――へ至る
ざく、ざく、ざくという音で目が覚めた。
目が覚めたというのは正しくない表現だ。目は開いていたから、気がついたというのが当てはまるか。
ふと意識を取り戻すと、暗い森の中をただひたすらに歩いていた。
靴は夜露を吸い込みじっとりと重く、足を下ろす度に陰鬱な音を響かせる。
こわばった首を持ち上げ頭上を見ても、鬱蒼と茂る木々の間から明かりは漏れてこない。月の光すらもない真っ暗な夜のようだった。
それなのに周りは真昼の様にくっきり見える。まるで黒い硝子板を透かして見た景色のような、不安になる光景だった。
そもそも自分は何処へ行こうとしているのか。
足取りは酷く重いのに、立ち止まることもしゃがみこむことも許さない様に動き続けている。身を捻じって元来た道を振り返りながらも、自分の意志とは関係なく体は前に進んでいく。
このまま進めば、いったいどこへたどり着けるというのか。
鳥の声すら聞こえない不気味な森に囲まれて高鳴る鼓動は、恐怖か、期待か。
足音がだんだん軽くなり、沈み込むような感触が硬くなり。いつの間にか道は苔生した石畳に変わっていた。
両手の木々が開け、気が付けば小さな広場のようなところについていた。
広場というには少々小さい、どちらかと言えば庭、か。
遠くからではまったく気づかなかった小さな教会に、それを囲むように簡素な墓がいち、に…ななつ。
そして中央に、すべての主のような顔をした井戸が在った。
(―――井戸)
ずきんと頭が痛んだような気がした。
思わず首を振るが、一瞬針で刺されるような痛みは断続的に襲ってくる。
既視感、それは周りの暗闇と相まってがんがんと頭を内側から叩いてきた。
そういえば、前も、こんな暗闇の中で。
(―――真白の肌に、薄い金髪が)
なんの音も聞こえない静寂が鼓膜を圧迫して。
(―――何か叫んでいたのかもしれない、でも)
(―――人形が倒れる様な気安さで)
「こんばんは」
背後の声に勢いよく振り返った。
おかしな雰囲気に呑み込まれていたとはいえ、そこそこの死線も潜り抜けてきた私が、ここまで他人の接近を赦すはずが無い。
他人なら。
気の強そうな目。
薄い唇。
器用そうな骨ばった手。
緩く波打った細い髪。
まるで、彼をモノトーンに落とし込んだような。
「イ…ド……」
「初めまして卿。私の名はメルヒェン・フリードホフ。メル、と呼んでくれ給え」
何かの冗談だと思った。
「イド、イドルフリート。どうしてこんなところにいる?」
「何を勘違いしているのか知れないが。イドルフリートという男は此処には居ないよ」
「何を冗談を言っている! イド、死んだのではなかったのか!」
肩をつかみ詰問する。メルヒェンと名乗った男は不可解そうな、戸惑った顔で見つめてきた。
「だから私はイドルフリートという名前ではない。人違いではないか?」
その傲慢な口ぶり。
何かを断定しようとするときに腕を水平に振る癖。
戸惑うと、髪の結目をいじる手つき。
赤の他人としては、共通する部分が多すぎて。
それでも、だからこそ、彼はイドでないことが分かった。
「……すまない。取り乱してしまった」
「誰にでも勘違いはあるものだ」
イドなら、私だとわかればこんな風にからかうような真似はしないだろう。
まして、あんな別れ方をしたからには。
(―――あんな?)
「卿、なぜ此処に迷い込んでしまったかは知らないが……。恐らく君にとって此処は一瞬の夢の間に迷い込んでしまったようなものだろう。
君のような生者が此処に来ることは本来ありえないはずなんだ」
「……何を言っているのやら。よくわからないな」
「私にだってこんなことは初めてなんだ。だが生者ならそもそも此処との繋がりの糸は細い。なにかきっかけを与えてやりさえすれば、簡単に元に戻ると思うのだが」
勝手に結論づけて勝手に頷いている。
そういう他人を慮らない所もそっくりだ、と気づいて首を振った。
彼と彼は、別人。
まだ未練たらしい自分にため息をついて、髪の結目に手をやった。すっかり彼の癖が感染ってしまったようだ。
「……ん?」
「どうかしたかい」
振れた指先が妙に温かい。
汗で湿ったのかとも思ったが、さらさらとした生地に湿り気は感じられない。
「なるほど、これが君と此処を繋いでいた糸のようだね」
そういうと、メルヒェンは私が止める間もなくそこに手をやりするりと引き抜いた。
「これさえなくなれば元居た場所に戻れるだろう。まったく、人騒がせなことだ」
「ちょっと、待て……メルヒェン!」
「二度と会うことがないように願いたいものだがね」
リボンがほどかれ、髪が鬱陶しく背に散らばった。
それを確認するまもなくぐいっと後ろから体が惹かれる様な感覚。
反射的に伸ばした手が空をつかみ、そのまま引きずられていく。
(その、リボンは)
薄暗闇の世界には不釣り合いにすら見える、赤いリボンが。
骨ばった手に握られていた。
「コル、テス……」
そうつぶやき、ふと手元のリボンに目を落とした。
この赤は、どうも彼には似合わないような気がした。
もっとほかの色だったような気がして、思わず手を伸ばしたら当たりだったのだ。
どうしてそう思ったのか、自分でも理由はわからない。だが、
「コルテスって、誰だ……?」
ぐっと握られ、赤いリボンが揺れた。
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