僕の獣





 其処に行こうと思ったのは本当に気まぐれだった。
 起床して妻たちとゆったり朝食を取りながら隣に立った男に今日は特に用事がないことを告げられた時、ふと彼のことが思い出されたのだ。そういえば、僕と彼女たちを引き合わせてくれた白い肌の屍揮者は今何をしているだろうかと。
 気になったらすぐに実行に移したくなるのが僕の性質で。生憎天気は曇り空で、狩に行くにも散策をするにも少し都合が悪い。思い立ったが吉日、森を分け入って恩人と言ってもいいだろう彼の顔を見てくることにした。
 妻たちにもそう告げると口々に私達も彼に逢いたいという。だけど深い霧の森を抜けていくのはなかなかに骨の折れることで、いくらお転婆な少女であっても危ないことに思えたので今回は置いていくことにする。頬を膨らませた彼女たちに、その代りできれば彼を城に招待することを固く約束させられた。
 僕が出かけると聞いて侍女や付き人やらがあたふたと準備をしようとしたがきっぱりと断る。彼に会うのに王族の礼式を重んじてもしょうがないし、できれば人には言いふらしたくない関係だから。せめて礼装を、せめて手土産を、とついて回ってくるのをうっとおしく思いながら振り払う。せめて三人護衛をつけてほしいとなおも言い募る兵士長をどうにか言いくるめて一人で出発することに成功した。
僕の放浪癖にはみんな諦めているらしく、厩舎に行くともう何も言わずに白馬を出されたけれどまあ気にしないことにする。いちいち適当な嘘をつくのも面倒くさいので何も言わずに門を潜った。
 城のみんなとは対照的に僕の馬は上機嫌だった。単調な道をただ歩かされる毎日に飽き飽きしていたらしい。楽しげに小川を渡り、濡れた苔の上を進んでいく足取りは軽い。
 彼に会いに行くのに道筋は関係ない。招かれるものが招かれ、それ以外は惑うだけ。僕に限っては二回も呼ばれたのだからずいぶん気に入られてると自惚れてもいいはずだ。そう考えているうちにも霧がだんだんと濃くなり視界を閉ざしていく。馬がかすかに怯えて震えたのを首を叩いて宥めた。ふらふらとしだす足取りを強く手綱を握って押さえる。
 霧が出ると昼間でもまるで夜のように薄暗くなって、真っ暗な空とあたりを照らす不自然な光源が酷く異世界的だ。何度か訪ねてきたけれどこの雰囲気には未だ慣れず、思わず身震いした。このまま手探りの状態で進んでいけば彼の下へ出られるはずだ。一面の墓場と突き刺さる十字、そしてその中心に佇む井戸が――
 「おや、」
 なんだか今回は妙に早い。すぐに周りに現れだした墓を見下ろしながら眉を潜める。早いだけじゃなく、なかなか井戸にたどり着かない。いつもなら墓場に入ってすぐに彼のにやにやと笑った顔が出迎えてくれるというのに。
 違う、そうじゃない。この場所だけは絶対に変わらないと信じていたから気付かなかったのだ。屍体が変わらないように、恒久のものだと思っていたのに。
 墓が増えているのだ。それも一つや二つではない。何十もの屍体が、増えている。驚いて馬を下りて近づいてみるとみな同様に朽ちていて、どれが増えたものなのかわからない。其処に個人というものはない。押しつぶされた均一さに囲まれていた。
 そういえば、彼の踊手も姿を見せない。普段はゆったりと廻りながら此方を覘いているのに。彼らもまた、この墓のようにみな等しかった。
 どうも何かがおかしいようだ。変化からは程遠いように見えたこの場所で何かが起こっているのは認めざるを得ないらしい。



