れて行く。
「コルテス将軍、君たちは早く行きたまえよ。追手がこれだけな訳が無い」
「……お前はどうする」
「放っておいてもすぐに死んでしまうさ。それとも君が止めを刺してくれるとでも?」
こんな時にまで笑えない冗談を、と口をつぐむと、言った本人が弱々しく笑みを浮かべた。
「他の仲間は無事なんだ。これからどうすればいいかぐらい君ならわかるだろう。何をぼうっとしているんだ。早く出発したまえよ!」
イドルフリートの語気がだんだん荒くなる。ベルナールが促す様に俺の名を呼んだ。
「コルテス将軍」
「ベル、」
「はい」
「他の奴らをつれて、先に行っててくれないか」
「将軍?」
ベルナールが焦った声を出した。目の前のイドルフリートもそれは同様の様で。
「何を言っているんだコルテス、君も一緒に行きたまえよ」
「すぐ追いつくから。ベルナール、とりあえずお前がリーダーに立っていてくれ」
「……分かりました」
「ベルナール!」
叫ぶイドルフリートを余所に、ベルナールが号令をかける。その瞳に迷いは見えない。彼が最善だと判断した上での選択だったのだろう。落ち込んだ様子の船員たちもそれに続いて駆け足で走っていく。それを見送り、俺はイドルフリートに刺さっている剣をゆっくりと抜いた。今さらどうしようもできないのだから。
ずるりと嫌な音を立てた剣を遠くに放り投げ、改めてイドルフリートを抱き上げた。
「低能が、何をやっているんだ」
「お前一人置いていける訳ねえだろ」
「何を……」
「淋しいのかなんだか知らねえが、そんなに泣かれちゃあな」
「は、」
確かめようとのろのろと腕を持ち上げるイドルフリートに代わって親指で彼の頬を拭う。その滴をみて、イドルフリートは諦めた様に力を抜いた。
「エルナン」
「なんだ」
「いつまで、」
「お前が死ぬまで」
抱き寄せた身体は軽かった。もう既に血がほとんど流れきっているのだろう。彼の身体を支えている足がじっとりと湿っていくのが解る。
力なく俺の胸に顔を寄せたイドルフリートはじっと目を伏せていた。浅く胸が動いてるから辛うじてまだ生きているとわかる。
「痛むか?」
「もう、痛まないよ」
「そうか、それは……」
よかった、などとは言えなかった。痛みがあれば、まだ助かる余地があったかもしれないのだ。それでも、まともな医療器具がないここでは何もできなかっただろう。なら、最初から無理だとわかっている方が諦めがついたのだろうか。
「くやしい、な」
「そうか」
「悔しいよ。置いてきた娘が私の帰りを待っているだろうに……。君と、この地を征服する瞬間を見たかったのに」
ぽろ、と大粒の涙がこぼれる。それを拭う力も残されずに、イドルフリートは嗚咽した。
「私は此処で死ぬんだよ、エルナン。航海士のはずなのに、海じゃなくて陸で死ぬんだ。私が嫌って飛び出した、故郷の様な森の中で」
「イドルフリート」
彼の視界を遮るように覆いかぶさる。額に何度か唇を落とすと、イドルフリートが瞬いて見上げてきた。
「大丈夫だ、イド」
そう囁くとイドルフリートは哀しげに微笑んだ。
「そうだな、お前が、いるから」
此処はお前の腕の中だから。
哀しいけど辛くない、と笑った。
そうして、瞳を閉じた。
「……イド」
そっとゆすっても、彼はもう起きなかった。
血に濡れた脚がじんわりと冷えていく。
それを看取って、俺はイドルフリートの身体を地面に降ろした。髪を撫で、彼の涙をぬぐう。そうしてから彼の腕を取って胸の上で指を組ませた。彼が肌身離さなかった十字をその手に持たせる。
軽く衣服を整えれば、彼の屍体は目を見張るほどに美しかった。僅かながら微笑んでいるように見えるのは気のせいでない、と思いたい。
そっとその頬に手を滑らせて、軽く開いた口に口付ける。
「Adios,Idolfried」
いつの間にか滲んでいた自分の目を拭って、俺は立ち上がって仲間たちの後を追った。
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