 とりあえず、彼らの主であるメルヒェンに話を聞けばわかると思ったのだが。普段の倍もあるように感じられた墓場を抜けてたどり着いた井戸に彼の姿はなかった。あるのは朽ちた人形と、骨だけ。
 まさか彼が死んでしまうとは。死んでも死なないどころか、もともと死んでいる存在だったのに。
 信じられないような気持ちでばらばらと落ちた骨をよく見ようとしゃがみ込むと、赤い花が目に付いた。薔薇だ。井戸に纏うように咲き誇るそれは、この墓場の唯一の手向けのようで。
 散らばった骨は子供のもののようだった。細いそれらをひっくり返して確かめる。でも屍揮者の姿はない。それに、彼が人形を遺して何処かに行くとも考えられない。だから多分、メルヒェンの骨。
 暫く呆然として佇んだ。
 飄々として掴みづらい男だったが、悪いモノではなかったように思う。生死の境すらはっきりとはしていなかったけれど、いつだって少女人形を抱いて楽しそうに笑っていたのに。
 驚いた。悲しみはしなかった。ただ、姫君たちががっかりするだろうなとは思った。
 その後も未練たらしく井戸の周りをぐるぐると回ってみたが無論それで彼が出てくることはない。
 ようやく諦めて井戸の縁に腰かけた。馬は墓の一つにつながれて不安そうにあたりを見渡している。うろうろと足を踏み鳴らしていてほんの少し可哀想だ。早く帰らないとなあ、とは思いつつもなかなか立ち上がることができなかった。
 ため息をついて見上げた空はなんだか白けているような気がした。あけぼのだ。星々が端に追いやられて、宵闇の森に朝が来ていた。
 朝が来たから彼らはいなくなったのか、彼が立ち去ったからこの森に朝が来たのかは判然としなかった。ただ、朝が来ていた。
 その時。
 聞きつけたのは偶然に近い何かだった。よくよく耳を澄ませないと聞こえないそれは、誰かの叫び声に聞こえる。思わず立ち上がってあたりを見渡しても、あたりに何かが隠れられる場所はない。どうやら井戸の底から、男の叫び声が聞こえるのだ。
 メルヒェンの声に似ている気がしたが、彼とは違うような気もする。井戸に反響してくぐもった声は、まるで地獄からの亡者の怨嗟のようだ。こんな深い井戸の底に誰かいるようなのが、僕の興味を引いた。
 深い穴を覗き込むと、少しでも昇り降りしやすいようにか壁に足がかりがついている。一瞬逡巡して、思い切って脚を降ろした。



 井戸の底は暗く冷たかった。冷えた壁を掴んで悴んだ指をこすり合わせる。微かに上から降りてくる幽かな明かりだけを頼りにあたりを見渡すと、井戸の直径より多少広い程度の空間が広がっていた。ひやりとした空気が首筋を撫でる。
 じめじめと苔生した壁に踏みつけると水分が滲み出てくるような地面。そして、
 「君は……どうしたんだい?」
 叫んでいたのは、月光のような金髪の男。彼の屍人がつけていたような艶美な仮面のせいで表情はうかがえないが、どうも理性があるような様子もない。狂暴な唸り声を上げる彼だけ鎖に縛られて此処にいたのだ。独り。
 「独り? どうしてこんなところに……」
 一応訊ねては見たが、まともな答えなんて期待していない。こちらに気付いているのかすらあやふやだ。
 彼は酷く怒っているように見えた。何に怒っているのか、彼を縛り付けた何者かか、縛り付けられた要因か、その対象すらも曖昧に。
 手を伸ばしたら噛みつかれそうな、獣のように鋭い気配。
 すっきりとした美しい顎の線と暴力的な唸り声のコントラストに思わず眩暈がした。
 衝動だ。
 井戸の底に濾し取られた彼らの残滓。衝動そのものが体を伴ったとしたら、屍揮者の男よりは、怒りに満ちた此方の方がしっくりくる。
 がちゃがちゃと鎖を引きちぎりそうなほど暴れる彼が、こんな狭い井戸の底に縛り付けられているのはとても滑稽だった。相手の身動きが取れないのなら、自分の喉笛を狙っている牙もすべてが愉悦にしかならない。
 「イド」
 呼んでみると意外にもしっくりきた。井戸の底の衝動の男。彼を表すのにぴったりじゃないか。
 「ねえ、僕のものにならないかい?」
 こんなに楽しい気分になったのはいつぶりだろう。理想の花嫁を探していた時とは違う、冥い高揚感が唇の端を釣り上げる。
 顎に添えた手は容赦なく振り払われた。ますます笑みが深まる。
 この獣を飼い馴らしたらどんなにか楽しいだろう。愛玩動物などではない、正真正銘野生の猛獣だ。
 しかもわざわざ城に連れ帰らなくても、この深い井戸と鎖が彼を捕えておいてくれる。それは素晴らしい考えに思えた。
 彼の首に巻きついた鎖を引いて無理矢理顔をこちらに向けさせる。怒りに剥かれた犬歯が白く眩しい。
 「愛してあげるよ、イド」
 


 そして獣の檻は鎖じられる。


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